EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

前世の夢 01

鬼――その言葉に昔からなぜか胸がざわつく。

物心ついた頃からそうだった。絵本の中の鬼、昔話の鬼、能の鬼。どれを見ても「怖い」と感じるよりも先に、懐かしさと胸がぎゅっとなるような感情が湧いてきた。

意味なんてわからなかった。ただ、どこかで会ったような気がしていた。中でも「銀髪の鬼」という存在は特別だった。はっきりと覚えているわけじゃない。でも、夢の中に度々現れていた。言葉は交わさなくても、その人が誰かを待っていること。自分を見つめていたことだけは何故か確かだった。

小学生の頃、ふとした拍子にそんな夢の話しを口にしたことがある。その時隣にいた兼親が「変な夢だな」と笑った顔は、少し引きつっていたような気がする。あれは気のせいだったのか。それとも――。

大学生になった今も、その夢を見る。年齢を重ねるにつれて、だんだんリアルになってきている。

風の匂いや光の加減、遠くから聞こえる笛の音。それらが現実の感覚と区別出来ないほどに鮮やかだ。

そしてこの夏に訪れた大江で、確信に変わる出来事があった。

鬼伝説の地として知られる大江山。元伊勢三社を巡った後、最後に立ち寄った日本の鬼の交流博物館。展示はふざけたものはなく、真面目で、歴史や伝承、文化的視点から鬼を捉えていた。けれど、自分にとってはそれ以上の意味を持っていた。

展示室の奥。ひときわ地味なガラスケースの中にあった古い笛。その形を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。

何度も夢で見た、あの銀髪の人が、薄闇の中で笛を吹いていた。風が揺れて、草がそよいで、遠くで鳥が鳴くような時間。音はいつもひゅーひゅーと風に溶けて消えていく。寂しくて、美しくて、何故か泣きたくなった。

展示品の説明書きを読む余裕もなく、ただじっと笛を見つめていた。隣にいた兼親が心配そうに声をかけてくれたけど、大丈夫としか言えなかった。

説明なんてできなかった。ただ胸の奥にしまい込んでいた何かが、静かにほどけていくのを感じていた。


(やっぱり、あれはただの夢じゃない。自分の中の、もっと深い場所と繋がっている。)

帰りの電車の中でずっと考えていた。今まで目を逸らしていたけれど、本当はずっと知りたかった。自分が何故鬼に惹かれるのか、何故あの夢を見るのか。ただの偶然や想像で済ませるには、あまりに感情が伴っている。

夏休みはまだまだある。大学の図書館には民俗学の資料もあるし、国立国会図書館に行けば国内外の資料・情報を広く収集することが出来る。もし夏休みがあけてしまったら、教授に相談すれば地域伝承についての手がかりを得ることもできるだろう。

”鬼とはなにか”なんて、大きなテーマに見えるけど、自分にとってはとても個人的な問題だ。

あの人にもう一度会いたい。夢の中じゃなく、もっとちゃんとその人の名前を呼びたい。

自分でも笑ってしまいそうになる。「前世」や「因縁」なんて非科学的なものを信じるなんて、少し前ならあり得なかった。

けれど、あの笛を見た時、理屈なんてどうでもよくなった。あの音を覚えている。この胸の痛みは、確かにどこかで誰かを想った証拠だ。

机の上にノートを広げる。

”鬼の伝承”、”大江山”、”前世”、”笛”――思いつくままにキーワードを書き出していく。少しずつでもいい、形にしていきたい。

大学生として、学ぶという姿勢を盾に過去と向き合ってみよう。例えその先に、現実では説明できないものが待っていたとしても。その感情だけはきっと本物だから。


翌日。真夏は国立国会図書館にいた。人は多いのに、シーンと静まり返っている。その静けさが今の真夏には心地よかった。

真夏は窓際の席に腰を下ろし、積み上げた民俗学関連の本を一冊ずつ捲っていく。古くさい紙の匂い。ぱらりとめくれるページの音。静かな空間に、そんな音が響いている。

”鬼”という文字に印をつけながら読み進める。

文献によって解釈は様々だ。人を脅かす異形の存在、山野に潜む魔物、あるいは人間からはみ出した者の象徴……。現代で語られる”鬼”は実体のない存在に近い。けれど、平安以前の記録にはもっと生々しく、そして人間に近い鬼の記述が散見された。


「異形だけど、人の言葉を解する存在」
「人と通じ、愛し合ったという伝説もあり……」

そんな一文に触れる度に、胸がざわめいた。


(鬼なんてお話しの中の存在じゃなかったのか?)

思い出すのは夢の中の銀髪の人。名前も知らないその人の、微かに笑う顔。吹き抜ける風に乗って、笛の音が聞こえた気がする。

机の上にノートを広げ、抜き書きをしていく。”酒呑童子”、”茨木童子”、”大江山の鬼伝説”など、よく知られた名前が並ぶ中で、あまり語られていない資料も見つかった。

鬼と人との間に友情や恋情が芽生える話し。追いやられ、祠に祀られた鬼の話し。


(もし、夢で見たあの人が、誰にも語られた事のない鬼だとしたら?)

そんな想像が浮かんでは消えて行く。

図書館を出た後、帰り道の古書店にも足を運んだ。年配の店主に声をかけ、鬼や伝承関係の本を探していると言うと、目を丸くされた。


「若い人がまた珍しいものを……。でも夏には時々出るんだよねぇ、こういう話しに興味を持つ子」

出された数冊のうち、一冊の背表紙に「鬼と笛」という字を見つけて、思わず手を伸ばした。薄い冊子で、自費出版らしく表紙も簡素だ。

内容は、地方に伝わる鬼と、音楽にまつわる民話や伝承を集めたものだった。中ほどに大江地方に伝わる”風の鬼”の話しが載っていた。


「風のように笛を吹いて山に現れる鬼。人の姿を取り、時折、村の若者と交流した。やがて鬼は姿を消したが、その後も時折、山の祠の近くで笛の音が聞こえるという」

ページを読み終えた瞬間、背筋が震えた。


「これだ……すいません。これください」
「いいのあったのか。それね。1500円ね」
「はい」

気持ちが急いて手が震え、呟いた声が微かに震えていた。これは、あの夢に出てくる人のことではないか。確証なんてない。でも、心がそう言っていた。

家に帰ってからも、その冊子を何度も読み返した。ノートには、”風の鬼”、”笛”、”祠”、”人の姿”と言った言葉が並ぶ。

あの日、大江で聞こえた風のような笛の音。それが幻聴ではなかったとしたら? 夢と現実が、どこかで繋がっているとしたら……。

真夏は静かに目を閉じた。

あの博物館で見た笛。ケース越しに見つめたあの時の感情。あれは懐かしさではない。再会の予感だったのかもしれない。

子供の頃からずっと惹かれてきた「鬼」という存在。その理由を、自分の心がようやく教えようとしている気がする。

まだ霧の中だ。それでも、少しずつ道は見えて来ている。今はただ歩を止めず、真実へ近づいていきたい。それがどんな結末を迎えるとしても。

真夏はもう1度ノートに目を落とし、次のページを開いた。

次に向かうべき場所を、そっと書き込む。


「大江山・祠跡 再調査」

  

大江から帰ってきて、鬼について調べはじめて数日が経つ。兼親のバイトが休みの時は2人で、兼親がバイトの時は1人で国会図書館に通っている。

真夏はちょうどバイトを辞めていたので、時間の全てを鬼に充てることができる。

今日は兼親のバイトが休みで、先ほどまで国会図書館で資料を探していて、今は夕食を食べにファーストフード店に入ったところだ。


「鬼伝説っていうと和良町と大江山が出てくるけど、数としては大江山が圧倒的に多いよな。和良町はひとつだけだし。真夏はその後、夢はどう? 色々調べてるから新しい夢を見たりしてないか?」
「それが、帰ってきてからは夢見てないんだよね」
「そっか。で、調べてみて、何か思い出したことは?」
「これと言ってないんだよね。兼親は?」
「ん……夢、見た」

ポテトをひとつ口に運んでから、兼親は言葉を探すようにしてから眉を寄せた。ファーストフード店のざわめきの中、真夏は小さく息を呑んだ。


「夢って……平安時代の?」
「そう。はっきりとは覚えてないけど、御簾とか蝉の声とか……。暑い午後だった。真夏がいてさ、ぼんやりと外を見てた」

真夏は口を挟まず、ただ黙って相槌を打った。そして、兼親がこれから語ることをひとつも聞き逃すまいと耳をすました。


「その真夏はさ、現代のお前とはちょっと違ってて、何ていうか、心ここにあらずっていう感じだった。話しかけてもどこか上の空で」

言いながら、兼親はひどくね? と小さく笑った。


「でも、話しはしてくれるんだ。正室に心が向かないって。で、側室の話をしたら、無理なんだ、って悲しそうに言ってた」
「……」
「誰かを想ってるんだろうな、ってわかった。で、相手は男なのかって訊いたら、驚いた顔をしたけど否定はしなかった。そういう時代だったしさ、男を想うことなんてそこまで珍しくないって言ってやったら、ちょっと笑ってくれた」

真夏は小さく息を吐いた。夢の内容もそうだけど、兼親がその夢をどんな風に語るのかと言う方が気になっていた。兼親の声にはどこか寂しさが滲んでいて、それが真夏の胸にひっかかった。


「そっか。俺、そんな夢の中でまで誰かを想ってたんだ」
「そう。で、俺はその横で話しを聞いているだけ。でも、真夏、誰が好きなのかは教えてくれなかったんだよな。ひどくね?」

兼親は冗談めかしてそう言うけれど、その目は真剣だった。


「なんだかちょっと悔しかったよ。夢なのに変だよな。でも……」

そこまで言ってから、兼親は1度口を閉じて、その続きを言おうかどうしようか悩んでいるようだった。


「でも、なんとなくわかった気がしたんだ。夢の中の俺も、お前のことずっと見てたんじゃないかなって」

真夏は驚いたように目を見開いた。それから視線を下に落とし、ストローをクルクルと回した。


「……それ、夢の中の話しだよね?」
「そうだよ。でも、俺、ちょっと思い出しちゃったんだ。大江から帰ってきてお前が夢を見なくなって。でも、俺は夢見て。なんか逆になってるよな」

ファーストフード店の照明の下で、互いの顔がほんの少し影って見えた。窓の外は薄暮に染まり、都心の灯りが次第に明るくなっていく。


「変な話しだけどさ。お前が思い出せないなら、俺が思い出すこともあるかもしれないな」
「……うん。そういうのもありかも」

真夏はそう言って小さく笑った。その顔は、どこか申し訳なさそうで、でも少しだけ安心したようでもあった。夢の中でも誰かを想っていて、それでも、その時も今も隣にいてくれる。それが心強かった。勝手かもしれないけれど。


「ありがとう。兼親」
「んー何が?」
「いてくれること。話してくれること」
「……当たり前だろ。お前が夢を見ないなら、その分俺が見て伝えるから」

そう言った兼親の声は思いのほか優しくて、真夏の胸にすっと染みこんでいった。