隣で寝ていた兼親が真夏の声で目を覚まして、真夏を見る。
夢を見るのは子供の頃からだ。でも、会話はしたことがなかった。声を出そうとしても、声になっていなかったし、夢のあの人も何か言っているのだろう、唇が動いているのは知っているけれど、声として聞こえたことはないから会話にならなかったのだ。
だけど今日は声はきちんと出ていたし、彼の声もきちんと聞こえていた。だから会話になったのだ。
真夏は枕元のスマホで時間を確認すると、5時を少し回ったところだった。
そう言って笑ってくれる兼親に真夏は救われる。兼親は優しい。大体、わけのわからない夢の話しを嫌な顔せずに聞いてくれるあたり、優しいと真夏は思う。
着替えを済ませ外に出ると、外はまだ夜の名残をとどめていた。
まだ町が目を覚ましきらない山間の道を、真夏と兼親は並んで歩く。
夏ではあるけれど、朝のせいか空気はひんやりとしていて、夏の朝らしい湿り気を含んでいた。どこからか鳥のさえずりも聞こえる。目覚める気配が混じる静かな世界だ。
見上げれば夜と朝の境界線。空の端が淡く滲み、藍から朱へとゆっくり色を変える。
真夏がぽつりと呟く。兼親は横目で真夏を見る。真夏はまだ夢の余韻を引きずっているようで、真夏の顔はどこか浮ついていた。けれど、それが不安ではなく、希望に近いものに見えたことに兼親は少し安堵した。
しばらく沈黙が流れてから真夏が答える。
兼親は黙って頷いた。なにも言わないのは、胸になにかがわだかまっていたからだ。
遠くで鳥が一声鳴き、朝の色が少しずつ濃くなっていく。今日も暑くなりそうだ。
宿を出てすぐの小道を抜けると、小さな社が現れた。古い木製の鳥居と手入れの行き届いた階段。真夏は足を止めた。
兼親が訊くと、真夏は頷いて石段をゆっくり登っていった。朝露を含んだ草の香りが漂ってくる。
拝殿の前に立つと、胸がざわめいた。理由はわからない。ただ、懐かしいような、呼ばれているような感覚。
手を合わせた瞬間、遠くで風が吹き抜け、木々がざわりと音を立てた。
ぽつりとこぼれた真夏の言葉に、兼親は目を細める。
真夏は頷いた。
言葉より先に心の奥に染みこんでくるものがある。その感覚が、今、真夏の中にあった。
やがて社を後にして、再び並んで歩き始めた2人の前に、朝の光がゆっくりと差し込んできた。
午前9時半に迎えに来たタクシーに乗り元伊勢の外宮である豊受大神社へと行った。
長い石段を登ったところに、古い茅葺き屋根の神明造りの屋根の社があった。
まずは手を合わせて、ゆっくりと建物を見たときに気がついた。千木が外削ぎで鰹木が9本なのだ。
千木と鰹木は祭神の性別によって違う。外削ぎは男千木と言い、男神を現す。そして、奇数の鰹木は男神を現す。でも、豊受大神社は、その名の通り、女神である豊受大神を祀っている神社だ。
そう言って真夏と兼親は並んで階段を降り、待たせていたタクシーに乗り込んだ。次に行くのは元伊勢の内宮、皇大神宮だ。
皇大神宮は、山の中の、やはり苔むした石段を登ってやっと姿を現した。どうも最近はパワースポットとか言って訪れる人が結構いるみたいだ。
先ほどのことがあるから、手を合わせる前に千木と鰹木を確認する。千木は内削ぎ、鰹木は10本。女神仕様になっている。いや、それで正しいのだ。主祭神は天照大神だから。
登った階段を降り、天岩戸神社に行って貰う。車が止まった所はなにもない所だった。よく見ると、小さな木製の看板が出ているだけで、建物もなにも見えないからだ。
看板は山道を降りていくように指している。川のせせらぎと蝉の声を聞きながら歩いて行くのは気持ちいい。木陰で陽がまともにささないから言えることだけれど。
龍燈明神と書かれた古い祠を過ぎ、また、天の岩戸神社と書かれた看板が見え、石段を降りていくと社務所と鳥居が見えた。さらに階段を降り、川沿いの細い参道を歩く。少し歩くと苔むした巨岩が目につくようになってきた。この巨岩を上ったところに小さな社殿が張り付くように立っている。
社殿に上るには鎖を伝って登る必要がある。
1人ずつ鎖を伝って岩を登った社殿から見る景色は、神々が天下った地と言われるのにふさわしい景色だった。
2人はしばらく景色を眺めていたが、降りることにした。
そんなことを話しながら、来た道を戻る。
真夏は真剣な顔をしている。だから兼親はそれを信じる。そして、真夏は鳥居のそばに祠があるのを見て、あ! と声をあげる。
小さな祠を真っ直ぐに見て真夏は言葉を途切れさせた。
真夏は祠の前で立ち尽くしていた。
夏の陽射しが木々の隙間から差し込み、小さな祠の屋根に影を落としている。鳥居のすぐそば。こんな場所にあったのかと兼親は少し驚きながらも隣に立つ真夏の様子に目を向けた。
ぽつりと真夏が呟いた。
真夏はゆっくりと祠の前に進み、手を伸ばす。指先が苔むした木に触れた時、目の奥にふと浮かび上がるように、どこか遠い景色が脳裏をよぎった。
もっと木は朽ちていて、風と川の音だけがして、人の気配も今より少なく、時代の匂いも違っていた。
岩の上の小さな祠。そばに立つ背の高い男の影。風が吹き、銀色の髪が揺れる。真夏は息をのんだ。
言っている自分がおかしいと真夏は思った。でも、心の奥が確信していた。ここだと叫んでいた。
隣で兼親の声が戸惑い混じりに響いた。だが真夏はその視線を受け止めず、ただ祠を見つめたまま口を開いた。
真夏がゆっくりと振り返ると、兼親の顔に言葉にできない複雑な表情が浮かんでいた。
戸惑い、驚き、そして少しの痛み。そんなものが入り混じっていた。
風が吹いた。葉が揺れ、ざわめく音が2人の間を満たす。
兼親はしばらく黙ったまま、祠と真夏を交互に見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
真夏は小さく微笑んだ。
自分の言っていることが突飛だとわかっていても兼親は否定しない。変に励ましもせず、ただ静かにそばにいてくれる。その存在が今は何よりも心強かった。
祠の前で並んで立つ2人の背に、夏の陽が差し込んでいた。湿気を含んだ山の空気が少しだけ澄んでいくような気がしていた。
そして、どこかで笛のような風の音のようなものが微かに耳の奥で鳴った気がした。
そうしてどれくらいそうしていただろうか。真夏が口を開いた。
そして2人は祠を後に、山道を登って帰路につく。
兼親の方を見て真夏が言うと、兼親は笑って返した。