兼親は、真夏が夢を見ることをずっと前から知っていた。
それは小学生のある昼休みのことだった。教室の隅でぼんやり窓の外を見ていた真夏が、ぽつりと漏らした言葉が今でも忘れられない。
唐突で不思議な響きを持ったその一言は、子供が話すにはどこか現実味がありすぎて冗談にも妄想にも聞こえなかった。
夢の中の誰かについて話す真夏の目は、まるでその人を心の中から知っているかのように深く、どこか遠くを見ていた。
その日を境に、真夏はときおり夢の話しをするようになった。声は聞こえなかったけれど、唇がうごいていたとか、何かを伝えようとしていた気がするとか。夢に出てくる人物はいつも銀色で、静かにこちらを見つめていたという。そんな断片的な話しを聞く度、兼親の胸の奥はざわめいた。
それが嫉妬だと気づくには、少し時間がかかった。
自分の知らない誰かが真夏の心のどこかを占めている。そのことが、ただひたすら悔しかった。
でも同時に、夢を語る真夏の表情が切なげで、でもどこか嬉しそうでもあるのを知っていたから何も言えなかった。
あの夢の中の誰かが、真夏にとって本当に大切な存在なのだということは、幼いながらにもはっきりとわかっていた。
そして今もなお、真夏はその夢を見続けている。大学生になった今でも、真夏は変わらずにときおり夢の話をする。中学や高校の頃よりは減ったけれど、それでもときおり、ふとしたときに「銀髪の人がね……」と言うことがある。
今回、中学の修学旅行以来の京都。京都の北――大江への元伊勢の旅行だ。
真夏が提案した行き先ではなく、むしろ兼親の提案だった。なのに宿やルートを調べている真夏の目が、どこか吸い寄せられるように画面を見つめていたのを兼親は見逃さなかった。
行く前から、何かを感じとっている。あの夢に繋がる何かを。その事が胸の奥に不安を呼び起こす。真夏が過去を思い出してしまったら、どこか遠くへ行ってしまうのではないか。自分の知らない何かに向かって、もう戻ってこないのではないか。そんな予感が兼親をじわじわと追い詰める。
その気持ちを振り払うように、兼親は夜の自室で目を閉じた。
真夏がどれほど過去に心を寄せていようと、自分は”今”の彼の隣にいる。あの夢の誰かに勝てるとは思っていない。でも、現実の中で隣にいるのは自分だ。
もし、真夏の記憶の中に銀髪の誰かがいたとしても、それでも……。
ふと、思考の中で小さな違和感が芽生えた。
元伊勢を訊ねると決めたとき、どこかで聞いたような地名に妙な既視感があった。けれど、それは記憶ではなく、雲のように曖昧なもので、意識すればするほど霧の中に消えて行く。けれど、確かに何かを知っている気がするのだ。
真夏の夢の話しを聞く度に胸がざわつくのは、ただの嫉妬だけじゃない。もしかしたら、自分自身もまた、夢の奥にいるのかもしれない。そうだとしたら自分にも確かめるべきことがある。
真夏が記憶の扉を開く旅に出るのなら、自分もまたその隣を歩きたい。彼の隣で、彼の今と未来を見守っていたい。それが、どれほど一方的な願いだとしても。
自分のことを覚えていてくれる。ただ振り返ってくれる。今はそれだけで十分だった。
そう心の中で願いながら、兼親はスマホの画面に映る真夏との旅程をそっと見つめた。
旅館に荷物を置き、一息ついたあと、大江の町を少し歩こうということになった。夏の夕暮れはまだ明るく、山の稜線が金色に縁取られて見える。
緑の濃い木々の間から蝉の声が聞こえていたが、それもどこか遠く、町全体が不思議と静まり帰っているようだった。
そのときだった。隣を歩いていた真夏が、ふと立ち止まる。
その声はさほど大きくなかったが、やけに真に迫っていた。冗談ではなく、本当に聞こえたと信じているのが伝わってくるような声だった。
兼親は耳を澄ましたが、何も聞こえない。ただ風が木々を揺らしている音がするだけだ。
思わずそう聞き返した。真夏は少しだけ眉を寄せて、でも目はどこか遠くを見ていた。
そう呟く横顔は、やっぱりどこか嬉しそうで、でも切なげでもあった。まるでずっと会いたかった誰かの気配をようやく見つけたかのような、そんな顔をしていた。
胸の奥がざわつく。ずっと昔から感じていた名前のない不安が再び、静かに息を吹き返すのを感じた。
真夏は今、この土地で何かを思いだし始めている。
夢に出てくる銀髪の人と、この場所で何かがあった。そんな予感を本人も感じているのだろう。これまでも「夢で見た気がする」と呟くことは何度かあったけれど、今日の真夏は何かが違っていた。言葉の奥に確信のようなものが混ざっていた。
自分の手の届かない場所へ行ってしまうかもしれない。そう思うと胸が軋むように痛んだ。けれど、そうであっても止めることはできないともわかっていた。
真夏の中に眠っていた何かが、この地へ来たことで動き出した。それはもう、引き返せるものではないのだ。
そう呟くと真夏は、わずかに微笑んだ。
兼親は何も言えなかった。ただ、その横顔をじっと見つめた。
もしもその笛の音が、真夏の過去を呼び起こすものだとしたら。
もしも、あの夢の中の誰かが本当に存在しているのだとしたら。
自分はどうしたらいいのだろう。
そんなの、ただの自分勝手だ。でも、願わずにはいられなかった。
風が再び木の葉を揺らす。どこかから、蝉の声に混じって、不意に一瞬だけ、耳の奥に音が響いた気がした。
澄んだ、遠い笛の音。
気のせいかもしれない。けれど、真夏の横顔がその瞬間、涙を堪えているように見えた気がした。
何も言わずにそっとその隣に立つ。それしか出来ない自分の無力さが苦しい。でも、それでも……。
心の中でそう願いながら、兼親は静かに歩く真夏の背を追った。
天岩戸神社から帰ろうと鳥居をくぐった時、真夏は足をとめて、すぐ脇にある小さな祠をじっと見つめていた。
そう呟いた真夏の声は、ほんの少しだけ震えていた。兼親は隣に立ちながら、どう言葉をかけるべきか迷った。
静かに風が吹き、木々の葉がざわざわと揺れる。鳥の声ひとつ聞こえない、不思議な静けさだった。
ぽつりと落とされたその言葉に、兼親の胸がざわついた。
いつの記憶? そう聞きたいのに、その問いを口にすることが出来なかった。
真夏の視線は、祠の奥を通り超して、どこか遠くを見ていた。その目が、今ここにいない誰かを追っていると感じた。
風の音に混じるように、真夏の口から微かな声がこぼれる。
その言葉の端々が、記憶の底からこぼれ落ちてくる雫のように、静かに、しかし確実に現実を侵食していっている。
祠に手を添えながら、そう呟く真夏の姿が、一瞬、知らない誰かに見えた。今、ここにいるのに、ここにいない。自分の手の届かない場所へ心だけがすっと遠のいていく。
兼親は思わず口を開きかけた。名前を呼んで、この手で引き戻したかった。けれど、声にならなかった。
真夏の背中を見つめながら、胸の奥で何かが軋む。この背中を。こんな真夏を何度も言葉もなく見つめたことがある。遠い昔に……。
不意に名を呼ばれて、現実に引き戻された。祠に触れていた真夏は、今は自分の方を見ていた。さっきまでの遠いまなざしは消え、困ったように微笑んでいる。
笑ってはいるけれど、その瞳の奥にはまだ揺れが残っている。
兼親は首を横に振った。
その言葉がどこから出てきたのか自分でもわからなかった。けれど、それだけは確かだった。
遠い記憶の中で誰かをじっと見つめていて、誰かを見送ったとしても、それはいつかのことで、今はここにいる。彼の名を呼ぶことができる。触れられる距離にいる。
真夏はほんの一瞬だけ目を見開いて、それからふと微笑んだ。
そう言って祠からゆっくりと離れた。その背中を見つめながら、兼親は小さく息を吐いた。
あの祠には何かが眠っている。真夏の記憶だけじゃない。自分の奥底にも、まだ触れていない何かが確かにある。そんな気がした。この旅では、真夏の記憶もだけど、自分の中の何かも目覚める。そんな気がした。
それでも……。それでも今は、この「ありがとう」があればいい。そう自分に言い聞かせながら兼親は真夏の後を追った。