三夜目の月は霞むような雲の帳の向こうで淡く光っていた。虫の声が静かに響く庭に、真夏を乗せた牛車が静かに進む。
ふと風が吹き、袖の下に忍ばせた笛が微かに揺れ、かつて山で聞いた音が胸の奥に蘇った。
の笛があれば。
風が吹けば。
山で過ごした博嗣との時間も、笛の音もまだはっきりと思い出すことができる。
――これで三夜目。
女房たちが静かに真夏を迎える。姫君の御簾の向こう、灯りがひとつだけ、ほのかに揺れている。これまでと同じように姫君の元へと進み、几帳を隔てて腰を下ろした。
声を掛けると、姫君は柔らかく応じ、緩やかに話す。
清音は言いかけて言葉を飲み込む。その声音に、緊張と、どこか喜びと不安の入り交じった気配が滲んでいた。
真夏の言葉に、清音が微かに微笑む。御簾の影に揺れるその笑みは、都の女らしく慎み深く、けれど確かに真夏を見つめていた。
やがて、静かな足音と共に、年配の女房が現れ、几帳の傍に膳を運び置く。
女房が頭をさげ、そっと餅を差し出す。紅白の小さな餅が三つ、檜の膳に列べられていた。真夏はそれを見つめ、手を伸ばす。
続きの言葉を口にすることはできなかった。
三夜の餅。それはすなわち、2人の婚姻が結ばれた証しだからだ。
霞若だった頃の自分が、今、この膳を前にしていることが、ふと不思議に思えた。霞若として博嗣と過ごしたことは現実だけど、この瞬間を姫君とわかちあうこともまた現実なのだ。
小さな餅を口に運ぶ。ほんのりと甘く、もっちりとした食感が喉を通る。その温かさに真夏の心はじんわりと満たされていった。
清音もひとつ餅を口にして優しく言う。
その一言に、真夏は頷いた。
真夏がそう口にしたとき、庭に咲く秋の花が、夜風にわずかに揺れていた。
灯がわずかに揺れ、月が清音の横顔を優しく照らす。真夏はその光に、どこか儚げな想いを見た気がした。
清音がぽつりと漏らす。
真夏は一瞬、なにも答えられなかった。清音の言葉は静かだけれど、芯をついていた。
その声は、決して真夏を責めるものではなかった。ただ、静かで、どこまでも真夏の心を包み込むような優しさに満ちていた。
けれど、その言葉に胸が少し痛む。けれど、逃げるように目を逸らすことはせずに、まっすぐに清音を見た。
そう言って清音は膝の上でそっと手を重ねた。真夏はその手を迷いながらも静かに包んだ。
――ここにいても、夢の中であの方に会うことをやめるわけではない
けれど今、この手を取ることも、真夏の偽りではなかった。交差する想いがふたつの時の流れを重ねていく夜だった。
夜が更け、灯が落とされ、屋敷が静まりかえると真夏はようやく1人の時間を得られる。
人知れず懐に手を差し入れ、笛をなぞる。博嗣の母の形見であり、今は博嗣の面影そのものとなった笛。温もりを確かめるように触れた指先に、わずかな熱が灯る気がした。
眠りにつくと、風が頬を撫でる。都の風ではない、山の風。草と木の匂いに満ちた懐かしい風。
その声に心がほどける。いつもの岩の上に博嗣がいた。変わらぬ銀の髪、優しい目。時が止まったかのようなその姿に、真夏は静かに歩み寄る。
博嗣は続きを飲み込み、真夏の髪にそっと触れた。今日は都で整えられた大人の結い上げではなく、博嗣に初めて会ったときの霞若であった頃の結い髪だ。
博嗣の手がそっと肩を引き寄せる。真夏はその温もりに身を預け、目を閉じる。現の世界では決して許されることのないこの近さが、夢では確かに存在する。
目を覚ましてしまえば全てが消えてしまうとわかっていても、それでも夜が来るたびに真夏は願わずにはいられないのだ。
もう少し夢の中で、あなたと共に在れる時間を……。
それは恋という言葉では収まりきらぬ、魂の一部を委ねるような深い想いだった。
博嗣の小さな呟きに、真夏は身を離す。
博嗣は真夏を静かに包み込む。衣からは沈香の香りが微かにし、それが博嗣に抱きしめられているのだとわかる。
真夏は博嗣にしがみつく。ここから離れたくはないと。現では叶わないから、せめて夢の中で……。
博嗣の言葉に真夏が顔を上げる。現ではもう会えぬ。それなら来世で、と思ったのだ。現世ではもう夢でしか会えないとしても、来世まためぐり合えるのなら、それはどれだけ幸せだろうか。
小さな約束かもしれない。けれど、真夏にとってはとても大事な、大きな約束だった。
夢の中でしか触れられぬ温もりが、腕の中で微かに震えていた。細く温かな体温。抱きしめた、その肩越しに、博嗣はそっと目を伏せる。
――また泣かせてしまったな
真夏は変わった。霞若だった頃よりも少し背が伸び、言葉の端々に大人の響きを宿すようになった。それでも腕にいるその心は、変わらずに脆く、まっすぐで、悲しみを隠すことができない。
そう言って顔をあげた時の、真っ直ぐな眼差し。人間の子が放つにはあまりにも眩しくて、胸の奥が焼かれるように痛む。
博嗣はそっと額を寄せる。長く生きる身は、あまりにも多くの別れを抱える。心が耐えきれなくなる。だから何も求めぬように、何も望まぬように、そして人間と関わらぬように、そうして生きてきた。けれど、霞若――いや、真夏に出会ってしまった。
心が温もりを覚えてしまった。行きずりではなく、誰かと共に生きたいと初めて思ってしまった。
それが叶わぬ約束だったとしても構わない。来世に続く誓いであろうとも、例え、また悲しみに終わるにしても。
真夏の言葉に救われたのは自分の方だったのだと、博嗣はそっと目を閉じた。
この夢の刻が終わり、また孤独な山に戻るとしても、あの声が自分を呼んでくれる限り、何度でも夢の中で真夏を抱きしめよう。それだけが、自分に許された唯一の幸福なのだから。
いつかの未来。鬼と人間が共にいることが許される時代が来たのなら、その時は、迷いなく真夏と共にいたい。
自分の腕の中で、細い声でいう真夏に、心が締め付けられる。この、自分よりも小さいこの体が、四条の嫡男としての責務を果たしている。そこに真夏の心はないとしても、求められた四条の若君として淡々とこなすこの腕の中の存在が、ただただ悲しすぎる。
そして思う。もし、自分が人間だとしても真夏とは共に生きることはできなかったと。
真夏と共に生きられるのは、今日、婚姻が成立した姫君なのだと思い知らされた。
同じ人間であっても共に生きられぬとは、どれほど悲しい時代なのだろう。それでも、|時代《とき》が流れれば、いつかは愛し合う者同士が共に生きることができるようになるだろうか。もし、そんな時代が来るのなら、その時まで何度でも真夏と出会おう。
自分が共に生きたいと望むのは真夏1人だ。だから、そんな時代が来るまで何度でも巡り会おう。そして、共に月日を重ねてゆこう。
博嗣が静かに口にする。それは、普段の博嗣の穏やかさのままに、しかし深い決意を帯びていた。
博嗣の言葉に真夏が顔をあげる。そして、博嗣の顔をまっすぐに見つめて言葉を返した。
今、この時は夢にありながらも、2人の心の間に流れるものは、どこまでも真実だった。