兼親の言葉に真夏は思わず笑ってしまった。兼親と真夏は幼馴染みで、同じ大学で、しかも同じ文学部だ。
そして夏休みの話しをしていて、どこか旅行に行かないかという話しから、元伊勢に行くことに決まったのだ。
そんな楽しい旅行の話しをしていても、大学3年生にもなると大学生活もそろそろ忙しくなる。
そう言いながら、兼親はストローをくわえて訊いてきた。
真夏は俯いたまま、グラスの結露を指でなぞる。
いつからなんだろう。
自分が何かを探していると感じるようになったのは。
物心ついた時にはもう探していたけれど。
でも、ただの夢じゃない。もっと深く、もっと根っこにある。そんな感覚だった。
兼親は黙って真夏の顔を見ている。
真夏はふと空を見上げた。駅前のここは車も人も多い。だから、テラス席のここでは車の音も人の話し声も煩いはずなのに、その響きさえもどこか現実味がなかった。
冗談めかして笑う兼親に、真夏も微かに笑い返す。でも、心の奥の隙間はやっぱり埋まらない。
昔からこうだった。目の前に誰かがいても、どこかに”本当に待っている誰か”がいるような気がしてならなかった。
ありがとうと言いながら、真夏の瞳には少しの迷いがあった。
兼親の優しさに安心している。信頼している。それでも、それでは満たされない何かが、確かに胸の内に存在していた。
その”何か”が夢の中にいる”誰か”と繋がっているのではないかと、真夏は思っていた。
そうやって天橋立、元伊勢、大江山への旅行のプランを兼親と立て、旅行へ行くのは来週だ。
兼親とはよく一緒に旅行に行くけれど、毎回本当に楽しいから、今回の元伊勢への旅行も楽しくなるのに決まってる。
そう考えていると、早朝に起きたために眠気が来た。
大きなあくびをしながら部屋のあかりを消してベッドに入った。
そして目を閉じた真夏の意識は、まるで深い水の底にゆっくり沈んでいくように、穏やかに眠りの世界へと落ちていった。
風が吹いていた。冷たい山の夜の風。
暗闇の中に、白く細い三日月が浮かんでいる。
木々がざわめき、足元には苔むした石がいくつか並んでいる。真夏はそこにただ、立ち尽くしていた。
夢の中にいるとわかっているのに、それが夢だと気づくことができない。まるでそれは夢ではなく、現実だとでもいうかのように。
そんな夢の中は懐かしくて、同時に悲しかった。
声に出して名前を言ったはずなのに声にならなかった。その前に、その名前は誰の名前なのかわからない。けれど、この世界同様、懐かしくて、どこか悲しさを感じる名前だったはずだ。だけど、何ていう名前なのかはわからない。
どこか遠くから笛の音が聞こえてきた。なんていう笛だろう。音楽になんて詳しくなんてない真夏には、その笛がなんという笛なのかわかるはずはないのに、夢の中の真夏にはわかっているようだ。
それはどこかで何度も聞いたことのある音だった。
切なくて、風に溶けて行くような音色。
澄んだ音が空を渡り、真夏の胸を震わせる。
笛の音に導かれるように、真夏は歩きだしていた。
深い山の中。木々の隙間からさし込む月明かりを頼りに足を進めていく。
そして、見えた。
焚かれた篝火の向こうに誰かが立っていた。
白い衣をまとい、銀の長い髪を風に揺らしながら静かに龍笛を奏でている。
その姿を見た瞬間、真夏の心が強く揺すぶられた。
懐かしい。
恋しい。
どうして? どうしてこんなにも……。
気づけば涙が頬を伝っていた。
言葉にならない思いが胸の中で暴れていた。
誰かを必死に魂の奥底で求めていた。
笛の音が止む。
笛を吹いていた人がこちらに顔を向ける。けれど、その顔は逆光に隠れて見えない。
それでもわかる。間違いない。ずっと夢に見てきた”あの人”だ。
そう声にならない声で願うけれど、相手には届いたのか届かないのか。”その人”は黙ったままこちらを見ている。
再度、口にしようとした瞬間、世界が白くかき消された。
目が覚めたのだ。
額に汗を浮かべて、真夏は天井を見つめた。
窓の外は既に夜明け前の薄明かりに染まり始めていた。
そう。また”あの人”の夢。そこまでは一緒だった。けれど、今までと少し違っていた。
笛の音。篝火の灯り。月の下にいた”あの人”の気配。それは、夢だと言うには全てがあまりに鮮やかだった。
夢ではなく、”思い出”だったのではないだろうか。そんな思いが胸の奥に静かに灯った。
来週には大江山へ行く。大江山に何かがあると決まった訳ではない。けれど、子供の頃から”鬼”という単語に反応していた自分。そう考えると、なにかが見つかる。そんな気がしている。
大江山へ行くまで、あと1週間――。