博嗣は目が覚めると、右のこめかみに手をあて、ゆるりと上体を起こした。
しばらくダルそうにはしていたが、顔を洗おうと立ち上がる。
ここ最近の都の貴族少数が始めた鬼狩りで少し疲れていた。だが、それも父や母をはじめ、多くの鬼の命を失った昔と違い、それほど多くの命を落とすことなく終わったので、これで少し休めるだろう。
それに昨夜も真夏と夢通うことができて、誰にも秘密だが、少し癒やされてもいる。夢通ったところで特になにをするわけでもない。ただいつもの岩で会話をするだけだ。
会話の内容は、最近の都の話しだったり、山の話しだったりと、割と他愛もない話しをしている。しかし、真夏とそんな時間を過ごしているだけで癒やされるのだ。
本当は現で直接会って共に時間を過ごせれば良いのだろう。けれど、それをはねつけたのは博嗣だ。真夏は現でも会いたいと泣いたのだ。しかし、それは聞き入れなかった。博嗣とてそうしたかった。
けれど真夏は貴族で、現在は元服を済ませ宮中に参っている。そして博嗣は鬼だ。現で会ってしまったら、2人の間の線引きが曖昧になってしまわないかと怖かったのだ。
鬼と人間。
共に生きようとした例がないではない。博嗣の父と母がそうだ。鬼の父に人間の母。2人は前回の大きな鬼狩りで命を落とした。
帝と呼ばれる父。父は少しでも多くの鬼の命を守ろうとした。そして母は、父と子供とを守ろうと命を張った。
けれど都の貴族たちは同じ人間である母に対しても容赦はしなかった。
命を張った母は悲しかった。けれど同時に、とても凜としていて美しかった。そして博嗣は思ったのだ。鬼と人間が一緒にいても、迎える結末は悲しいのだと。
自分がどう命を落とそうとそれは構わない。自分が命を落とすことで周りの鬼を守れるのなら、どうなっても構わないのだ。
しかし、自分と一緒にいることで、真夏が母のように同じ人間に殺される日がきたら……。
真夏は、人間に鬼がいる、と言っていたことがある。確かに、同じ人間である母に矢を向けた人間は確かに鬼だった。
だからこそ、真夏を巻き込みたくないのだ。
だからこそ、現では決して会わないと言ったのだ。
それが真夏にとっても自分にとっても、良いと思ったから。しかし、博嗣の甘さが出てしまったこともある。それが夢通いだ。
夢でなら。
夢でなら、真夏は悲しい最後を迎えなくていい。真夏の命を守るためであり、博嗣の心を守るためでもあった。
せめて2人が同じ種族であるのならば、こんなふうに苦しむことはなかった。
博嗣が人間であれば。
真夏が鬼であれば。
そうしたならば、博嗣は真夏と一緒にいただろう。現で笑いあっていただろう。しかし、種族が違った。博嗣は鬼で、真夏は人間だった。そうである以上、こうするしか道を選べなかった。
冷たい水で顔を洗ったところで倫子に声をかけられた。
倫子も先の鬼狩りを知っている。博嗣の父と母が命を落としたのを見ている。それでも、会えばいいと言うのだ。博嗣が真夏に惹かれているのを知っているから。
真夏と出会った時、真夏はまだ元服前の子供だった。とても真っ直ぐな目をしていた。その目に惹かれ、でもその一方、その目が怖かった。博嗣が心に思っていることを全て暴かれてしまいそうで。
それに真夏が貴族の子供であることも理由のひとつだ。
都の貴族は定期的に鬼狩りをする。真夏も元服し、宮中に参るようになれば、否応なく鬼狩りに参加するようになる。その時、真夏が博嗣を殺さなくてはいけないことがあるかもしれない。
しかし、博嗣に情が移ってしまえば真夏は苦しむだろう。それを考えると、どんなに懇願されても、どれだけ自分が真夏に惹かれていようと、現で会うことを受け入れるわけにはいかなかったのだ。
だが、倫子は、鬼と人間だからと言ってお父上やお母上のようになるとは限らない、と言うのだ。
そうかもしれない。それでも、絶対にそうはならないという保証もないのだ。だから真夏にいくら懇願されても現では会わないと決めたのだ。
結局は怖がりなのだ。
人間の身でありながら、鬼とその子供を守る為に、同じ人間に、慣れぬ太刀を持って立ち向かい、結局は命を落としてしまった母の姿が目に焼き付いて離れない。
2度とそんな光景を見ない為に、どんなに惹かれようとも現では会わない。いや、惹かれているからこそ会わないのだ。
それなら、仮に大規模な鬼狩りが起きても、真夏が同じ人間に殺される姿を見ることもないだろう。それは自分の恐怖心から来ていることだなんて、誰よりも自分が一番知っているのだ。
倫子は痛いところを突いてくる。
確かに逃げていて幸せになどなれないのかもしれない。けれど……。
真夏が人間に立ち向かって、母のように命を散らすところを見るかもしれない悲しみと、2人で共に生きる幸せと、どちらが大きいのだろう。2人で生きる幸せだろうか。
でも、その後に、真夏が母のように命を落としてしまうかもしれない。いや、その前に鬼である博嗣と共に生きることに疲れて、博嗣の前からいなくなってしまうかもしれない。それなら最初から一緒にいなければいい。それこそが最大の逃げだろう。そう思って苦笑する。
自分はどれだけ臆病なのだろうか。怖いと言いながら、会いたいという気持ちを消すことを出来ずに夢通いをしているのだ。博嗣は苦笑した。夢通いをしていたら情が移ってしまって意味がないということもわかっているのに会わずにはいられないのだ。
矛盾している。それでも、自分の目の前で命を散らしていく最後を、見たくはない。
現で会わないと決めたのは他でもない博嗣自身だ。そして、夢通いをしようと提案したのも博嗣だ。
それでも。
姿を見たい。
元服をして立派な男になったところを、一目でいいから見たい。一目でいいから……。
そう言って山を出てきた。
都へ来るのはどれくらいぶりだろうか。父や母が生きていた頃が多分最後だ。2人が旅立って随分と経つ。
あの頃の自分は、母が人間だというのもあって、人間に親しみを持っていた。
けれど、先の鬼狩りの際に、母に向けた矢を放った人間を見てから、そのような気持ちはなくなった。人間など。貴族など我ら鬼よりもずっと残酷な存在だと思った。それから、人間に親しみを感じることも、都へ来ることもなくなった。
それなら何故、都へ来たのか。単純だ。都で過ごしている真夏の姿を一目見たいと思ったのだ。
夢通ってはいる。出会ったあの山の、あの岩で夢通っている。昨夜だって夢通っていた。けれど、元服を済ませ、貴族として都で過ごしている真夏の姿は夢通っているだけでは知ることができない。
だから。
だから、都にいる真夏の姿を一目この目で見たいと思ったのだ。
真夏は邸の庭の、四隅に常緑樹が植わった鞠場に、同じ年頃の青年貴族と蹴鞠をしていた。蹴鞠を楽しむなど、本当に貴族なのだな、と思う。
大人になったのだな、真夏は。
初めて会ったのは、まだ元服する前だった。髪上げ前の、髪を左右で結んだ姿はとても愛らしかった。今でも目の奥に焼き付いている。けれど、今、目にしている真夏は、髪を結い、烏帽子を被り、狩衣姿だ。
大人になったのだ。
本当ならば。自分が鬼でなければ。真夏が人間でなければ、元服を祝ってやることができた。けれど、自分にはそれができなかった。だからこうしてひっそりと姿を見るしかない。
もし、いつか。いつかの未来。鬼だということ。人間だということ。そんなことが、今よりも気にならなくなる時代が来たら、その時は、真夏のこんな姿を真正面から見たいと思う。
それまで。それまでは、夢通うだけで許して欲しい。
それにしても、友と呼べるであろう人といるのに、真夏はどこか寂しげな様子をしている。
そう言えば、夜、夢通っているときも最近は物憂げな顔をしているな、と思い起こす。
元服前は、こんな顔をしなかった。山にいた頃は、自分に切なげな顔を見せることはあったけれど、それでも笑顔が見られた。けれど最近の真夏は夢でも笑う事がなくなった。
それは都に戻り、元服を済ませたからか。元服を済ませ、右大臣、四条道隆の嫡男として生きるようになったからか。
もう真夏の笑顔を見ることはできないのか。
都の貴族として。鬼の敵として生きる真夏の笑顔を見たいなどと、鬼の帝として願うものではないのかもしれない。
それでも、鬼の帝としての身分を捨て、ただ生きる者として、叶うならば、真夏の本当の笑顔をもう一度見たいと思う。
都での真夏の姿は見た。そこには作り笑顔の真夏しかいなかったけれど、それでも夢での逢瀬では見ることのできない、貴族の青年の姿を見られたから。それで十分だ。
帰りがあまりに遅くなれば高光が心配する。
夜には夢でまた真夏に会えるであろう。それまでほんの数時間だ。だから今は、もう帰ろう。
日ごとに太陽は高くなり、都は夏の気配を孕んでいた。
元服を終えた真夏は、朝、目を覚ますと、まずは文に取りかかる。御簾の向こう、庭の木々を渡る風の音を聞きながら、静かに筆を取る。その筆先は整っていても、心はしばしば別の場所へと彷徨ってしまう。
――博嗣さまは、この空をどこで見ているだろう。
そんなことを考えてしまう。
ふと筆が止まり、文机の脇に置いた笛に目をやる。博嗣の母の形見であり、今は真夏の宝物となった龍笛だ。
まだ人の目がないうちに、とそっと手に取り、息を通してみる。音は微かに震え、すぐに掠れる。
苦笑して笛を置き、装束の支度にかかる。夏の装束は薄手にはなったけれど、重ねは重く、束帯の衿に手をかける度に、肩の重さを思い知る。これが”男”として生きること。霞若ではなく、真夏としての務め。
昼には父の邸にて人々と対面し、和歌の会や漢詩の勉強にも呼ばれる。誰もが真夏を「立派な右大臣家の若君」として扱う。けれど、笑顔の下で、心はどこか浮いている。話し声は遠く、岩の上の博嗣が揺れる。
夜になると、夢に賭けるように床に就く。けれど、毎日会えるわけではない。そういう夜はただ、月を見て過ごす。夢でも会えない夜は、夜が長く感じた。
そう呟く声が闇に溶けて行く。
夕暮れの太陽が斜めに庭を照らす頃、真夏は父の邸の西の|対屋《たいのや》に足を運んだ。今日は|上達部《かんだちめ》を数人招いた、私的な和歌会が催される日だ。
元服を済ませたばかりの若君として歌の席に加わるのはこれが初めてだった。
香を焚きしめた座敷には、既に几帳を隔てて数名の公達が集まっていた。誰もが洗練された直衣を身にまとい、筆と紙を手にしている。夏の題は「残春」だ。過ぎゆく春を惜しむ心を詠むことになっていた。
真夏も、用意された唐紙を前に膝を正す。硯に墨を擦りながら、ふと山の桜が脳裏に浮かんだ。博嗣と見た桜。あの風、あの花。
筆が自然に動いた。頭で考えるより先に、心が言葉を選んでいた。
花を散らしながら吹き抜けた春の風。それは過ぎても心はまだあの山に残されたままだ。
歌を発表する順番が巡ってくる。真夏の詠んだ歌が詠み上げられると、隣にいた年中の中納言がわずかに目を細めた。
誰もがほのかに頷きあう中、真夏は静かに頭を下げた。褒め言葉は嬉しいはずなのに、胸が痛いのは何故なのか。
歌は心を偽れない。だからこそ、貴族のたしなみである。
真夏に歌を、と望むなら、悲しい歌しか歌えない。山に心を置いた歌しか歌えない。そんなのを貴族のたしなみと言っていいのかはわからないけれど。それでも、今は他の歌を歌えない。
斜めに部屋を照らしていた夕陽が沈み、薄い月が見えるようになっても誰も席を立たなかった。そんなに和歌会は楽しいだろうか。真夏にはわからない。それよりも部屋に戻って龍笛を吹きたい。まだ上手くは吹けないけれど、博嗣の吹く笛の音に音を近づけたいと思う。そんなのはいつ来るかもわからないけれど。
――博嗣さま……