EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

忘れられたもの 03

大江から帰ってきて数日が経った。猛暑の東京で、朝から電車に揺られて国会図書館に通う日々を送るとは思わなかった。だけど、真夏は帰って来た翌日から通っていたという。

そして今、兼親は真夏の隣で分厚い郷土史のページを捲っている。

「このあたり、鬼伝説が集中してるな」

地図を指さしながら真夏が呟いた。

大江山、和良町。

大江山は先日兼親たちも行ったばかりだ。だが、和良町というのは知らない。スマホで調べてみると岐阜県で鬼退治伝説があるという。

そして資料を読み込んでいくと、鬼と言う言葉は単なる妖怪や民話ではなく、時に異人種や流浪民を指す概念として記されていることもある。

それを読みながら兼親は、なんとも言えない胸のざわめきを感じていた。

「……これ、見たことあるかもしれない」

無意識に口から漏れた言葉に真夏が顔をあげる。兼親の指先には、古い絵巻の複写画像があった。夜の山中、笛を吹く男と、それに寄り添うように立つ青年。月明かりの中で2人が交わす視線はどこか切ない。

「ほんと? 夢とか?」 「夢……かも? いや、わからない。でも、なんか知ってる気がするんだ」

絵の中の風景に、胸の奥が軋んだ。杉林の匂い。夜風の冷たさ。笛の音。

どれも現実では体験したことのないはずなのに、やけにリアルに感じる。

「もしかして、兼親も……?」

真夏がそう言いかけた時、近くの席から咳払いが聞こえ、2人は慌てて声を潜めた。周囲には静かに資料と向き合う者たちが並び、時折、ページを捲る音だけが響いていた。

兼親はそっとノートの端にメモを走らせた。

(月明かり。杉林。笛。白い衣の人影。)

断片的に浮かぶ映像。それらはただの映像とは思えなかった。むしろ、ずっと以前から自分の中にあったものが、呼び起こされてきているような感覚だった。

(俺は、あの風景を知ってる。)

ページを閉じ、ぼんやりと天井を仰ぐ。あの旅以来、何度か夢を見た。それは記憶の再現というより、何かが扉の向こうでこちらを見ているひょうな感覚だった。

はっきりとは見えない。ただ、懐かしい眼差しだけが暗闇の中から自分を見つめている。そして、目が覚める度、心のどこかが締め付けられた。

(俺にも過去があったのかもしれない。真夏と同じように。) 「兼親。大丈夫?」

真夏が心配そうに兼親の顔を覗き込む。兼親はそれに、うんと短く答えた。本当は少しだけ怖かった。真夏が記憶を取り戻すことが。それに伴って、自分が置いていかれるかもしれないという焦り。

でも、それと同時に、自分の中にも確かに何かが眠っていると知ってしまった。

「真夏。俺、もう少しちゃんと調べてみるわ。自分のことも」

その言葉に真夏は一瞬驚いたように目を見開き、それから静かに頷いた。

「うん。一緒に探そう」

その言葉が思いのほか嬉しかった。

過去がどうであれ、自分たちは今ここにいる。そのことだけは確かだった。

閉館時間のアナウンスが流れる中、2人はまだ手元の資料に目を通していた。今日はそろそろ終わりだ。そう思った時、兼親の目に飛び込んできたのは、こんな言葉だった。

――人と鬼とのあわいに生まれた縁は、時を越えてなお、再び巡り会うことがある。

胸の奥で何かが震えた。それが何を意味するのかわからない。けれど今、確かに、自分もまた「思い出そうとしている」ことだけははっきりとわかっていた。

夢の中で蝉の声を聞いていた。

暑いには暑いけれど、現代の猛暑とは違う暑さ。穏やかに吹く風が御簾を揺らしている。ひどく静かな夏の午後だった。

部屋の中には人がいた。座り込んでぼんやりと外を見ている青年。彼が着ている物から、平安時代だと察しがついた。

その顔には見覚えがあった。真夏だ。

何故、そう確信したかはわからない。でも、そうとしか思えなかった。

夢の中の真夏は、顔立ちこそ現代と似ているけれど、どこか憂いを含んでいて、白い指が袖の端を握っていた。

何を考えているのかわからない。けれど、真夏は時折、切ない表情を見せるのだ。その訳を兼親は知らない。ただ、誰かを想っている。それだけは確かだった。

正室である清音に対して気持ちが持てない、とぽつりと漏らしたのを聞いたことがあるからだ。

「それなら、側室を持てばいい。今の時代、珍しいものでもない」

そう言った兼親に、真夏はぽつりと言った。

「側室に持てるのならそうしたいけれど、無理なんだ」

そう言った真夏の顔はひどく悲しげで、見ているこちらの方が胸が締め付けられて辛かった。

しかし、側室に持てないとはどういうことなのか。そう考えてはたりと閃いた。

「相手は男か」

兼親がそういうと真夏は目を大きく見開いた。驚いているようだ。

「それなら、そうと言えばいいのに。別にどうということはないだろう」

そう。友情を超えた愛情など貴族社会にはありふれている。それに対して禁忌と思う必要はない。

「どこの誰だ? 私の知っている者か?」 「それは……」 「まあ苦しくなったら言え。聞くくらいはいつでも聞いてやる」 「ありがとう。兼親」

夢の中の真夏は小さく微笑んだ。けれど、そんな真夏を見ている兼親はと言うと、胸がちくりと痛んでいた。作り笑顔をする兼親に真夏は気づかない。

夢の中の自分は、微笑む真夏に、ただ頷くことしかできなかった。言葉を発したら何かが壊れてしまいそうで。

御簾の向こう、風に揺れる庭の草花を眺めながら、兼親はふと隣にいる真夏の横顔を見た。

手の届く距離にいるのに、その心は遠い。誰か別の人を想い、苦しんでいるその体を抱きしめることも出来ない自分が悲しかった。

それでも傍にいたかった。例え心に届かなくても、笑ってくれればそれでいいと――そう、夢の中の兼親は思っていた。

 

目が覚めると、部屋の中は朝の光に満ちていた。カーテンの隙間から差し込む陽射しが、どこか現実離れして見えた。

兼親はしばらく身動きせず、天井を見つめたまま呼吸を整えた。

胸の奥に、言いようのない切なさが残っていた。

夢の内容はすでにぼんやりとしていた。けれど、夢の中で隣にいた人が真夏だったことだけは、何故か確信していた。

(あんなふうに、隣にいるだけで良かったはずなのに。)

今の自分はどうだろうか。真夏の中で何かが変わり始めていることに、とっくに気づいている。あの旅の後、真夏は変わった。

夢のこと。記憶のこと。かつて誰かと交わした約束のこと。

自分には触れられない世界へ、彼が向かっている気がする。それが寂しいとはっきりと思った。

思い出してしまえば、真夏は夢の”誰か”を選ぶのだろう。そうして自分の立つ場所は、空っぽになってしまうんだろう。それでも……。

(俺は隣にいられるのならそれでいい。)

夢の中の自分のようにそう願ってしまうことが今は少しだけ寂しい。