長い銀の髪が風に揺れていた。
白い着物の上に薄紫の単衣を羽織っている。肩から滑り落ちそうなほどにしどけなく着崩しているのに、不思議とだらしなさは感じない。
岩の上に座り、こちらを見ている。
そして、手には何かを持っている。笛? 緑色の笛。竹笛?
その人は何も言わない。いや、言っている。単に聞こえないだけだ。だって、口元が少し動いている。
それを見て、真夏は思わず名前を呼びそうになった。
名前など知らないはずだ。だって知らない人なのだから。そのはずなのに、喉の奥が懐かしさに震える。胸の奥がぎゅっと痛くなる。
そして目が覚めると、いつもの自分の部屋の天井が見えた。まだ夜は明けきっていないようだ。ベッド脇の窓のカーテンの隙間から、わずかな青白い光が差し込んでいる。
夢だった。いつもの夢。
銀髪の男。白い衣。何も語らないまま、ただ風の中にいる。
真夏は呼吸を整えるように、ゆっくりと息を吐いた。
目を閉じれば、また会えるだろうか。いや、もう消えてしまったかもしれない。
ぽつりと呟いた声が、薄明かりの部屋に溶けていく。
この夢を最初に見たのはいつだろう。恐らく物心つく前からだ。物心ついた頃には、すでにこの夢を見ていた。
最初はただの夢だと思っていた。けれどあれから10年以上経っても、彼は変わらぬ姿で夢の中に現れる。
歳月も、季節も、感情すらも超えて、まるで何かを伝えようとするかのように。
でも、肝心の名前が思い出せない。いや、思い出すということ自体、何かが間違えている気がする。だって、会ったこともない人を「思い出す」というのはおかしいだろう。
それでも胸の奥が強く訴えている。
全部、思い出さなきゃいけない。
そんなことを考えていると、眠気を逃がしてしまう。
そんな言葉が薄闇に溶けていく。
どう見ても武士には見えない。ということは鎌倉時代より前だろう。
でも、貴族にも見えない。束帯姿でもないし、髪は結い上げていない上に烏帽子も被っていない。
では貴族の元服前なのか、とも思うけれど、見た目の年齢からしてそれはおかしい。どう見ても20歳は過ぎているだろう。24、5歳といったところだろうか。
そんな年齢であんな着物の着方をしていて、束帯姿でもない。ということは平安時代より前なんだろうか。いや、どの時代にいってもあんな姿の人がいるとは思えない。
ということはただの想像の夢なんだろうか。だとしたら、この「思い出さなきゃ」というのは何だというのだ。
このわけのわからない夢を小さい頃から何度となく見ている。そして、その度に「思い出さなきゃ」と思う。けれど、名前もわからないし、自分とどういう関係なのか、どの時代の人なのかさっぱりわからない。つまり、何一つわからないということだ。
なのに、思い出さなきゃいけないという気持ちだけが急いて、もどかしい。
そもそもただの夢じゃないのか? 思い出さなきゃっていうのは勝手に思い込んでいるだけなのでは? そう思ったことなんて何度もある。それでも、そう思った後にまた夢を見ると、悲しげな顔をしているんだ。だから、思い出さなきゃいけないんだ。
起きるには早い時間ではあるけれど、ベッドの中にいると、あの夢のことばかり考えてしまうから良くない。着替えて散歩にでも行こう。そう思ってベッドから出て、着替え始めた。
真夏の問いに、正面に座る兼親が首を傾げる。
ここはカフェで2人は大学の夏休みを利用して行く、元伊勢行きについての相談をしていたところだった。
窓の外は夕暮れの空。外はまだまだ暑そうだ。ここ数日は熱帯夜と夢とで良く眠れていない。せめてカフェを出るのはもう少し気温が下がってからがいい。
そして思考を夢の話しへと戻す。
自分が記憶しているなかで一番古い記憶。それは誰かの名前でもなければ、出来事でもなかった。ただ、胸の奥に沈んだ違和感のようなもの。ずっと、何かを忘れている、そんな確信だけがあった。
兼親はコーヒーを飲む手を止め、じっと真夏の顔を見つめた。
言葉にすればするほど胸の中のもやは濃くなる。
全くないわけではなかった。ただ、それが本当に関係しているのかはわからない。たまたまかもしれないし。それは自分ではよくわからなかった。
兼親が怪訝そうに眉を寄せる。
真夏は困ったように笑う。けれど、その表情にはどこか焦りも感じられた。
その瞬間だった。
胸の奥。心臓が”どくり”と大きく跳ねた。
鬼退治……。
その言葉を聞いた途端、胸が締め付けられるように痛くなった。
息が詰まる。
目の前が一瞬にして暗くなる。
大江山……。
その言葉が深く胸に刺さった。
必死で呼吸を整えようとするけれど、うまくいかない。苦しい。手が震える。どうして? なんでこんなにも震える?
その言葉を繰り返すと、胸の痛みが増していく。苦しさと共に、何かがこぼれ落ちそうになる。
鬼退治。その言葉は子供の頃から何度も耳にしている。日本の昔話なんてたくさん鬼退治ものがあるじゃないか。それは、ただの昔話の一部に過ぎなかったはずだ。
茨木童子。
酒呑童子。
渡辺綱。
今まで何も感じなかった言葉が、なぜ今、こんなに胸をかき乱すのか。
自分は鬼を知っているのだろうか。いや、もしかすると。
そう思った瞬間、胸の奥に、微かな声がした気がする。
それは風のように、掴めないほどに弱く、けれど、確かにあった。
鬼……。
それが鍵を握っているような気がした。
兼親が呟いた声は、どこか真夏とは違う響きを帯びていた。
懐かしむようでもあり、遠くの誰かに呼びかけているようでもあった。
記憶の中には残ってない。でも、どこか確かに鬼に対して強く何かを感じていた時期はあった気がする。
それはただの好奇心とかじゃなくて、もっと切実で、もっと切ないような感情。
言葉にすると、胸の奥で何かが疼く。
その時、笛の音が聞こえた気がして、胸の奥に刺さっていた痛みが、ほんの少し和らいだ気がした。
真夏は一瞬迷った。けれど、次の瞬間、小さく頷いた。
外はまだ暑そうだ。大江山は涼しいだろうか。大江山の空気。なんだか知っている気がする。
そう思ってスマホを見ていると、本殿に行く途中に本殿遙拝所があるのを見つけた。
そう言うと兼親はスマホで予約を取った。
大江はホテル、旅館の類いが少ない。だから予約が取れないと大変だ。日程をずらす羽目になる。
そうやって元伊勢の旅行の話しは決まっていく。
行くんだ。大江山に。鬼がいる、と言われているところに。そう思うと心臓がまた”どくん”と跳ねた。