EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

邂逅 02

それからは毎日同じような時間に岩のところへ通った。

それに対して頼子は何も言わない。最近は発作を起こしたことはないし、都に帰るのも決まっている。だから自由にさせてくれているのだろう。自由でいられるのもあと僅かだから。

そして霞若の方も、あまり頼子に心配をかけないように、暗くなる前には帰っている。


「若様は最近、とても良いお顔をしていらっしゃいますね」
「え?」

夕餉のあとに頼子が言った。

良い顔とはなんのことだろう。わからなくて首を傾げる。それに対して頼子は小さく笑う。


「最近、とても楽しそうな、そして柔らかいお顔をしていらっしゃいます」

楽しそう……。その言葉を繰り返す。その言葉には覚えがある。

毎日、岩で博嗣に会えることが楽しみなのだ。それが顔に表れているのかもしれない。柔らかい顔というのは、博嗣の奏でるあの音色を聞いているからだろうか。


「都に帰れば、もうこうやって過ごすことは出来なくなります。それまで楽しんで過ごされてください。頼子は、今の若様のお顔は好きでございますよ」
「ありがとう、頼子」
「いいえ」

やはり都に帰るのが決まっているから自由にさせてくれているのだ。そうであれば、心配させないように、でも楽しもう。


「ねえ、頼子。龍笛って難しそうだね」
「龍笛でございますか? どこかで龍笛をお聞きになったのでございますか? 最近、この辺に来ている貴族はいないはずでございますが」

博嗣が吹いているあの音は、山荘までは届いていないらしい。

そう思うと、頼子の言葉にひやりとする。

そうだ。それに最近は、山で貴族には会っていない。それなのに龍笛の話題なんておかしい。


「あ、ううん。龍笛に限らず雅楽の楽器ってどれも難しそうだなってふと思っただけだよ」
「そうでございますか。確かにそうでございますわね。若様は雅楽に関心をお持ちなのですね」
「ちょっとだけね」
「さすがは右大臣、四条の若様でいらっしゃいますね」

良かった。うまくごまかせたようだ。雅楽になんて興味もないけれど、そうでも言わなければごまかせなかった。まさか鬼が龍笛を吹いていて、その音色がいい、などとは言えない。

鬼……。鬼と会っているなんて頼子が知ったらどうなるんだろう。でも、その鬼は誰よりも優しい目をしている。なんてことを言ったら大変だろう。

都では何年かに1度、鬼が出たとざわつくことがある。誰かが鬼に喰われたと話題になるのだ。


「ねえ、頼子。頼子は鬼に会ったことはある?」
「急になんでございますか。雅楽のお話をなさっておりましたのに」
「ごめん」
「いいえ、良いのですよ。鬼、でございますか。会ったことなどございませんよ。会っていたら、今ごろ生きておりません」

鬼に喰われているという意味だろう。鬼はみんな人を喰らうと思っているのだろう。そんなことないのにと思う。博嗣が誠に鬼だと言うのならば、人を喰らわない鬼もいるということだ。


「鬼ってどんな姿なんだろう」
「頼子も会ったことはございませんが、真っ赤な顔をして頭には角が生えていて、とても怖い顔をしていると聞いたことがございます」
「赤い顔をして、角……」
「若様。もし山で鬼を見かけたら、すぐに逃げてくださいませね。そして、都へ戻りましょう。山より都の方が安全ですものね」

まさか、鬼と名乗る人と毎日会っているなどと言えない。そんなことが知れてしまえば、元服を前に都へ戻らなくてはいけなくなる。山をおりるその日まで誰にも知られるわけにはいかない。

明日も博嗣さまに会いたい……。


 

その日、霞若は自作の笛を持って山へ出かけた。手先は器用ではなくて、必死に削った細い竹の笛だった。


「笛を作ったのか」
「はい。不器用でうまくはできませんでしたが」
「貸してみろ」

博嗣がそっと笛を受けとり、しばらく笛を眺めたあと、そっと唇を近づけ笛を吹いた。


「……いい音だ」

音は浅く、震えていた。それでも博嗣はいい音だと言ってくれるのか。


「この笛を貰ってもいいか?」
「はい。こんな笛でよろしければ」
「大切にする」

所詮子供の、しかも不器用な子供が作った竹笛だ。音だって良くはない。それなのに大切にすると言ってくれるのか。それが嬉しくて胸が温かくなった。


「いつ山をおりる?」
「桜が終わる頃に」
「そうか……」
「それまで……それまで、会っていただけますか?」

博嗣とは、知り合ってからまだ数日だが毎日会えている。博嗣が同じ岩の上にいるからだ。

これからもここにいてくれるだろうか? 同じところにいてくれるのであれば、会うことはできる。

博嗣といると胸の奥が温かくなり、でも苦しくもなるのだ。そして、会いたくて会いたくてたまらないのだ。

この気持ちをなんというのかは知らない。ただ、他の人には感じたことのない気持ちを博嗣には感じるのだ。


「お前がここに来るのなら。私はここにいるだろう」

ここに来れば会えると、そう言ってくれるのか。それが、とても嬉しい。


「博嗣さま……」
「……お前にそう呼ばれるのは、胸がくすぐったくなるな。霞若」

そう言って小さく笑う博嗣に、それこそ胸がくすぐったくなる。

名前を優しく呼んでくれることで胸が震える。

こんな感情は知らない。名前なんて父にも母にも呼ばれているのに博嗣に呼ばれるのだけが特別なのだ。


「ずっと山にいたい」
「そんなことを言うものではない」
「でも、都へ帰れば博嗣さまに会えなくなってしまいます」
「お前は人として大人になっていくんだ」
「あなたに会えなくなるのなら、大人になんかなりたくない」
「そう言うでない。お前は山の者ではない。都の人間だ」

博嗣に線を引かれるのが悲しかった。都の人間と言われるのがこんなに辛いと思ったことはない。

右大臣、四条道隆を父に持つのだ。都にいる人間なのはわかっている。山には咳と喘鳴の為にいたのだ。それについて今までどうと思ったことはない。だけど、今は博嗣と同じ山の者でありたかった。

 
「山をおりてしまったら、あなたのことをいつか忘れてしまうのでしょうか」
「忘れてしまってもよい。ただ……この風の音と笛の音だけ覚えていてくれたらそれでいい」
「いやだ。博嗣さま。あなたの事を忘れたくなんてない」

博嗣のことを忘れるというのは、この胸の温もりも、切なさも、痛みも全て忘れてしまうということだ。


「お前が私のことを忘れてしまっても、私はお前のことを覚えているよ、霞若」
 

その言葉が嬉しくて、でも自分が忘れてしまうかもしれないことが嫌で、気がついたら頬に一筋の涙が伝っていた。


「泣くでない。山にいるときであれば会えるであろう。山をおりてしまっても、お前が望むなら夢で会うこともできるだろう」
「夢で、会ってくださるのですか? 夢でもこうやって会っていただけるのですね」
「お前が私を忘れなければ、な」

夢で会ってくれるというのか。現で会えなくなっても、夢の中でなら会えると、そう言ってくれるのか。その言葉が嬉しくて、泣きながら笑った。




「帝。雨でございますよ。お出かけになられるのですか」

屋敷を出ようとしたところで聞こえた声に振り向くと臣下の高光がいた。


「高光か。ああ、少し出てくる」
「最近、毎日お出かけになられますね」
「ちょっとな」
「足元がぬかるんでおります。お気をつけて」
「ああ」
「そして、人間の子供にあまりうつつを抜かさぬよう。所詮は相容れない相手でございます」

高光にはお見通しであったか、そう思って苦笑いを浮かべる。きっと、毎日出かける自分を不審に思って水晶でも覗いたのだろう。


「わかっているよ」
「……」
「行ってくる」

高光は水晶で見たいと思う物事を見ることができる。例えそれがどれだけ離れていても。だから、博嗣の行動を見ようと思えば簡単なことだ。

背中に高光の視線を感じながら屋敷を出た。雨が降っているから、本当は出かけるのはやめようと思ったのだ。それでも、もしかしたら霞若が来るかもしれない。そう思ったら行かないわけにはいかなかった。

自分を待って、体が冷えて風邪を引いてしまったらいけない。そう思ったのだ。

雨でぬかるんだ道を転ばないように、踏みしめて歩く。霞若は転んでしまわないだろうか。そんなことを心配する。

少し歩くと、いつも霞若と会う岩が見える。まだ霞若はいないようだ。いや、もしかしたら雨だから来ないかもしれない。それならそれでいい。少し笛でも吹いてから帰ればいいだけのことだ。

いつも座っているところでは雨に濡れてしまうので、近くの岩陰に座り笛を吹く。母を思って。霞若を思って。

霞若を思う自分の感情をなんというのか。それはもう知っている。亡き父のように人間である者を想ってしまうなど、高光が言うまでもなく空しいだけだとわかっている。それでも会いたいと思うのだ。

霞若はもうすぐ山をおりる。そうしたら、もう今までのように会うことはできない。だから、今だけ。今だけは会いたい。

出会ったときは、人間の子供だと思って距離を保とうとした。けれど、恐れずに近づいてくる霞若に、戸惑いながらも惹かれていったのだ。

霞若は自分を”人ならぬ者”として扱わず、”博嗣”としてみてくれる。そこには鬼の帝などではない。ただの博嗣でいられるのだ。それで惹かれないわけがない。

ふと足元を見ると雪割草の紫が目に入った。霞若が綺麗だと言った花だ。女房に持っていくのだ、と言って摘んでいた。雪割草という名前を教えたのは自分だ。

野に咲く花を見るだけで霞若を思い出す。霞若が山をおりたら寂しくなる。夢でもいいから会いたいと望むのは霞若ではなく自分だ。

そんなことを思いながら笛を吹く。母を思って吹いていた笛が、今は霞若を思って吹くようになった。そのことは霞若は知らなくていい。自分だけが知っていればいいのだ。


「博嗣さま……」

か細い声がどこからなくとも聞こえ、声の方に視線をやれば、そこには霞若がいた。


「来たか」
「はい」
「雨でぬかるんでいただろう」
「はい。でも、博嗣さまがいらっしゃるかもしれないと思ったら来ずにはいられなかったのです」
「濡れている」

隣に並んだ霞若に、外套の裾を霞若の肩に掛けてやる。風が入ってはきたが、不思議と寒いとは思わなかった。


「……雨の音も、母は好きだった」
「私も、今は好きです」

 

染井吉野が終わり、山桜も終わろうという頃、霞若は小さな声で言った。

 
 「山をおりる日が決まりました」

いつもと同じように霞若と2人でいる時に、ぽつりと霞若が言ったのだ。それが聞こえて、吹いていた笛を吹くのをやめ、霞若に目をやる。


「3日後、都より父の使いが来ると、頼子が――女房が言っておりました」
「そうか……」

桜が終わったら。霞若は言っていたではないか。だから桜の花が開いたときに怖くなったのだ。霞若と別れなければいけない時が近づいていると。


「山をおりたくない! 博嗣さまのお側にいたい!」
「そのようなことを申すでない。夢で会えると、そう言ったであろう」
「ですが……」
「それなら、この笛をやろう」

そう言って母の形見である笛を差し出す。何があっても離さなかった母の形見の笛だ。この笛を吹くと母が近くにいるような、そんな気がした。けれど、霞若になら。この笛で霞若が自分を忘れないのならば、この笛は霞若にやろう。


「そんな。お母上の形見なのでしょう?」
「母上の形見ではあるが、私の形見にもなる。この笛の音だけは覚えていて欲しいから」
「博嗣さま……」

そうだ。風の音だけ。笛の音だけ覚えていて欲しいと思っていたけれど、結局は自分のことも覚えていて欲しいのだ。だから笛を渡す。それで自分のことを忘れないでいてくれるのであれば、大事な母の形見ではあるけれど、霞若になら渡せる。


「本当に良いのですか? この大切な笛を貰ってしまっても」
「ああ。どうせなら、もう一度笛の練習をしてみるか?」
「でも、笛を落としてしまいそうで」
「落としたってよい」

そう言って霞若の背中から霞若の手を握り、笛の穴を塞ぐ。


「優しく息を吐いてみろ」

そう言うと霞若は少し怖そうに、だけど確かに息を吐き、笛の音が鳴った。


「音が出たであろう」
「はい!」
「もう少し吹いてみるか?」
「はい。もう少しだけ……」

霞若の小さな手は、まだ頼りないけれど必死に笛を握っていた。吹く音も拙く、震えていたが、博嗣の指が重なる度に、まるで2人の想いが少しずつ重なっていくようだった。


「私、きっと忘れません。この音も、あなたのことも」

霞若の声は震えていた。それでも、唇を笛から離して博嗣の方をしっかりと向き、目を合わせて言ったのだ。

大人に成長していく子供だけれど、それでもはっきりとそう言ってくれるまっすぐな思いが、何よりも尊く感じた。


「霞若。都へ行けば、お前は忙しくなる。都には音も光も、人も多くて、きっと私のことなど……」
「忘れません!」

言葉を遮るように強い口調で霞若が言う。その事にびっくりする。


「都でも、博嗣さまに会いたくて、きっと探してしまいます。ただ、会いたいのです」

風がひとひらの桜の花びらを運んでくる。霞若は、その花びらを見ながら問うてくる。


「博嗣さま。もし夢の中で私があなたの名を呼んだら、返事をしていただけますか?」
「ああ。呼ばれたら、何度でも応えよう」

そう答えると、霞若の頬に一筋の涙が伝う。


「さあ寒くなってきた。そろそろ戻れ」
「……はい。では、もう一度だけ博嗣さまの音を聞かせてください」

その言葉に頷き、霞若の手元から笛を取り上げ、母が残してくれた音を霞若へ向けて吹いた。