EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

夢の男 01

長い銀の髪が風に揺れていた。

白い着物の上に薄紫の単衣を羽織っている。肩から滑り落ちそうなほどにしどけなく着崩しているのに、不思議とだらしなさは感じない。

岩の上に座り、こちらを見ている。

そして、手には何かを持っている。笛? 緑色の笛。竹笛?

その人は何も言わない。いや、言っている。単に聞こえないだけだ。だって、口元が少し動いている。

それを見て、真夏は思わず名前を呼びそうになった。


(名前?)

名前など知らないはずだ。だって知らない人なのだから。そのはずなのに、喉の奥が懐かしさに震える。胸の奥がぎゅっと痛くなる。

そして目が覚めると、いつもの自分の部屋の天井が見えた。まだ夜は明けきっていないようだ。ベッド脇の窓のカーテンの隙間から、わずかな青白い光が差し込んでいる。

夢だった。いつもの夢。

銀髪の男。白い衣。何も語らないまま、ただ風の中にいる。

真夏は呼吸を整えるように、ゆっくりと息を吐いた。

目を閉じれば、また会えるだろうか。いや、もう消えてしまったかもしれない。


「あの人、誰なんだろう。でも、名前も知らないのに懐かしいって変だろ」

ぽつりと呟いた声が、薄明かりの部屋に溶けていく。

この夢を最初に見たのはいつだろう。恐らく物心つく前からだ。物心ついた頃には、すでにこの夢を見ていた。

最初はただの夢だと思っていた。けれどあれから10年以上経っても、彼は変わらぬ姿で夢の中に現れる。

歳月も、季節も、感情すらも超えて、まるで何かを伝えようとするかのように。

でも、肝心の名前が思い出せない。いや、思い出すということ自体、何かが間違えている気がする。だって、会ったこともない人を「思い出す」というのはおかしいだろう。

それでも胸の奥が強く訴えている。


「思い出さなきゃ。あの人のこと」

全部、思い出さなきゃいけない。

そんなことを考えていると、眠気を逃がしてしまう。


「あーぁ。今日も寝不足かぁ。暑さと夢で寝不足だよ」

そんな言葉が薄闇に溶けていく。


「でも、本当に誰なんだろう。その前にいつの時代?」

どう見ても武士には見えない。ということは鎌倉時代より前だろう。

でも、貴族にも見えない。束帯姿でもないし、髪は結い上げていない上に烏帽子も被っていない。

では貴族の元服前なのか、とも思うけれど、見た目の年齢からしてそれはおかしい。どう見ても20歳は過ぎているだろう。24、5歳といったところだろうか。

そんな年齢であんな着物の着方をしていて、束帯姿でもない。ということは平安時代より前なんだろうか。いや、どの時代にいってもあんな姿の人がいるとは思えない。

ということはただの想像の夢なんだろうか。だとしたら、この「思い出さなきゃ」というのは何だというのだ。


「もう。なんにもわかんないよ」

このわけのわからない夢を小さい頃から何度となく見ている。そして、その度に「思い出さなきゃ」と思う。けれど、名前もわからないし、自分とどういう関係なのか、どの時代の人なのかさっぱりわからない。つまり、何一つわからないということだ。

なのに、思い出さなきゃいけないという気持ちだけが急いて、もどかしい。

そもそもただの夢じゃないのか? 思い出さなきゃっていうのは勝手に思い込んでいるだけなのでは? そう思ったことなんて何度もある。それでも、そう思った後にまた夢を見ると、悲しげな顔をしているんだ。だから、思い出さなきゃいけないんだ。


「せめて、何を言っているのかわかればなぁ。でも、何を言ってるのかわからないし。読唇術でもできればなぁ。そしたら何を言っているかわかるのかな。読唇術の訓練でもするか?」

(ただの夢だったら読唇術なんて無駄になるよな。いや、そしたら、それはそれでいいんだろうか。)

「あーあ! ほんとにもう! わかんないよ! もう起きよう」

起きるには早い時間ではあるけれど、ベッドの中にいると、あの夢のことばかり考えてしまうから良くない。着替えて散歩にでも行こう。そう思ってベッドから出て、着替え始めた。


 
 
「思い出さなきゃって思ったのは、何歳からだったんだろうな」

真夏の問いに、正面に座る兼親が首を傾げる。

ここはカフェで2人は大学の夏休みを利用して行く、元伊勢行きについての相談をしていたところだった。


「小さな頃の記憶じゃないのか? 2歳とか3歳とかのさ」
「うーん……。違うな。だってその頃にはもう、”なにか”を探していたよ」

窓の外は夕暮れの空。外はまだまだ暑そうだ。ここ数日は熱帯夜と夢とで良く眠れていない。せめてカフェを出るのはもう少し気温が下がってからがいい。

そして思考を夢の話しへと戻す。

自分が記憶しているなかで一番古い記憶。それは誰かの名前でもなければ、出来事でもなかった。ただ、胸の奥に沈んだ違和感のようなもの。ずっと、何かを忘れている、そんな確信だけがあった。


「もちろん、それ以前に何かがあったって可能性はあるけど、なんとなく違う気がするんだよね」
「違う?」
「うん。忘れているのは”普通の記憶”じゃない。もっと前の、もっと……大事な何かだと思うんだ」

兼親はコーヒーを飲む手を止め、じっと真夏の顔を見つめた。


「……それ、かなり厄介だな」
「うん。すっきりしないから嫌なんだけど、どうしても思い出せないんだよ」

言葉にすればするほど胸の中のもやは濃くなる。


「何かきっかけがあればいいんじゃないか? 思い当たるキーワードとかさ。そういうのないのか?」
「うーん……」

全くないわけではなかった。ただ、それが本当に関係しているのかはわからない。たまたまかもしれないし。それは自分ではよくわからなかった。


「……平安時代」
「平安時代?」

兼親が怪訝そうに眉を寄せる。


「うん。歴史とか古典の授業で平安時代のことだったり、和歌だったりすると、懐かしいっていうか、なんか落ち着くんだよ。不思議なんだけどさ。で、あまり勉強してないのにテストの点もよかったし」
「だから大学も文学部だもんな」
「そうそう」
「で、その時代の何かに心当たりはあるのか?」
「それが全くないんだよ」

真夏は困ったように笑う。けれど、その表情にはどこか焦りも感じられた。


「平安時代と言えば、陰陽師とか?」
「うーん……。映画で観たけど、別にそこは何も感じないかな? あ、でもちょっと嫌な気はした」
「嫌な感じ? なんだ、それ」
「自分でもわからないよ」
「じゃあ、他に平安時代と言えば、鬼とか? そういえば真夏、小さい頃から鬼に反応してたじゃん」
「鬼……」

その瞬間だった。

胸の奥。心臓が”どくり”と大きく跳ねた。


「源頼光が渡辺綱をはじめ、四天王を連れて鬼退治に行ったっていうだろう。まぁ、おとぎ話だと思うけど。でも、他に平安時代と言って浮かぶものないんだよな」

鬼退治……。

その言葉を聞いた途端、胸が締め付けられるように痛くなった。

息が詰まる。

目の前が一瞬にして暗くなる。

 
「渡辺綱が茨木童子の腕を一条戻橋で切り落としたのは有名だよな。茨木童子と酒呑童子は大江山にいる鬼だった」

大江山……。

その言葉が深く胸に刺さった。


「どうした? 顔色が悪いぞ」
「うん……」

必死で呼吸を整えようとするけれど、うまくいかない。苦しい。手が震える。どうして? なんでこんなにも震える?


「何かひっかかる言葉があったのか?」
「大江山の鬼……」

その言葉を繰り返すと、胸の痛みが増していく。苦しさと共に、何かがこぼれ落ちそうになる。


「それが、思い出すべき”何か”と繋がっているのかもな」

鬼退治。その言葉は子供の頃から何度も耳にしている。日本の昔話なんてたくさん鬼退治ものがあるじゃないか。それは、ただの昔話の一部に過ぎなかったはずだ。

茨木童子。

酒呑童子。

渡辺綱。

今まで何も感じなかった言葉が、なぜ今、こんなに胸をかき乱すのか。


「鬼に何かされたのか? それとも……」

自分は鬼を知っているのだろうか。いや、もしかすると。

 
(自分が鬼を……。)
 

そう思った瞬間、胸の奥に、微かな声がした気がする。

それは風のように、掴めないほどに弱く、けれど、確かにあった。

鬼……。

それが鍵を握っているような気がした。


「鬼……か」

兼親が呟いた声は、どこか真夏とは違う響きを帯びていた。

懐かしむようでもあり、遠くの誰かに呼びかけているようでもあった。


「俺さ、忘れられないことがあるんだよ。多分小学校の頃だと思うけど、図書室で鬼の伝説とか妖怪絵巻の本を読んでたら、お前がじーっと見てきてさ、それ後で僕にも読ませてって言ってきたんだよ」
「そんなことあった?」
「うん。で、そのあと、鬼はほんとは悪くないのかも、って言ったんだよ。その時、変なやつって思ったから覚えてる。だって、普通、鬼って悪者じゃん」
「覚えてない」

記憶の中には残ってない。でも、どこか確かに鬼に対して強く何かを感じていた時期はあった気がする。

それはただの好奇心とかじゃなくて、もっと切実で、もっと切ないような感情。


「まだ、夢見るんだろ? ”銀色の髪の人”」
「うん。まだ思い出せないけど、ずっと見てる。顔ははっきりしないけど、懐かしい人だってことだけはわかる」

言葉にすると、胸の奥で何かが疼く。


「会いたいって思うとか?」
「うん。わからないままじゃダメな気がするんだ。思い出さなきゃ、会わなきゃって」

その時、笛の音が聞こえた気がして、胸の奥に刺さっていた痛みが、ほんの少し和らいだ気がした。


「今、笛の音聞こえた?」
「笛? そんなの聞こえないよ。それより、行ってみるか?」
「え?」
「大江山。そこに何かあるかもしれないじゃん。いや、何もないかもしれないけど、でもお前が鬼って言葉に反応するのも、元伊勢に行くことになってるのって偶然じゃない気がする」
「……」
「もし、それが夢の人と関係があるのなら――お前の過去と関係があるのなら、行く価値はあるだろ?」

真夏は一瞬迷った。けれど、次の瞬間、小さく頷いた。


「そうだね。大江山の近くまで行くんだし。行ってみよう。大江山に」

外はまだ暑そうだ。大江山は涼しいだろうか。大江山の空気。なんだか知っている気がする。

 
「よし、じゃあ元伊勢の話し、つめようぜ」
「そうだね。まずは外宮から」
「そうだな。外宮である豊受大神社に行ってから内宮の皇大神宮だね。天岩戸神社はどうする?」
「そりゃ行くよ」
「でも、鎖をつたって行くんだろ。ちょっと危険な感じがしないか?」
「だけど、見ないのももったいない」
「うーん……」

そう思ってスマホを見ていると、本殿に行く途中に本殿遙拝所があるのを見つけた。


「途中に本殿遙拝所があるみたいだな」
「じゃあ、実際に行ってみて決めよう。普通に行っている人いるから大丈夫だと思うけどな」
「そうだな。行くのは外宮に行く前にする? それとも内宮を行った後にする?」
「うーん。じゃあ内宮に近いから、内宮に行ったあとにしよう」
「で、その翌日、日本の鬼の交流博物館に行ってから大江山に行こう。なぁ。元伊勢に行くついでに天橋立も見て行かないか」
「そうだな。路線図見ると大江の先か。先に行くか後に行くか」
「先に行かないか。メインは元伊勢だし」
「そうだな、とりあえず大江の旅館は予約しなきゃね」
「じゃあ予約するか」

そう言うと兼親はスマホで予約を取った。

大江はホテル、旅館の類いが少ない。だから予約が取れないと大変だ。日程をずらす羽目になる。


「オッケー。取れたぞ」
「良かった」
 

そうやって元伊勢の旅行の話しは決まっていく。

行くんだ。大江山に。鬼がいる、と言われているところに。そう思うと心臓がまた”どくん”と跳ねた。