EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

忘れられたもの 02

日本の鬼の交流博物館に入った時、真夏の足取りがふと変わった。

空気が少し重たくなったような気がしたのは、ただの気のせいだろうか。

展示室の中はひんやりとしていて、どこか神聖な気配を纏っていた。展示棚には、鬼にまつわる古文書や絵巻、面、武具、そして音具が整然と並べられている。

そのひとつひとつを真夏はまるで何かに導かれるように目で追っていた。

最初はただ見ているだけだった。けれど、あるガラスケースの前で、彼の足がぴたりと止まった。


「これ……」

展示されていたのは、黒ずんだ古い笛だった。確か、雅楽で使われる笛のはずだ。

真夏の声が微かに震えていた。

その場に流れていた空気が、すっと張りつめるのを感じる。兼親は無意識に息を詰めた。

真夏は手を伸ばしかけて、けれど触れることなく拳を握った。


「夢で何度も見たことがある。これと同じ笛をふいていた人がいた。……銀色の髪の、男の人」

やっぱり出てきた。その言葉。

夢の中に出てくる”誰か”――兼親の知らない真夏だけの記憶。

それが目の前の現実と繋がってしまう瞬間を、今まさに目の当たりにしていた。

真夏の横顔には懐かしさと、痛みと、戸惑いが見えた。過去を追いかけるそのまなざしが、ひどく遠く感じた。届かない場所を見ている。自分には見えない誰かを想っている。

言いようのない焦燥が、胸の奥でじくじくと疼く。それでも口を挟むことはできなかった。今は何も言ってはいけない。

真夏の心が何かを確かめようとしている。それがどれだけ自分を置いてけぼりにしても、止めることなんてできなかった。


「これ……すごく大事な音だった気がする。聞くと安心してた。悲しいのに、ほっとする音」

真夏の声が小さく震えていた。目は潤んでいるようにも見えた。

兼親はただそっと隣に立ち、その横顔を見守るしかできなかった。


(きっと思い出してしまう。)

この先真夏は過去を取り戻していくのだろう。夢に出てきたその人への想いも、やがて確かなものになる。その時、自分はどうすればいいのだろう。

ふと真夏が兼親を見た。目は赤みを帯びていた。きっと泣いたのだろう。そして、こちらを見て照れたように笑う。


「なんか色々思いだしそうで少し怖い。でも、兼親がいてくれて良かったよ」

その一言だけで胸がいっぱいになった。願っていた言葉だった。どこかに行ってしまいそうな彼の心が、少しだけ戻ってきたような気がした。


「ずっといるよ」

気づけばそう答えていた。自分でも、少し声が震えているのがわかった。けれど、真夏はそれに気づかないのか何も言わずに、そのまま静かに笑ってくれた。

ガラス越しに眠る笛。その奥にある誰かとの記憶。

もし真夏がそれに手を伸ばしていくのなら、自分はその背中を最後まで見届けたいと思った。

例えその先に、自分のいない過去の世界があったとしても。

昨日の天岩戸神社。そして、この博物館。この2日間だけでも、真夏は何かを思い出しつつある。それに対して寂しさを感じないわけじゃない。それでも、その背中を最後まで見ようと思った。それが、自分にできる唯一のことだと思うから。そして、幸せになって欲しい。兼親はそう思った。

 
 

スマホのアラームが鳴る直前。兼親は浅い眠りの中で夢の名残を感じていた。何か大切なものに触れた気がしたのに、目を開けた瞬間、それは霧のように消えてしまった。

そして次の瞬間、耳元で「起きろ!」という真夏の声が響き、思わず顔をしかめた。ああ、煩い。けれど、それもいつもの朝の風景だった。

のろのろと上体を起こしながら、兼親は真夏の顔を見つめた、夢から覚めたばかりのはずなのに、どこか凜としていて、何かを乗り越えたような表情をしている。それに気づいた瞬間、言葉が自然と口をついて出た。


「なんかいいことあった? 夢、見たとか?」

真夏は頷き、銀髪の人に会えたと言った。そして、もっと思い出したら現実で会えると約束をしたのだと。

兼親はそれを聞いて、胸のどこかがちくりと痛んだ。

真夏の夢の中にいるその人は、ただの幻想ではない。きっと現実のどこかに繋がっている。そう確信していたからこそ、焦りにも似た感情がこみ上げてくる。


「俺も手伝えることあれば手伝うからさ」

そう言いながら、兼親は自分の声がとても小さく感じた。手伝うことがあるのかどうかもわからない。でも、真夏が夢の中で誰かに会いたいと願い、誰かに心を寄せていることが、こんなにも胸をしめるけるとは思わなかった。


「じゃあ、その前に起きて。髪、寝癖ひどいぞ」

真夏に笑い混じりに言われて、兼親は苦笑する。そして不承不承起き上がると、ふと不思議な感覚に捕らわれた。

真夏の視線が自分の方へ注がれている。その目にはどこか懐かしさのような、言葉に出来ないものが宿っていた。


(なんだろう、今の目。)

ほんの一瞬のことだったが、まるで真夏が自分の過去を知っているような、そんな錯覚に陥った。いや、錯覚じゃないのかもしれない。ここに来てから、そんな感覚が何度もあった。夢の中で自分も何かを見ていたような気がする。言葉にならない思いが胸の奥でくすぶっている。

大江の旅は真夏にとって確実に意味のあるものだった。でもそれは、兼親にとっても同じだったのではないか。真夏の記憶の奥に触れようとする旅。それを支える立場でいようとしていた自分も、もしかすると……。


(俺自身が何かを思い出しかけているのかもしれない。)

その考えに至った時、兼親の中で何かが静かに芽生えた。もし、真夏が過去を思い出すのなら、自分もまた、あの夢の続きを見なくてはいけないのかもしれない。

真夏だけじゃない。自分もこの旅で何かに近づいていた。そんな確信のような感覚があった。


「なあ、真夏」

そう声をかけたが、口をついて出てきたのは別の言葉だった。


「今日の朝ごはん何かな? まぁ、ご飯と味噌汁があれば嬉しいんだけどさ」

真夏はふっと笑って、いいねと言った。その笑顔に少し救われるような気がした。それでも、胸の奥には、夢のように淡く、けれど確かに存在する感情が残っていた。

 
(お前の記憶の先に誰がいようと、俺は今ここにいる。それだけはきっと変わらない。でも、俺のこの気持ちは友情なのか、それとも……)

兼親はそう心の中で静かに呟きながら、支度をする真夏の背中をそっと見つめていた。


帰りの電車の中。窓の外、流れて行く緑の山並みを眺めながら、兼親はぼんやりと頬杖をついていた。ガタンゴトンという単調な振動と、座席の柔らかい感触が眠気を誘う。けれど、胸の奥がすこしざわついていて眠れない。

隣に座る真夏は、タブレットに何かを打ち込んでいる。乗り換えの駅で買った資料本も膝に置かれていた。「風の鬼」「鬼の笛」と言った言葉が表紙に踊っている。


(本気で調べるつもりなんだな。)

そう思うと、寂しさが胸を撫でた。


「……鬼について調べるって?」

思わず声に出してしまっていた。真夏は画面から目を離さずに小さく頷いた。


「うん。もっとちゃんと知りたい。夢のことも、笛の音も。全部、ただの幻想だっていう気がしないから」

博物館で笛を見つめていた時の真夏の目を思い出す。あの目は誰かを想っていた。きっと深く、強く。自分が知らない真夏がそこにいた。


「俺にもできることがあれば言えよ」

そう言った時、真夏は初めて顔をあげて、ほんの少しだけ笑った。その笑顔はどこか遠くにあるように見えて、兼親の心のどこかを静かに締め付けた。

本当に自分は手伝えるんだろうか。

過去にいる誰かを探しているのだとしたら。例えその手助けができたとしても……。


(それで真夏の心がその人に向いてしまったら?)

考えたくないことが頭をよぎる。


「思い出せば会えるって夢の中で言われたんだろ?」

小さく投げかけると、真夏は頷いた。確信がある、という表情だった。羨ましくなるぐらいに真っ直ぐな目。自分はそんな目で誰かを見た経験があっただろうか。


「そっか」

それ以上言葉は出てこなかった。無理に笑って見せたけれど、真夏にはどう映っただろう。気づいていないふりをしてくれているのか、それとも本当に気づいていないか。

窓の外の風景が、少しずつ都会の色に変わっていく。あの山の中で感じた笛の音、祠の静けさ。それらが、もう随分遠いことのように感じられた。

この旅は、真夏のためのものだった。そう思っていた。けれど、どこかで自分も――いや、今もなお、自分自身も何かに引かれている気がした。


(真夏があそこに惹かれたのは記憶のせいかもしれない。じゃあ俺は?)

夢の中で感じた何か。消えてしまったはずの名残。答えは出ないまま、まだ心の奥で鈍く疼いていた。

真夏が再び画面に視線を戻した時、その横顔をふと見つめた。いつもの真夏なのに、どこか知らない誰かにも見えた。


(でも……)

それでも自分はここにいる。過去に誰かがいたとしても、今、真夏の隣にいるのは自分だ。


「東京戻ったら、図書館とかも回ってみる? 俺も一緒に行くよ」

ぽつりと呟くと、真夏は目を丸くした後、少しだけ照れたように笑った。


「うん、お願いするかも」

その笑顔に少し救われた気がした。まだ間に合うかもしれない。過去と向き合う旅の途中でも、今の自分たちの時間は確かにここにある。そう信じたかった。

電車はまもなく東京に着く。人の声が車内に戻ってくると、現実の時間がまた動きだしたような気がした。


(どれだけ記憶を取り戻しても、俺は真夏を見ている。)

そう心の中で再確認する。それが報われることなのかどうかはまだわからない。けれど、例えこの想いが名前を持たないまま終わったとしても、それでいいと思えた。だって、この旅の間中、真夏はずっと自分の隣にいたのだから。