真夏が元服をして1年が経った。宮中に参り、妻ー清音ーの元へ通うという、自分の気持ちを殺すような日々の連続ではあるけれど、同じ歳で、同じように宮中に参っている式部卿宮家の嫡男、兼親と親しくなり、都で唯一心を許せる友となった。
風薫る初夏の午後。御簾越しに揺れる木漏れ日が、硯の水面にちらちらと映る。今日は兼親と和歌を詠み合っている。
真夏は、几帳の陰、文机に向かいながらも、筆を持った手を止めていた。対して、兼親は軽やかに筆を滑らせている。
兼親はふざけた口調で言う。
そう言いながら、真夏の声は柔らかく緩んでいた。
真夏は苦笑し、墨をすりなおす。兼親が詠んだ歌がまだ耳に残っている。
雅で、どこか大人びた恋歌に、真夏はふと胸の奥が疼くのを感じた。
筆をとり、静かに詠み下す。
兼親が腕を組んで、「うむ、悪くない」と笑う。褒めるでもなく、けなすでもない、いつもの調子が心地よい。
そして、しばらくの沈黙。縁側の外では鶯が一声鳴いた。
真剣なふいの問いに、真夏は目を伏せた。
兼親は真夏の言葉に口を挟まず、そっと扇で膝の上の紙片を押さえた。
兼親に対しては、相手が鬼だということを伏せて、心通わせている相手がいると伝えている。だからこそ言える言葉だ。
風が通り、杜若の香が微かに香った。2人の間には、また沈黙が訪れる。けれど、しばらく経つと再び和歌を詠み交わす。そんな中、兼嗣がふと漏らした。
山を一掃するような大々的な鬼狩り……。
その言葉を聞いて、真夏は目の前が暗くなった。
それは多分、博嗣の父や母を亡くした時のような激しい人間と鬼の戦いになるのだろう。
博嗣がまことに鬼であれば、真夏は博嗣に刃を向けなくてはいけない。そんなことが起こるというのか。
そんな……。
鬼狩りは日常的に行われてはいた。
しかし、そんなに激しいものではなかった。だから、どこか安心していた。博嗣は大丈夫だ、と。でも、山を一掃するような大々的な鬼狩りが行われては、博嗣の身も危ないということだ。
して、何より人間と博嗣ら鬼とが対立することになることが悲しい。いや、そんなことを悲しむ前に博嗣に伝えなくてはいけない。逃げてくれ、と。鬼狩りが静かになるまで、どこかへ逃げていて欲しいと。
その後は、真夏はまともに和歌を詠めなくなった。
兼親との和歌合わせをした日の夜。真夏は夢で博嗣に会った時に、近々行われるという鬼狩りのことを博嗣に伝えた。
真夏は必死に博嗣に懇願した。しかし、博嗣は逃げるとは言ってくれない。でも、逃げて貰わなくては博嗣の命が危ないと、真夏は怖いのだ。
もし博嗣が殺されたら。鬼は簡単には死なないと言っていたけれど、刀で切りつけられたらさすがに生きてはいられないだろう。
そう言う博嗣の言葉は寂しかったし、その表情には胸を締め付けられた。
いつかの未来。共に生きようと言ってくれたのに、こんなふうに突き放されるのが悲しかった。博嗣が真夏のことを心配して言ってくれているのはわかる。自分と現で会うことで、人に殺されるのではないかと心配して言ってくれているのだ。
でも、いくら自分が助かっても博嗣が死んでしまっては意味がないとなぜ気づいてくれないのか。
いつの日か、共に生きようと言ってくれたのに。来世を約束するくらいの相手が死んでしまったら、どれだけ悲しいか博嗣はわかってくれない。いや、わかっていて突き放しているのだろうか。
そう言って博嗣は真夏を優しく抱きしめた。その腕の中はとても優しくて、温かくて。いつだって真夏を包み込んでくれる。この腕をなくすことなど真夏には考えられなかった。
博嗣の背に腕を回し、博嗣を抱きしめ返す。
腕の中でそのようなことを言ってくれる博嗣に、胸が温かくなると同時に悲しかった。なぜ、この世では共に生きられないのか。
来世でも必ず夢通うと。そうすれば、怖いものなんてない。真夏はそう思った。
風が夏の気配を見せる朝。
空がまだ淡く、霞のかかる山道に、武将たち一行が列をなして進んでいた。思い思いの色の狩衣を身にまとい、射手たちは弓を背負い、随行の侍たちがその周囲を固めている。真夏はそんな一行から隠れるように山へと入った。そして真夏のあとを兼親がそっと見つからぬようにつけていた。
――本当に、博嗣さまは山にいらっしゃるのか……
鬼狩りとはいえ、実際に鬼の姿を見た者は少ない。だが、この春以降、里に近い山間で不審な影があったと報告があった。そして陰陽寮も動いた。そしてついに、朝廷から正式な鬼狩りの命がくだったのだ。
そしてそれに伴い、陰陽寮は鬼の結界を破った。なんでも鬼は普段は結界を張っているという。結界が張られたままだと鬼を一掃できないとして、結界を破ったのだ。朝廷は本気で鬼を殺す気でいる。それが怖かった。
武将たちの顔は浮き立っていた。真剣なのだ。誰も鬼との共存など考えていない。自分たちのことしか考えていない。そして鬼を一掃しようとする人間こそが鬼ではないか。真夏はそう思った。
――この山は、あの風が吹く場所。あの桜が咲いた場所。博嗣さまが私を呼んだ場所。私の心がある場所。
先頭をゆく弓の名手たちが鬨の声と共に山の奥へと進み、犬が吠え、鳥が飛びたつ。山の気配が騒ぎ始めた。
真夏は馬から降り、草の深い斜面を登りはじめる。風の匂いが変わる。懐かしい、あの山の匂いがした。
声にならぬ声が唇から漏れる。もし、本当にこの山のどこかにいるのなら。もし、鬼として討たれる運命にあるのならば……。
山の奥で、ひときわ高く犬が吠えた。その方向へ射手たちが駆け出す。真夏もその背を追った。草を踏みしめ、枝をかき分けながら風の中へ、思い出の場所へと足を踏み入れた。
草の葉が濡れている。露か、それとも朝靄か。裾が濡れるのも構わず、真夏はただ前を見据えていた。
懐かしい木立。苔むした岩。風に揺れる枝。全てがあの春の記憶と重なっていく。
――ここだ。
立ち止まった場所は、かつて博嗣と出会い、語った場所だった。岩の上には誰の姿もない。だが、風が揺れ、木々がざわめく。
返事はない。それでも、真夏は一歩、一歩と足を踏み出す。目を閉じれば、優しい博嗣の声が聞こえる気がした。
と、空気が震えた。
風が一瞬止み、空間の奥に違和の気配が満ちる。木の影から、ゆらりと何かが姿を現す。
銀にきらめく長い髪。凜とした横顔。確かにそこに、博嗣がいた。
その声に真夏の胸は張り裂けそうになる。
会いたかった。現で会いたかった。何度そう言って博嗣を困らせただろう。だけど、ここでは会いたくなかった。ここで会うということは、博嗣が鬼だという証しだから。
後数歩の距離をあけて2人は互いの名を呼ぶ。現で、この声で名を呼んで欲しかった。けれど、こんな場所でではない。ここは人間と鬼が戦う場だから。こんな戦いの場に博嗣は似合わない。
博嗣の目には静かな諦めの色があった。だが、真夏の視線は揺るがない。
博嗣は淡く笑う。その目は、死を覚悟した者の穏やかさがあった。