EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

別離 02

「逃げてももう棲む場所はない。結界が破られれば、私のような半端な鬼はすぐに見つかる。……もう、ここまでだ。後は、少しでも多くの鬼の命を救えるかどうかだ」
「そんなこと……言わないでください!」

真夏は駆け寄り、博嗣の袖を握った。温もりがある。確かに温もりがある。夢ではない。現の博嗣だった。


「あなたと夢で交わした言葉を私は信じていた。来世で会えると、あなたは言ってくれた。けれど、まだ今世の時が終わっていない。終わらせないで! あなたが生きていれば、私は……」

その時、遠くで鬨の声が聞こえた。犬の吠える声が近づいてくる。


「……来てしまったか」

博嗣はそっと真夏の手を解こうとするが、真夏は離さなかった。


「私が庇います。私の名にかけて。父の威光をもって、あなたを鬼ではないと告げることができる。だから、どうか。生きてください。現で会いたいなど、もう言いません。夢でもいい。会えるのなら。でも、あなたが死んでしまったら夢でも会うことはかなわなくなる」
「真夏……」

再び名前を呼ばれた瞬間、木々の間に射手の姿が見えた。矢が番えられた音がする。

時間がない。

真夏は咄嗟に博嗣の前に立ち、両手を広げた。


「射るな! この者に弓を向けるな! これは我が客人にして、鬼に非ず!」

大きな声が山に響く。矢を構えていた射手たちが動揺し、戸惑いの表情を見せる。

真夏の背に、博嗣の手がそっと触れた。


「真夏。ありがとう。……でも、ここから先は駄目だ。貴族のお前が私を庇えば、全てを失うかもしれない」
「すでに失っています。あなたを失っているのです。ならば、恐れるものなど何もありません」

真夏は、博嗣に背を向けたまま答える。その言葉を聞いて、博嗣は目を伏せたあと、そっと笑った。


――この山で運命が変わる。


真夏はそう確信していた。


「……この者に弓を向けるな! これは我が客人にして、鬼に非ず!」

真夏の声が、霞む山気を裂くように響いた。矢を構えていた射手たちが、ためらいと驚きの色を浮かべて足を止める。

武将たちが戸惑いの声をあげる。だが、真夏は一歩も引かなかった。肩を震わせながらも、真っ直ぐにその身を博嗣の前に立たせた。


「私は、四条右大臣家の嫡子、真夏。この者は私の命により山中にて話しをしていた者。命をかけて申す。敵ではない」

一瞬、風が止まった。木々のざわめきも、鳥の声も遠ざかる。

しかし、そこに遅れて駆けつけた別の一団ー陰陽寮ーに付き従う武将が声を張り上げる。


「その者、鬼なり! 弓を引け!」

瞬間、空気が張りつめ、弓弦が引かれた音が山の静寂を裂いた気がした。


「……っ!」

博嗣が目を見開き、真夏の名を呼ぼうとするより早く、矢が放たれた。

その音と共に、真夏の体がわずかに仰け反った。緋色の狩衣に血が滲む。胸を射抜いたそれは、深く深く、心の臓に届いていた。

 
「……あ……」

博嗣の腕に真夏が崩れ落ちる。


「ま、なつっ!」

博嗣は膝をつき、真夏を抱きとめた。その腕の中で真夏は微かに笑っていた。


「生きて、ください……博嗣さま」

震える指が博嗣の頬に触れる。まだ温もりはある。


「私の命で、あなたが生きるのなら、悔いは、ありません……」
「なぜ……なぜこんな!」

博嗣の叫びに答えるかのように、風が再び吹き抜ける。草が揺れ、山が泣いているようだった。


「真夏っ!」

陰陽寮たちの後ろにいた兼親が真夏の名を叫ぶ。兼親は真夏の様子がおかしくて、真夏のあとをつけてきていたのだ。


「なんで真夏を! 真夏は鬼じゃない。人間だ! 四条右大臣の嫡子だ」

その言葉に陰陽寮も射手も動きを止める。

そして、博嗣の腕の中で真夏の体は徐々に重さを増していく。温もりが少しずつ、指の間からこぼれ落ちていくようだった。


「真夏……なぜ、そこまで」

問いは答えを待たず、唇の端から漏れるようにこぼれた。だが、その胸の奥には、もう答えはあった。


――この命を賭してでも、あなたに生きていて欲しい。


それが、真夏が最後に残した真の願いだった。

博嗣は、真夏の頬に額を触れるようにし、そっと目を閉じた。


「ありがとう、真夏。お前の命。決して無駄にはしない」

再び顔をあげた時、その目には迷いはなかった。

博嗣は、真夏の体を、あの、2人がいつも会っていた岩陰にそっと横たえ、狩衣の石帯をきちんと整えてやった。そして、自分の重ね着ていた上の衣を脱ぎ、そっと上にかけてやる。その衣には真夏の好きな沈香の香りが染みこんでいた。


「この者は鬼に非ず。人よりもなお、人の心を持っていた」

射手たちに向かってそう告げた博嗣の声は、静かで、だが揺るぎなかった。


「この命が|斃《たお》れたことを、どうか朝廷に伝えよ。この者が守ろうとしたのは、我らの命のひとつ。鬼であれ人であれ、命には等しく価値があると。そして右大臣、四条道隆に伝えよ。お主の息子、真夏は立派な最期だった、と」

そう言うと博嗣は背を向け歩き出す。

射手たちは誰1人として動けなかった。矢を射た者は膝をつき、陰陽寮の武将たちでさえも追うことはできず、ただその場に立ち尽くしていた。

兼親だけが、真夏のもとに駆け寄り、声をあげて泣いた。その声はとても悲しい声だった。

射手たちも陰陽寮の武将たちもその声を耳にして、心の中に何かが重くのしかかった。

そして博嗣は、その泣き声に一瞬だけ動きを止め、最後にもう一度真夏の顔を見た。

けれど、すぐに山の奥を振り返る。そこは、鬼たちが潜み生きてきた、隠れ里へと通じる道がある。


「私が行かねばならぬ。真夏の死を鬼たちに伝えるために。彼が命にかえてでも守ろうとしたその思いを、今こそ鬼たちに届けねばならぬ。それは私にしか出来ぬこと」

そう言い残して、博嗣は振り返ることなく山奥へと歩を進めた。真夏の命と思いを胸に刻んで。

その目は、先ほどのような生を諦めた色はなかった。自分の命にかえてでも博嗣を守ろうとした真夏の命を無駄にはしない、という強い気持ちだけがあった。

霞の中にその背が次第に溶けていく。

鳥が鳴き、風がまた夏の香りを運んでくる。

それは、ひとつの季節の終わりと、ひとつの運命の始まりを告げる風だった。


森の奥深く。鬼たちが身を潜めている場所に博嗣は来た。そして、若い鬼たちの前に立つと口を開いた。


「人間の貴族が、私を助けようとひとつの命を落とした」

その言葉に鬼たちがざわめく。


「私と山で出会い、名を交わし、言葉を重ねた。私が鬼であることを恐れず、ひとりの”人”として私を見てくれた。だから私は、彼の命に触れた時、初めて本当の”人の心”を知った」

誰かが小さく息を呑んだ。博嗣は続ける。


「彼が命を懸けて伝えたかったのは、人と鬼は生まれが異なるだけで、ひとつの命であることに変わりはない。だから互いに手を取り合うことができる。私はそれを否定しない」

若い鬼は涙を流していた。


「我らは山に生きる。隠れてでも、生きる。もし、”共にある未来”を語る資格があるとするなら、それは血を流した者だけだ。ならば私はその血の名にかけて言う。争いを選ぶな。復習に生きるな。お前たちがもし自らの命を未来に繋げたいと願うのなら、真夏のように憎しみではなく、手を差し伸べる強さを持て」

風が吹き抜ける。木々がざわめき、どこか遠くで、淡く甘い香りが漂った気がした。まるで誰かが笑っているような、そんな気がした。

博嗣は空を仰ぎ、微かに目を細めた。


「私は、鬼の帝としてこの山に生きる。だが、彼が命を賭けて信じた未来を見る」

遠く、岩陰に横たえてきた真夏を思う。もう会えない。それなら約束した来世で会おう。それまで、いつまででも待つ、と博嗣は胸の中で誓った。


夜が明けた。

山の緑は朝露に濡れ、空には薄く霞がかかっている。前夜の騒動が嘘かのように、静かな朝だった。

博嗣は、岩陰の前に1人膝をついていた。

そこは、真夏と幾度となく言葉を交わした場所。初めて名を呼ばれ、名を返し、抱きしめ合った、たったひとつの「始まりの場所」だった。

その前に、真夏の亡骸はもうない。夜のうちにどこかへ移されたのだろう。

博嗣は、真夏が最後に倒れたその場所を永遠の祈りの場と定めた。


「高光」

背後に控えていた臣下の高光がすっと頭を下げる。

博嗣の傍に付き従い、鬼の中でも頭脳派で知られる、とても賢い臣下で博嗣は高光を信頼していた。


「この山の奥。我らが住まう谷を覆うように再度結界を張れ。外の者は容易に立ち入れぬよう。しかし、真夏の出入りは妨げぬ結界を」
「しかし、また陰陽師に結界を破られるのでは?」
「そうしたら再度張ればいい」
「かしこまりました」
「ただ。真夏が再びこの山に還ることがあれば、真夏だけは通してくれ」

高光は何か言いたそうな顔をしていたが、すぐに表情を隠した。


「承知しました。真夏さまには全て道を開けましょう」

博嗣は小さく頷き、再び岩陰を見つめる。そして昨夜作った白木の祠を岩の前に置いた。

真夏が好みそうな香りのする木を博嗣は山中で探し当て、自ら削って作ったものだった。

鬼の造りではなく、人の風習に倣い、ひとつひとつ丁寧に。真夏が親しんできたやり方で。

屋根には苔むした石を使い、白木の支柱が岩に溶け込むように並ぶ。その中に、真夏を模した小さな人形をそっと置いた。真夏が最後に着ていた緋色の狩衣を思わせる布が小さく結ばれている。

風が通り、ふわりと沈香の香りが流れた気がした。まるで真夏の声が微かに届いたような気がして、博嗣はそっと目を閉じた。


「真夏。お前が守ったこの山で、お前が願った未来を待っている。そして、お前が再度私に会いに来るのを待っている」

その言葉は自分に言い聞かせるようでもあり、祠に語りかけるようでもあった。

博嗣は深く深く頭を下げた。

それは鬼の帝としてではなく、真夏と心を通わせたたった1人の”博嗣”として、真夏に捧げる祈りだった。

そして、しばらくそうしていたが、やがて立ち上がり、博嗣は山を振り返り、ゆっくりと歩を進める。

背後で高光が結界を張っているのがわかった。

山の空気が微かに震える。

結界が張られる。もう外の者が自分たち鬼の場所に足を踏み入れないように。

博嗣はもう祠を振り向くことはせず、前を向いていた。

真夏が命をかけて繋ごうとした未来へ。そして、いつの日か再びその名を呼べる日が来ると信じて。


――博嗣さま。


どこかで真夏の声が聞こえてきた気がした。そして博嗣は目を閉じた。