翌朝、空は薄曇りで、夏の湿気を含んだ風が穏やかに吹いていた。真夏と兼親は大江山の麓にある、日本の鬼の交流博物館へと足を運んでいた。
もっと小さいと思ったけれど、日本の鬼だけでなく世界の鬼についても扱っているため、それなりに広かった。
館内は地域に伝わる鬼伝説にまつわる資料や、各地の鬼面、鬼に関する絵巻や民話の記録などが所狭しと並べられていた。
真夏はその一つ一つを丁寧に見て回った。世界中から集められた鬼の面は、怒りに満ちたもの、悲しみに沈んだもの、表情も情景も色々だった。
兼近が感心したように呟いた。
ぽつりと口に出して、自分でハッとする。まるで目があっているように感じる面がある。赤や青、黒、木地のままのものもある。どの面にも魂が宿っているような生々しさがあった。
しかし、どれだけ見ても、心の奥がこれだ! と震えることはなかった。見覚えのある顔、記憶に引っかかるような面。そういうものには出会えなかった。
真夏はそんなことを思いながら、展示の奥にある一角へと歩を進めた。そこには大江山に伝わる酒呑童子伝説が詳細に展示されていた。
鬼たちの頭領であったという酒呑童子。その異能、その退治にまつわる説話、源頼光と四天王による成敗、その顛末を描いた絵巻や再現された衣装、武器などが並ぶ。
鬼の中でもひときわ有名で、そして、”悪”として語られる存在。酒呑童子。
真夏はじっとその面を見つめた。巨大な角、猛々しい目つき、裂けたような口。絵巻の中の彼は、確かに人を襲う恐ろしい存在として描かれている。
でも、胸の奥が騒ぐことはなかった。怖いとも、懐かしいとも思わない。ただ、どこか遠い世界の物語を見ているような、冷めた気持ちがあるだけだった。
隣から兼近がそっと声をかけた。真夏は頷く。
真夏がそう言った時、展示の脇にある細い通路から何かが聞こえてきた。
ヒューヒューと風が吹き抜けるような高く細い音。笛の音だった。
真夏はその場で立ち止まり、音のする方へと顔を向けた。
兼親は首を傾げたが、真夏の耳には確かに笛の音が届いていた。龍笛のような、どこか寂しげで、けれど芯のある音色。
まるで夢の中で聞いたあの音だ。真夏の胸が一瞬で高鳴った。
いくら笛が展示されているからって、笛の音が聞こえるのなんておかしいと思った。
視界の端が揺れた気がした。展示室の薄暗い照明が、ふと夏の夕暮れのような色に変わった気がした。
風もないのに髪が揺れた。誰かが近くを通ったような気配。だけど、そこには誰もいなかった。ただ、笛の音だけが耳の奥に残っていた。
笛の音はすぐに止んだ。
そう言いながらも真夏の胸奥には、確かな何かが残っていた。
鬼たちの中に混じっていた声なき思い。笛の音に込められた誰かが呼ぶような気配。
ここにも、何かの断片があった。
思い出せないままに、それでも確かに存在する何か。
真夏は静かに息を吐きながら次の展示へと歩を進めた。
次の展示は笛だった。楽器に明るくないから、その笛がなんという笛かはわからないけれど、和楽器だということはわかる。雅楽で使われる楽器だろうことはなんとなくわかる。
でも、その笛が真夏の心を揺らした。この笛を見たことある。
夢で見たということは銀髪の人だ。そういえば、前に、夢で笛を吹いていた。そうだ。その笛がこれだ。
なんでそれが鬼の交流博物館にあるのかはわからない。わからないけれど、真夏はその笛の前から動けなかった。
翌朝、まだ朝露の残る中、真夏と兼親は大江山の登山口に立っていた。
昨日までの湿気を含んだ空気は夜の雨のおかげで少しだけ和らいでいた。舗装された道はやがて砂利道へと変わり、さらに進むにつれ、木の根が露出した登山道となっていく。
登につれて、蝉の声の他に、鳥のさえずりが耳に入ってくる。
ふと真夏は足を止めた。
風に混じって、微かに笛のような音が聞こえた気がした。しかし、それはすぐに風にかき消される。音ではなかったのかもしれない。ただ、自分の心の奥で何かが囁いたような、そんな間隔だった。
兼親が不思議そうに眉をひそめる。
真夏が手で示した先にあるのは、苔むした大きな岩だった。
記憶にある風景、というにはあまりに朧で、けれど確かに心がざわつく。初めて訪れたはずの山なのに、どこかに自分の一部が置き去りにされていたような、そんな感覚。
ふと風が吹き抜けた。
風の匂いに、真夏は一瞬、強い既視感を覚えた。山の土と、樹皮の香りに混じって、どこかで嗅いだような、少し甘くて、でも煙のように深い香り。
思わず目を細める。どこからともなく漂ったその香りは一瞬で消えた。けれど、心の奥に残る感覚だけははっきりとした痕跡を残していった。
不意に兼親が訊ねた。
真夏は少し迷ってからゆっくりと頷いた。
彼の姿はどこにもない。気配も感じない。
でも、山そのものがまるで真夏の記憶の器のように、真夏の心を静かに震わせた。
2人は再び歩きはじめる。柔らかな陽光が木々の合間から差し込み、足元に淡い影を落とす。時間がゆっくりと、そして静かに流れていく。
銀色の髪の人には会えなかった。でも、それでも構わない。会えるとは思っていなかった。でも、きっとこの道の先にまだ何かが待っている。そう信じたくなるような優しい風が真夏の頬を撫でて過ぎていった。
子供の頃から繰り返し見ていたのだ。わけもわからず、ただ同じ夢を見る。どんな意味があるんだろうかと、ずっと気になっていた。
でも、どうやったら何かがわかるのかがわからなさすぎた。そのキーワードを探してくれたのは兼親だ。真夏1人ではここまでたどり着けなかっただろう。
本当に鬼はいたのだろうか。あの銀髪の人は人間なのだろうか。それとも……。
鬼なんているはずがない。だから酒呑童子にだって何とも思わない。でも、あの人は、どこか人間離れしている。そう感じる。あの人こそ、鬼なのだろうか。夏の風に吹かれながら、そんなことを考えた。
大江山の中を歩いて――頂上を目指してないし、ただ歩いていただけだから登山とは言えない――夕食の時間ぎりぎりに宿に戻り、お風呂にも入って、明日帰る支度も終え、後は寝るだけになった時に兼親が言う。
そう言って部屋の電気を消して間もなく、隣から兼親の寝息が聞こえてきた。とはいえ、真夏ももう瞼を開けてはいられない。そう思った瞬間、夢の中へと入っていた。
真夏は昼間歩いた道すがら見かけた苔むした大きな岩の前にいた。そして、その岩にはいつも夢で見る銀髪の人がいて、笛を吹いている。
その音色はここに大江に来てから何度か聞こえてきた音だった。
笛を吹く銀髪の人の横顔を真夏はじっと見ていた。すると、真夏の視線に気がついたのか、その人は笛を吹くのをやめ、真夏に視線をやる。
真夏の視線の先にあるのは、よく見ると竹のようだった。そんな笛があるのだろうか。
銀髪の人は、簡素なものだと言いながら、大事なものを見る目で竹笛を見て、撫でていた。
音楽に明るくない真夏にでも、その笛は簡素なものだとわかった。でも、彼がその笛をとても大事にしていることもわかった。
真夏がそう言うと、銀髪の人は視線を竹笛に落としたまま口を開いた。
そう言って寂しそうに笑う姿を見て、真夏は胸が苦しくなった。なぜ、そんなに寂しそうな顔をするのか。
きっと何かあったのだろう。そして、それは思い出さなくてはいけない気がした。
真夏がそう力強く言うと、銀髪の人は小さく頷いた。
そう思うけれど、現実世界で会いたいという気持ちは譲れない。だから会って貰う。そして、そのためには必ず思い出す、と真夏は思った。
銀髪の人は真夏に一瞬、目をやっただけで手元の竹笛に目を落としたままだ。そして、真夏はそんな人の横顔を見つめていた。
すると、世界が白くなって霞んでくる。
そう言って真夏の方を一瞬だけ見てくれた気がしたが、空が白み始める方が早くて良くわからなかった。
真夏の頭の方でスマホの目覚ましが鳴っている。ここで目覚ましを止めて二度寝をしたいところだけど、残念ながら今日は東京に帰る日だ。そういうわけにはいかない。
真夏がしぶしぶと頭を上げると、隣の兼親はまだ寝ていた。
1度言ったくらいでは起きない兼親に、今度は耳元で言うと、さすがに煩かったらしく一発で目を覚ました。
兼親はノロノロと起き上がり、真夏の顔をしばらく眺めた。
問われて真夏は頷いた。
不承不承起き上がった兼親を見て、何だか兼親にも何か言いようのない気持ちを感じた。
兼親は幼馴染みだけど、もっと昔から知っているような。そんな気がした。