EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

鬼の記憶 01

その日、お昼の京都発天橋立行きの特急に乗り、天橋立へ行った。

天橋立では特に何かをしようとかはない。ただ、天橋立が見れればいい。なので、北側の傘松公園と南側のビューランドから見るだけだ。

北と南を手っ取り早く移動するには観光船があるようなので、観光船を使うことにした。

まずは電車の駅から近い南側のビューランドから見ることにした。ビューランドでは飛龍観回廊を歩いて見る。ここは、元はジェットコースターだったところらしい。

場所によっては海の上にいる感じがするので、なかなかドキドキするが楽しかった。

そして、南側のビューランドからの天橋立を楽しんだ後は北側の傘松公園から天橋立を見る。一の宮桟橋から観光船で南側に戻ろうとしたところで兼親が言った。


「なぁ。観光船乗り場の近くに元伊勢籠神社ってあるんだけど」

視線はスマホに落としたままだ。


「元伊勢?」
「うん。天照大神、豊受大神が伊勢神宮に祀られる以前にここで祀られたかららしい」
「そしたら観光船乗る前に寄るか」
「そうだな」

元伊勢籠神社は一の宮桟橋から徒歩で数分のところにあった。

主祭神は、|彦火明命《ひこほあかりのみこと》。相殿に|豊受大神《とようけのおおかみ》、|天照大神《あまてらすおおみかみ》、|海神《わたつみのかみ》、|天水分神《あめのみくまりのかみ》となっている。

目を見張ったのは屋根だ。

籠神社の本殿の屋根は伊勢神宮と同じ神明造り、鰹木は十本、千木は内そぎになっていた。主催神は彦火明命なのに。

そして高欄上の五色の|座玉《すえたま》は伊勢神宮とここにしかないという。

これは本当に元伊勢だ。


「ここ気づいて良かったな。見落とすところだった」
「ほんとだな。大江の元伊勢外宮、内宮、天岩戸神社に気を取られてた」
「あ、奥宮がある」
「ほんとだ。眞名井神社か」

眞名井神社の主祭神は磐座主座に豊受大神。相殿に|罔象女命《みづはのめのみこと》、|彦火火出見尊《ひこほほでみのみこと》、|神代五代神《かみよいつつよのかみ》。磐座西座には、天照大神、|伊邪那岐大神《いざなぎのおおかみ》、|伊射奈美大神《いざなみのおおかみ》となっている。


「これ、奥宮こそ忘れちゃいけないって感じの顔ぶれだな」
「でも、本殿の造りも忘れたらダメだろ。神明造りなんだから」
「これを見るために天橋立を見に来たのかもな」
「よし。早く駅に戻って、後は電車で大江に行くぞ。そっちこそ、今回の旅行のメインだからな」

元伊勢籠神社を見て回った俺たちは、神社を後にして観光船に乗り、天橋立駅のある南側へと戻った。

今回の元伊勢の旅行での宿は、元伊勢の外宮、内宮に近くて、大江山にも行ける大江に取ってある。

天橋立から大江までは電車で30分前後だった。

天橋立からは特急に乗った。そうでないと乗り換えが必要になるからだ。

大江駅に降り立つと、そこは無人駅で、天橋立ではたくさんいた観光客もここでは見かけなかった。というより、今の電車でここで降りたのは真夏と兼親の2人だけだった。


「え? 観光客いないのかよ」
「その前に地元の人の姿もないよ」
「まぁ、地元の人は電車は不便だから車なんだろうけどさ、こっちの元伊勢に観光に来る人っていないのか?」
「どうだろうな。いるとは思うけど少ないんじゃないか?」
「そうか。無人駅なんて東京じゃあり得ないから、ちょっとドキドキするな」

静かな駅舎には2人の声が響くだけだった。

とうとう来た。大江に。元伊勢を観光した後は鬼の交流博物館へ行き、大江山に入ることにしてある。山に入ると言っても大江山はハイキングコースがあったりするので怖くはない。

けれど、鬼がいると言われている大江山だ。何か思い出すだろうか。そう思って改札を出たところで笛の音が聞こえた気がした。


(え?)

笛の音に驚いてあたりを見渡すけれど、人の姿はどこにもない。

 
「なぁ、兼親。今、笛の音聞こえなかったか?」

聞こえたのは自分だけなのだろうかと思うと心臓の音が早くなる。


「いや、聞こえなかったよ」
「そうか……」
「聞こえたのか?」
「うん……」
「夢に関係してるのかもしれないな」

そう言った兼親の言葉に、心臓がどくりと大きくいった。

あの顔のはっきりしない男性のことがわかるかもしれない。

子供の頃から見ている夢。その夢に関することが何かわかればいいと思う。それを期待して大江山へ行くのだから。

 

大江駅で、駅を出ると公園があり、そこには大きな鬼の像があった。他にも鬼瓦、モザイク画などがあり、さすが鬼がいると言われているところだと感じた。


「鬼まんじゅうとか鬼そばとか、帰りに寄りたいな。お土産に良さそう」
「そうだな。帰りに寄ろうか」

京都駅に戻ってしまえば、京都市内のお土産になってしまって面白くないけれど、鬼に関するものなら大江に来たのだとすぐにわかるだろう。

公園を見た後は、まっすぐ旅館へと行く。今日は朝早く起きて、天橋立に寄ってからここに来たので、さすがに疲れてきている。


「お、見えてきた。あそこだ」

小さい旅館だと思ってきたけれど、思った以上に小さい旅館だった。大江には元伊勢があるのに観光客は少ないのだろうか。いや、多かったらさすがに無人駅ということはないだろうと真夏は頭を振った。


「とりあえずチェックインしよう。疲れた」
「そうだな。すいませーん」

どうも食堂もやっているようなので、旅館側の入り口には人がいなかった。

兼親の声に宿の人がやってきた。人懐っこい笑顔の中年の女性だった。


「予約してある並木ですけど」
「ようこそお越し下さいました。こちらにご記入いただけますか」

宿泊帳に兼親が記入する。真夏は蝉の鳴き声を聞きながら、この元伊勢旅行のことを考える。この旅行で夢に関する何かがわかるだろうか、と楽しみなような、でも少し怖さもあった。

"何か”を思い出したとしたら、自分は自分でいられるんだろうかと怖いのだ。

真夏がそんなことを考えているとチェックイン手続きは終わったらしく、旅館の人の後について部屋に案内して貰う。部屋は一番奥だった。


「お食事は18時に食堂にてお召し上がりいただきます。それでは、それまでごゆっくりおくつろぎください」

宿の人がいなくなると、真夏も兼親もすぐに畳の上に足を伸ばして座った。


「今日はそれなりに歩いたな。でも、元伊勢を回るのも、大江山に入るにももっと大変だろうな」
「うん。車があればいいんだけどな」
「でもタクシーもあるんだし、元伊勢を巡るのにタクシー使ってもいいんじゃない?」
「内宮と天岩戸神社はさほど距離なさそうだけど外宮が少しはずれるから、それ考えるとタクシーっていうのはありだよな」

2人で明日の予定について話し、タクシー移動にすることにした。


「これで迷子にならないぞ」
「そうだな」
「でもさ、元伊勢に行こうなんて渋いよな。旅行って言ったら夏は海もあるし、温泉とかもっと王道があるのに」

からかうような口調の兼親に真夏は少しだけ笑った。


「いいんじゃない。勉強熱心で」
「まぁな。でも、元伊勢が大江っていうのは何かあるのかな。元伊勢ってキーワードは何かひっかかる?」
「ううん。それに、その頃って別に伊勢参りってなかったじゃん」
「そうなんだよな。今でこそ有名なのにな」
「うん。きっと偶然だよ」
「そっか、そうだな」

窓の外に広がる景色は、どこか懐かしい。

見覚えがあるはずがないのに、初めて来たとは思えない。遠い昔、自分はここを歩いたことがあるのではないか。そんな間隔が胸の奥に広がる。

兼親はそれ以上何も言わず、窓の外に視線をやっていた。

責めないし、笑わない。ただ、そばにいてくれる。それがありがたかった。

夢のことを話しても馬鹿にしないし笑わない。そんな幼馴染みが真夏にはありがたかった。


 

旅館の人にタクシーのことを訊くと、予約をしてくれるという。なので9時半に迎えに来て貰うように頼んだ。

これなら1日で元伊勢を回ることができる。1日貸し切るとなると料金が気にならないでもないけど、京都とはいえ、この田舎町ではバスや電車の本数はとても少ないので、時間を買うことを考えたらタクシーもさほど高いとは言えない。


「そろそろ寝ようか」

部屋の時計が23時半を回って、真夏がいう。

 
「そうだな。明日はそんなに早く出るわけじゃないけど、朝食のことがあるから寝坊はできないからな」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」

窓の外では虫の音が微かに聞こえる。

昼間の暑さが嘘のように、静かでひんやりとした空気が部屋を満たしている。

浴衣姿で布団に横になっている真夏は、天井をぼんやりと眺めながら胸の奥のざわめきを持て余していた。

何かを思い出しそうで思い出せない。

あの笛の音。あの香り。あの、一瞬苦しくなるような感覚。


「会いたい……」

兼親に聞こえないように小さく呟いたその言葉は、まるで鍵のようだった。

ゆっくりと瞼が落ちていき、真夏の意識は静かに夢へと沈んでいった。


風の音がする。

けれど、どこか現実とは違う。遠い昔。

森のような、山のような、緑に包まれた静かな空間に真夏は立っていた。

そこには見覚えのある岩。苔むした祠。

けれど、それ以上に目が離せなかったのは……


「……あ」

銀の髪を風になびかせ、背を向けて立つその人の姿だった。

懐かしい。名前も知らない。けれど、確かに知っている。

そう。ずっと、ずっと探していた。


「待って! 行かないで!」

どこかへ行ってしまいそうになって、真夏は声を張り上げた。

走り出す。足元の草が音を立てる。けれど、その背はほんの少しだけ遠ざかって行く。


「ずっと……ずっとあなたを探していたんだ」

その背がふと止まり、こちらを振り向く。そこには夢で何度も見てきた面影があった。今までははっきりと見えていたわけじゃない。けれど、この人だと確信があった。

冷たいようで、どこか悲しげな眼差し。けれど、確かに自分を見てくれている。


「どうして? どうして夢の中でしか会えないんですか?」

涙が出そうだった。苦しくて、愛おしくて。何かが張り裂けそうだった。


「名前も思い出せない。過去もわからない。でも……でも、あなたが俺にとって特別だということはわかる」

顔を歪め、懇願するように真夏は言葉を投げた。


「お願い。会いたい……。現実でも会いたいんです」

銀色の髪の人――彼は、しばらく黙っていた。

けれど、やがてゆっくりと歩み寄る。そして、真夏の頬にそっと手を伸ばす。


「……お前が望むなら」

その囁きは風のように優しく、深く、真夏の胸に染みこんだ。

そして次の瞬間、景色がゆっくりと崩れはじめた。

草も、木も、空も。全てが霧のように消えて行く。


「待って!」

手を伸ばしたが、もうその姿は見えない。

でも、最後の言葉は、耳に、心に確かに残っていた。


――お前が望むなら。


目を覚ました時、真夏は頬に残る熱を感じていた。

胸の奥にぽつりと小さな光が灯った気がした。