EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

邂逅 01

「花があると山荘の中が華やかになると頼子が言っていたから、なにか摘んでいこう」

そう思って山荘近くで霞若は花を摘んでいた。名も知らぬ野の花だけれど、薄紫で可憐な花が咲いている。こんな花でも頼子は喜んでくれるだろうか。

頼子は右大臣の跡取りとなる霞若に仕えてくれている女房の1人だ。霞若が物心つくかつかないかの頃から仕えてくれていて、ちょっと怖いときもあるけれどとても頼りになる女房だ。きっとこのまま都に戻って元服をしてもいてくれるだろう。

そんなことを考えながら花を摘んでいると、どこかから龍笛の音が聞こえてきた。雅楽で聴く龍笛をこんな山の中で聴くのは初めてだ。どこかの貴族が来たのだろうか。この辺は貴族の山荘がぽつりぽつりとあるのでそうかもしれない。

音に誘われ、音の聞こえる方へと進むと、岩の上に1人、人が座していた。銀色の長い髪を風になびかせ、端整な横顔に笛をあてる姿は何歳くらいだろう。霞若よりも5歳ほどは年上だろうか。

でも、髪を結ってはいないし、烏帽子も被っていない。それどころか直衣姿でも狩衣姿でもない。白い衣の上に綺麗な緋色の衣をしどけなく着ている。貴族では、ない?

霞若の年齢だって既に元服していたりするのに、この年齢の人がこんな格好をしているのなんて見たことがない。

その姿はこの世の者とは思えぬ気配をまとい、霞若が今まで見て来たどんな大人よりも深い目をしていた。そして吹くその音色は、とても静かで優しいけれど、どこか悲しみが感じられ切なさを感じさせた。


「人か……それとも……」

霞若の小さな呟きが聞こえたのか、笛を吹いていたその人が振り返る。そして霞若を見つけると小さく微笑んだ。


「人の子の声を聞くなんて久しくなかったな」
「あの……申し訳、ありません?」
「謝らなくてもいい。……私が怖くないのか?」
「え? 怖い? いいえ」
「そうか。私が鬼だと言っても?」
「鬼、なのですか? いいえ。それでも不思議と怖くはありません。それよりもその笛の音が胸にささるのです。まるで誰かを思っているようで」
「そうか。これは母の音なのだ。人であった母がよく吹いていた」

そう言って微笑む姿に胸を締め付けられる。もう、お母上はいらっしゃらないのだろうか。まるでそんな言い方だ。

その青年は膝の上に置いた龍笛に手をやり、霞若の方へと顔をやる。


「……この音を、覚えていてくれるか」
「はい。きっと、忘れません。あの音は胸の奥でなにかを呼び起こすのです。だからきっと、忘れたくても忘れられない」
「そうか……。母は、風が吹くたび、誰かを思っているように笛を吹いていた。”人と鬼が交わることは叶わぬ夢”……そう言って悲しそうに笑っていた」

そう青年が言う言葉を霞若は頷くことも、返事をすることもできずに、ただその端整な横顔を見つめていた。

この人は、なんて寂しそうに笑うのだろう。そう思うと胸が痛い。

2人の間に風が吹き、銀色の髪がふわりと舞う。なんて美しいんだろう。


「あなたのお母上は、きっと、とても優しい方だったのでしょうね」
「ああ。優しくて、でも強くて。だから、死んでしまった」

その言葉に霞若は小さく息をのんだ。悲しいことを言っているのに、銀色の髪のその人はただ静かに、怒りも悲しみも滲ませずに、ただ淡々と話す。それがまた霞若の胸を苦しくする。


「だが、その優しさを私は笛にして持っている。そしてお前のような子に出会うために」
「私、ですか?」
「お前は優しい子であろう? 花を摘むその手が誰かを傷つけるようには見えないからな。お前は優しい子だ。どうか、そのままでいてくれ」

胸が苦しいはずなのに、なぜか胸の奥が温かくなり、その顔から目を離すことができなかった。


「名をなんという?」
「霞若と申します」
「霞若か。……良い名だ」
「あなたは?」
「博嗣だ」

その名を聞いたとたん、霞若の中に妙な既視感が走った。なんだろう。初めて会ったのに、胸が痛くて、切ない。

名を名乗ったその人ー博嗣ーはもう一度唇に笛をあてた。今度の旋律は先ほどのような胸の苦しみはなく、ほんの少し暖かさを感じた。



「若様、花を摘んできてくださったのですね」

博嗣に出会ったあと、霞若はぼんやりと手に花を持ち山荘へと戻った。その姿を頼子が見つけた。


「あ、うん。こんな花でもいいかな」
「ええ、十分ですわ。若様の心がこもっているのですもの。若様はお優しい。元服してもそのままでいてくださいね」

元服……。

頼子が何気なく言った元服という言葉に寂しくなった。

元服してしまえば、今のように山を駆け回ることもできない。それどころか、きっとどこかの姫君との結婚を決められてしまうだろう。

霞若は15歳だ。元服するには少し遅い。幼い頃、気管支の患いがあり、この山で養生していた。

しかし、それも最近では良くなり、気にならなくなってきた。

そして、さすがに貴族の息子が15歳にもなって元服していないのはおかしい。だから今年、この桜が終わってから山を降り、元服をする予定だ。都では霞若と同じ歳ですでに元服を済ませ宮中に参じている人間がたくさんいるのだから。

父は元服を待ってくれたのだ。患いがほとんどみえなくなってからも、山にいることを許してくれたのだ。

とはいえ15歳にもなって貴族の子供が元服もせずに山を駆け回っているわけにもいかない。いくら霞若が大人になりたくないといっても。だから、今年の桜が終わったら山を降り元服することになったのだ。


「元服しても頼子は傍にいてくれる?」
「もちろんでございますとも。若様がいくつになっても、この頼子は若様に仕えさせていただきますよ」
「そうか。ありがとう」

あの山であった青年の母君が亡くなったと聞いたからだろうか。周りの人がいなくなったらと思い、寂しくなってしまったのだ。でも、頼子は元服をしても傍にいてくれると言った。

 
「どうかなさいましたか、若様」
「え?……ああ、なんでもないよ。いつまでも今のままではいられないと思ったから」
「そうなのでございますね。でも、若様が元服をなさってもなにも変わりはございません。若様は若様のままで、頼子はいつまでも若様のお側近くにいさせて頂きます」
「そうか。頼子がいてくれるのなら良かった」

霞若にはまだ母はいる。父だって健在だ。でも、この山荘にいると、都の父や母とは会うこともなく、頼子ら女房しかいないのだ。いや、都に戻ったとしても頼子ら女房の方が身近かもしれない。だから、頼子がいなくなってしまったら……と考えてしまったのだ。


「明日も花を摘みに行ってくるよ」
「そんなに毎日でなくてもいいのですよ」
「でも、春はたくさんの花が咲いている。そんな花で山荘を飾るのもいいんじゃないかな」
「若様はお優しくて、風流でいらっしゃる」

風流? そうだろうか。花を飾るのがいいと思う言葉に嘘はない。けれど頼子の言う通り毎日摘みにいかなくてもいいだろう。でも、あの人に会いたいのだ。あの銀色の髪の人に。

 
「でしたら若様。明日も愛らしいお花をお待ちしておりますね」
「うん。待っていて。また違う花を摘んでくるよ」

そう頼子に言って、明日も山へ行くことを暗に告げる。明日もあの人に会えるだろうか。確証はなにもないけれど、なんとなくあの場所へ行けばまた会えるような気がするのだ。

きっと明日もまた会える。そう思うのに、それまでの時間がじれったくて、そして待ち遠しくて、その晩は布団の中に入ってもなかなか寝付けなかった。

寝ないとだめだ。寝不足で山へ行ったりなんかしたら怪我をしてしまいかねない。だから寝ないとだめだ。そう思って目をぎゅっと瞑った。そうしてどれくらいたっただろうか。気がついたら夢の中に旅立っていた。




翌日、会えるだろうかとドキドキしながら昨日出会った岩のところを目指すと、昨日と同じように龍笛の音色が聞こえて来た。

足元の草を踏む音が聞こえたのだろう、博嗣がこちらを見た。


「来たか」
「はい。その音が忘れられなくて」
「そうか。私が母の音を忘れられないのと同じか」

博嗣はそう言って寂しそうに小さく笑う。その笑顔があまりにも切なくて足元の野花に目を移した。そしてその小さな薄紫の花を摘む。それがとても儚く思えた。きっと博嗣の母上もそんな存在だったのだろうか。


「お母上の音色を、忘れたくなかったのですか?」

そう問うと博嗣は一瞬、視線を空に向けた。そして、ゆるやかに微笑む。


「忘れようとしても忘れられなかったのだよ。あの音は胸の内に残っていて、風が吹く度に思い出す。だから、こうして吹かずにはいられない」

その声は静かで、どこまでも優しく切なかった。だから思わずほんの一歩だけ彼に近づいた。博嗣はそれを見ていたがなにも言わなかった。ただ、そっと笛を膝に置いて見つめてきた。その目には怒りも驚きもない、ただ深く澄んだものだった。


「あなたは鬼だというけれど、人よりずっと人らしいのですね」
「そう言ったのはお前が初めてだよ、霞若」
「私、どうしてかあなたといると心が静かになるのです。怖くはありません。それよりももっと……」
「もっと?」
「もっとここにいたくなる。ずっとこうして、傍にいたくなります……」

言葉にしてしまえばなぜか胸が締め付けられる。そしてその言葉を聞いた博嗣はそっと目を伏せそして小さく頷いた。


「ならば、そうしていればよい。お前がくるのなら、風の許す限り私はここで笛を吹こう」

その言葉に霞若ははっと目を見開いた。胸の奥がなにか熱いなにかで満たされていく。


「約束、していただけますか?」
「ああ、約束しよう」

風に葉がさざめき、小鳥が遠くで鳴いている。2人の間にはそれ以外の音がなかった。そして、その静寂を破ったのは霞若だった。


「その笛は、難しいのですか?」
「吹いてみるか?」

そっと龍笛を渡してくれる。そして博嗣がしていたように下唇を近づける。


「穴を第2関節あたりで抑えてみろ」

第2関節で……。

言われた通りにするが、不器用な霞若には笛を落としそうになる。それで霞若は吹こうとすることを諦めた。


「持つこと自体が私には難しいようです」

そう言って龍笛を博嗣に返す。博嗣は小さく笑い、こちらへ手を伸ばしてくる。そのとき、ふと触れた博嗣の指先に胸が波立ち、胸が痛くなる。

なんでだろう。なぜ胸が痛くなるんだろう。その理由がわからない。でも、博嗣といたいと、ただそれだけを思う。


「博嗣さまが、吹いてください」

そうお願いすると博嗣はなんなく、柔らかい音色を奏で始めた。その音は柔らかくて優しくて、どこか悲しげで儚げで、博嗣が消えてしまうんではないかと馬鹿なことを考えて、目を離すことができない。


「その笛も私に吹かれるよりも、博嗣さまに吹いて貰うほうが嬉しいでしょうね」

そう自傷して言うと博嗣は小さく笑う。


「誰が吹いても笛は変わらないよ。お前も慣れれば吹けるようになる」
「そうでしょうか。でも、吹けるようになる前に笛を落としてだめにしてしまいそうです」

不器用だから。

その言葉に博嗣は微笑む。そして、また優しくて儚い音色を奏でた。