どこかの山の中。空気は湿っていて、蝉の声が遠くから響いていた。木々は鬱蒼と茂り、差し込む陽射しは粒のように光の斑となって地面に落ちている。
岩の上には1人の男性が腰を下ろしていた。
銀色の長い髪をそのままに、白い着物の上から水色の単衣をしどけなく羽織っている。年の頃は20代半ば頃だろうか。けれど、その着物のせいか、もっと若くも見えた。
彼が向ける瞳はどこか優しく、そして、どこか切ない。
一体、いつの時代の人なのだろう。武士には見えない。でも、束帯を着ているわけではないから貴族にも見えづらい。けれど、庶民には到底見えない、不思議な気配を纏っていた。
彼の着ている着物からして、平安時代のものではないか――そう思える。
その姿を、真夏は夢の中で何度も見てきた。物心つく頃から、繰り返し繰り返し、まるで何かを訴えるように現れる夢。
名前も、時代も、何もわからない。
ただ懐かしい。知っている人のような気がする。どこの誰かはわからない。けれど、会うたびに心の奥が揺れる。
彼は何かを話しているようだった。けれどその声は遠く、何を言っているのかは聞こえなかった。
――真夏
その時、名前を呼ばれた気がした。いや、きっとこの夢の中の彼が真夏の名を呼んだのだろう。
その瞬間、真夏の胸の奥がぎゅっと締め付けられる。何故、自分の名前を知っているのだろう。彼は自分の何を知っているのだろう。
懐かしくて、切なくて、でも何も思い出せない。きっと忘れてしまっているのだ。大切な何かを――この人との過去を。
だから彼はあんな瞳をしているのだろうか。
真夏が思い出したら彼はどんな表情を見せてくれるのだろう。
心の奥底にしまい込まれている記憶。その扉の鍵が、彼の名を呼ぶ声の中にある気がした。
今はまだ、その夢の意味も、夢に現れる彼の正体もわからない。
けれど、真夏には確かな感覚があった。――いつかきっと、また彼と会える。そんな予感だけは不思議とずっと胸に灯っていた。