そして3日後。霞若は山を降りた。その姿を博嗣が見ていたことを霞若は知らない。
山を降りた日、霞若は泣かなかった。泣きそうにはなったけれど、父と母の前では貴族の子供として凜として、文を習い、礼を学び、元服の準備を整えた。
右大臣、四条道隆の嫡男として恥ずかしくないよう振る舞うが、心は山に置き去りのままだ。
夢で会えると、博嗣が言った。その言葉だけを頼りに日中を過ごした。夢で会えることが唯一の安らぎ。そして気づいたのだ。これは恋だった、と。
夜。寝支度を整え目を閉じると、昼間の忙しさからか霞若はすぐに眠りについた。
眠りにつくと、懐かしい風が霞若の頬を撫でる。これは、山の風だ。
目を開けると、そこはいつもの山だった。そして探すまでもなく、いつもの岩に博嗣がいた。
そう問うけれど博嗣は何も答えない。何も言わずに、月の光の中、優しく髪を撫でてくれた。その手があまりにも優しくて切ない。
聞こえるか聞こえないかというくらい小さな声で博嗣が言う。
それは博嗣が初めて言う本音だった。
夢の中は自由だ。誰にも見られることはない。手を取り合い、言葉なく頬を寄せ、ただ寄り添う。それだけで幸せだった。
霞若は博嗣の肩にひっそりと額を寄せて目を閉じた。博嗣の体温は夢の中とは思えないほど温かかった。
博嗣が小さく言う。それでも静かな夢の中ではしっかりと聞こえてしまう。
霞若のその言葉に、博嗣はじっと目を見つめる。
夢の中の月は優しく、柔らかく2人を包み込む。
風がまた山の香を運んできた。博嗣は霞若の頬に触れ、その目を見つめる。
そう言う霞若の瞳には切なげに問う博嗣だけが映っていた。それを見たとき、博嗣は静かに息を吐き、小さく微笑んだ。切なさと愛しさが滲むその微笑みに、胸が苦しくなる。でも、目を離すことはできなかった。
そして2人は、そっと唇を重ねた。
儚く、けれど永遠に覚えていたいほどに優しい、初めての口づけだった。
その後も2人は夢通いをした。それは毎晩続けられた。
震える指先で博嗣の頬に触れた。
博嗣の名を呼んで、瞳を閉じた。
元服が一日、日一日と近づくごとに霞若の表情は暗くなっていった。夢で会えるとはいえ、山にいた頃のように現で会うことは叶わなくなる。博嗣の吹く笛の音を聞くこともできない。それがどれだけ辛いか。
博嗣が人でないことは出会った日に聞いた。けれど一緒にいて、鬼だと思うことなど1度もなかった。触れる手は温かく、そして優しい。そんな人が人でないというのなら、世の中、人である人なんてどれくらいいると言うのだろう。
失いたくないと言ってくれる博嗣に、一筋の涙が伝う。失いたくないと、そう言ってくれるのか。
でも、短い間でも、傍にいたいと思ってしまうのはわがままなのだろう。博嗣の心を無視していることになるのだろう。だから、それ以上は言えない。
それなら、せめて泣くことを許して欲しい。
泣くなど子供っぽい。そう思うけれど、涙を止めることはできなかった。涙はとめどなく溢れ、声をあげて泣いてしまう。
なぜこんなにも博嗣に惹かれるのか。なぜ博嗣なのか。こんなに苦しい思いをするのなら、なぜ出会ってしまったのか。
そう博嗣の名を呼んで、博嗣の胸の中へ飛び込んでいった。
元服の日の朝。霞若は静かに目を覚ました。夢だったというのに、博嗣の温もりが感じられたようで、今もその温もりが忘れられない。
そして邸には静かな緊張が漂っている。今日、霞若は元服を迎える。大人として最初の日。父、四条道隆の嫡男として、初めて人の前に”男”として立つ日。
女房たちに身を整えられながら、鏡に映る自らの姿を見つめていた。白い狩衣に重ねられた薄紫の単衣、そして腰には初めての石帯。
その薄紫が、あの日山で摘んだ花を思い出させる。
袖を通しながらも、心はどこか遠く、山の笛の音を探していた。
そう小さく呟いた言葉は、女房たちに聞かれることなく、春の風に消えて行った。
加冠の儀は、父、道隆の手により執り行われた。
父、道隆は静かに言いながら、黒漆の冠を霞若の頭に載せる。厳かな重み。額に触れた時に思った。
もう、子供ではいられないのだ。好むと好まざると関係なく。
加冠とともに、霞若は童名を捨て、新たな|諱《いみな》を授かった。”真夏”。父から授かった名である。だが、夢の中では、博嗣には、やはり霞若のままでいたいと思った。
披露の宴では、親族、公家たちが集い、楽が奏でられ、華やかな祝辞が飛び交う。だが、霞若の、いや、真夏の心は杯の香にも、膳の味にも染まらない。
――博嗣さまは、今ごろ何をしておいでだろう
懐には、博嗣の母の形見だというあの龍笛。誰にも見つからぬように仕込んだ。あの音を決して忘れぬように。いや、博嗣のことを忘れぬように。
そして楽を聞いて思う。博嗣さまの笛の方が上手いのに。そんなことは言えないけれど。
夜、帳が下ろされた後。真夏は1人、寝所の窓を開けて月を眺めた。春の月は静かで、どこか哀しい。
笛を取りだし、そっと唇を添えてみる。まだ思うようには吹けない。けれど、微かな風が通る。
――風よ、博嗣さまのもとへ。
そうして横になり、目を閉じた。
夢の中、月の差す岩の上に、変わらぬ姿の博嗣が待っていた。
霞若とは呼んで貰えない。それでも、博嗣に呼ばれるのはなんだか特別な気がした。もう、童ではないのだから。霞若のままではいられないのは当然だ。
博嗣は、真夏の頬に指先でそっと触れる。まるで壊れ物に触れるように優しく。
2人の間に、静かに風が吹いた。
薄紅の花が散った都に初夏の匂いが忍び寄る。今日は初めて朝廷に参内する日。右大臣、四条道隆の嫡男として元服を済ませた真夏が、ついに初めて御所の敷居を跨ぐ日だった。
夜明け前から、邸内は慌ただしく動いていた。装束を整える女房たちの手は丁寧で、しかし真夏の心は衣の重みよりもずっと重たい何かを抱えていた。
この身は、もう霞若ではなく、”真夏”なのだ。山にいた、あの霞若はもういない。
牛車に乗り、朝の静けさに包まれた道を進む。薄曇りの空の下、朱の御門が見えてくる。鼓動が耳の奥で鳴った。まるで龍笛の音が遠くから聞こえてくるようだった。
――博嗣さま……
懐に忍ばせた笛がわずかに熱を持つ。博嗣から授かったあの笛。指を添えてくれた大きな手。優しい声。そして、夢で交わした言葉。それらが真夏を支えていた。
清涼殿に進み、父の後ろに続いて御前へ進む。漆黒の束帯は重く、冠の重さは責任そのものだった。
拝礼の作法は覚えている。深く、静かに頭を下げる。けれど、心はあの山の岩の上にあった。博嗣が座っていた場所。風が桜の花びらを舞わせていたあの景色。
見ていて欲しいのは他の誰でもない博嗣だった。
天皇陛下の前で名を呼ばれる。「四条真夏」父より授けられた新たな名。その響きに、胸が締め付けられる。
霞若という名を呼んで貰えたから好きになれたのに……。それでは、真夏と呼んで貰えたら好きになれるだろうか。思わず泣きそうになる。
それでも顔は上げねばならない。声を出し、礼を尽くし、男として立たねばならない。
礼が終わり、御所を出るとき、ふと吹いた風が額にかかった髪を揺らした。その風が、どこか山の匂いを含んで感じた。
夢で会えますように。そう願いながら、真夏は牛車に乗った。再び父の邸に戻ってゆく道。けれど、心は山の方へと向かっていた。
帰路の牛車の中、真夏は薄く開けた御簾の隙間から、静かに流れる都の街並みを見ていた。
左右に流れて行く、人々の暮らし。朝露に濡れた若葉。香を焚いたような初夏の空気。全てが美しく整えられているけれど、どこか遠い。まるで自分がその景色の一部になりきれずに、ただ外から眺めているような感じがした。
女房の1人が声を掛けてきた。けれど真夏は笑みを浮かべて、首を横に振る。
胸の内では、考え事などという言葉では済まぬ思いが渦巻いていた。元服は、父の期待に応えるためでもあった。
名を継ぎ、家を背負う者としての責務は理解している。けれど、名が変わることが、これほど霞若という存在を遠ざけていくのかと思い知る。
あの山で過ごした日々は、決して夢ではなかった。風に舞う花。博嗣の吹く、笛の音。その手の温もり。そして、お前が来てくれるならば、それで十分と言った声。あの言葉だけが、自分を繋ぎ止めている。
ふと、懐に手を忍ばせ、笛に触れる。冷たく、でもどこか体温を帯びていた。手のひらに重なるそれは、ただの楽器ではない。2人を繋ぐ絆のようだった。
牛車が門を越える音。邸の女たちが迎える気配がする。真夏はゆっくりと体を起こし、襟元を正した。
もう、霞若ではない。博嗣に見せたいのは、こんな偽りの姿ではなく、本当の自分だ。
邸に戻っても山に向ける祈りは変わらない。夜を待とう。夢の中で、あの岩で会えるように……。
言葉は少なくても、2人の間には静かな安らぎが満ちていた。夢の中で寄り添う。この想いが夢の中でも消えぬようにと願いながら。