EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

結婚 01

秋の風が虫の声を連れてくる頃、真夏の婚儀が決まった。相手は中納言の姫君で、品のある美しさと文才で名高い、優しい姫君だった。

真夏は母の居間へと招かれた。婚礼の贈り物を定める為である。

几帳の内側では女房たちが唐櫃をひとつひとつ開け、絹の重ね、扇、香合、蒔絵の箱など、選りすぐりの品を床に並べていた。

真夏は黙ってそれらを見下ろしていた。


「若君さま。お好みの香りを。……こちらは蘭奢待を染ませたものでございます」

女房がそう言いながら銀の香包みを手に取る。真夏はそれを見たが、顔にはなんの反応も浮かばなかった。その代わりに、傍らの白檀の香木をひとつ無言で指指す。


「では、こちらを」

それは博嗣の薫衣の香りだった。

そして、贈り物を選ぶ指先は止まることはない。

絹の文箱、金蒔絵の硯、香を含ませた檀紙、百人一首の扇、それらをひとつひとつ指し示し、母の助言に頷き、何事もない顔で次を選ぶ。

几帳の外側では女房が和歌の下書きを広げている。


「若君さま。添える御歌はいかがいたしましょう」

その言葉に一瞬だけ手を止めた。そして、何も書かれていない白檀染の檀紙を一枚取り、その余白に一首を記した。


『よそへても 結ぶさだめの 糸なれば たちかへすとも ほどは解けじな』

「かしこまりました」

やがて贈り物一式が整う。唐櫃の中には檜扇、文、香、衣が揃えられ、贈り先の邸へと運ばれることになる。

形式の中に、密やかな記憶を閉じ込めた。

そして、誰にも気づかれぬように、懐の笛にそっと手を添える。


――博嗣さま。どうか夢で、声を聞かせてください


 

夜。

夢で博嗣に会えることを月に祈りながら眠りについた。そうして訪れた夢の中には岩に座し、月を眺める博嗣の姿があった。


「博嗣さま……」

名を呼ぶ真夏に気づき、こちらに顔を向ける。


「どうした?」

真夏の表情に何かを感じ取ったのだろう。静かに訊ねてくる。真夏は視線を下げ、消え入りそうな声で告げる。


「結婚が決まりました……」
「……そうか」
「相手は中納言の姫君で、美人で文才があるという女性です」
「……決まるのは早かったな」
「はい……」

元服が遅かったから、結婚が決まるのは早かった。いや、元服が遅かったから、それと同時くらいに結婚が決まるケースもある。そう考えると遅いのかもしれないが、普通に元服後半年弱で決まるのは早い方かもしれない。


「結婚など、したくない……」
「そんなことを言うでない」
「でも、相手の姫君に心のひとかけらも動かない。私の心は博嗣さまだけに向いているから……」
「真夏……けれど、貴族の務めだ」
「家を、全てを捨てて山に帰りたい。博嗣さまのお側にいたい」
「右大臣の嫡男なのだろう?」
「はい。……でも、私がいなくなったところで、下には弟がいます。私の代わりはいる。だけど、博嗣さまの代わりはいない」

感情にまかせてそう言うと、博嗣は視線をついとそらせた。


「鬼と一緒にいたいなどと、言うことではないよ」
「博嗣さまは博嗣さまです!」
「私は鬼だ。それは変わらない」
「……」

そらせていた視線を再度真夏に戻し、優しく包容した。


「現では会えない。それでも、こうやって夢通うことができる。夢の中では誰にも邪魔されることはない。こうやって、お前を抱きしめることもできる」
「博嗣さま……」

博嗣の言葉に涙が後から後から落ちてくる。博嗣の衣が濡れてしまうとわかっていても涙を止めることはできなかった。



秋がすっかり深まった頃。右大臣家には人の出入りが絶えなかった。四条家の嫡男、真夏の結婚が間近に迫っていたのだ。

婚儀の相手は中納言の姫君、清音だ。夏の和歌会で1度顔を合わせたことはあるが、言葉を交わしたことはない。

婚儀の朝、真夏は濃紫の直衣を纏い、女房に髪を結い上げられながら、ふと手元に視線を落とす。袖の下には博嗣から貰った龍笛がひっそりと隠されていた。これだけが、霞若であった頃の自分と、山の記憶を繋ぐものだった。


「真夏さま。姫君の御車が門に」

声がかかり、緩やかに立ち上がる。静かな足取りで迎えの間へと進むと几帳の奥、僅かに揺れる絹の隙間から、白拍子のように凜とした気配がした。


「はじめまして。中納言、高階家の清音と申します。こうして、晴れの日を共にできますこと、光栄に存じます」

その声は透き通るように柔らかく、しかし芯の強さが感じられた。真夏は一礼し、口を開いた。


「真夏と申します。……未熟ではございますが、どうかこれからの年月、よろしくお願いいたします」

決まり文句のような挨拶ではあっても、声は自然と深くなる。言葉は整っていたが、胸の奥に重く沈む思いは隠しきれない。

やがて膳が運ばれ、細やかな式が進められる中、2人はようやく几帳越しに直接顔を向け合うことになった。


「和歌会でお見かけいたしました。真夏さまは、お優しい目をしておられました。でも、どこか落ち着かない様子でした」

不意に清音が、静かに言った。真夏は少し驚き、目を伏せた。


「お気づきでしたか。あの折は和歌をまともに読む余裕がなくて……」
「私も同じでした。ですが、あの一首、覚えております」

『春の風 花をはらはら散らしつつ 今も心を 山にとどむる』

真夏はそう詠んだ。それを覚えているのか。


清音は静かに微笑んだ。どこか寂しげなその微笑みに、真夏の胸が静かに痛んだ。


「真夏さまは、お心をどこか遠くに置いておられるのですね。ですが、その笛は真夏さまのお心がどこにあるかを知っている気がいたします」

その言葉に真夏は息をのんだ。袖の笛を清音が気づいていたのかどうかはわからない。ただ、彼女の声には咎めも詮索もなかった。ただただ理解だけがあった。


「清音殿……」
「かような形でのご縁ではございますが、どうかお心に触ることなく。それを踏まえての婚姻だと思っておりますので」

その言葉が真夏の胸に優しく染み入った。貴族のこのような婚姻ではあることだと言ってくれるのか。


「ありがとうございます。あなたのような方が、我が妻となってくださること、感謝いたします」

微かに触れた指先が、確かな温もりを伝えた。体はここにある。けれど、心の奥にはまだ、山の風が吹いていた。夢の中でしか逢えぬその人の名が、胸から離れることはない。

それでも、こうして隣にいる人を拒むことは真夏にはできなかった。そして、貴族のこのような婚姻であることを清音は理解してくれている。自分には出来た人だと思った。


夜になり、真夏は中納言、高階有房邸へと赴いた。

昼は婿となる邸へ姫君が赴くが、夜には婿が姫君の邸へと3日通うことで正式な婚姻となるのだ。

今日はその1日目、|初夜《みよ》で、昼には清音と対面したというのに、夜3日通うということが、真夏の心に大きな重りがのしかかっているように感じる。

夜が更け、灯の明かりだけが静かに揺れる寝床。几帳の内、薄絹の帳がわずかに揺れ、香の香りがわずかに漂っていた。

真夏は、袖に包むようにして笛を胸元に抱いたまま、床に座していた。着替えを終えた後も、なかなか帳の向こうへと足が向かなかった。

心の中で博嗣の言葉が響く。


『夢で会えると、そう言ったであろう』

思い出すその言葉に、胸がじんわりと疼いた。そうだ。夢で会える。邸で寝ようとここで寝ようと、夢通いはできる。そう思うことで気持ちがほんの少し安らいだ。

几帳の向こうで衣擦れの音がして、ほどなくして清音の柔らかな声が聞こえてくる。


「真夏さま、こちらへお越しくださいませ」

まだほんのわずかなためらいはあるものの、先ほどよりは落ち着いている。

真夏はゆるりと立ち上がり、几帳の奥へと足を踏み入れた。灯明が2つの影を映す。

清音は白地に桜の刺繍を施した単衣をまとい、膝を折っていた。


「お疲れでございますか?」
「……はい。少し、気が張っていたようです」

真夏の声は落ち着いていたが、どこかよそよそしさが滲む。それを感じとったのか、清音は目を伏せ、静かに言った。


 
「……お互いに、心がどこか遠くにあることはもうわかっております。無理に近づかずとも、今宵はただここで過ごすだけでもよいのではないでしょうか」

その言葉は真夏にとって救いだった。清音のその誠実な心が、山の風のように優しく包み込んでくれる気がした。それがどれだけ心地よく、ありがたいことか。


「ありがとうございます。そう仰っていただけて、ほっといたしました」

2人は並んで横になるけれど、互いの間にはわずかな間隔が残されていた。けれどその距離が、真夏にはとてもありがたかった。

そして、清音が静かに言う。


「……真夏さま。いつの日か、あなたが心から笑える日が来たのなら。そのときはもう一度、私のことを見ていただけますか?」

その言葉に真夏は静かに目を閉じたまま答えた。


「……そのときが来たなら、きっと、真っ先にあなたの名を呼びましょう」

そう答えると、清音はふと微笑むような気配を残し、灯明がゆっくりと消えていった。

夜の帳の奥、笛を抱いたまま真夏は眠りにつき、その夜も山の風に包まれた夢を見た。

博嗣はいつもの岩に、こちらに背中を向けて座していた。

 
「……博嗣さま」
「真夏か……」
「……はい」
「今宵は初夜であったな」
「……はい」
「お相手は?」
「とてもよく出来た姫君です。ただ、それが辛い」
「そのようなことを言うでないよ」
「でも、私には博嗣さまがおります!」
「お前はどうして、鬼の私などに捕らわれる? 都には綺麗な姫君がたくさんおるのに」
「……どれだけの人がいようとも、博嗣さまにかなう人などおりません」

真夏がそう言うと、博嗣は困ったように笑った。


「そういう私もこうやってここに来て、お前に会ってしまうのだからどうしようもないな」
「博嗣さま……。抱きしめてください。博嗣さまの香りに包まれたい」

小さな声でそう願うと、博嗣は優しく包容してくれた。


「お前が望むのなら、いつでもこうしよう」

その一言に、真夏は静かに涙を流した。