EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

前世の夢 02

ひぐらしが遠くで鳴いていた。陽は高いけれど、吹く風はどこか秋の気配を孕んでいる。薄紅の花が庭に揺れ、青々とした芝の上に白い鞠がころりと転がった。


「ほら、拾え。今のはお前の番だろう」

柔らかな声が響く。振り向けば、直衣に濃い|水浅葱《みずあさぎ》の狩衣を纏った若い貴公子が笑っていた。


「……兼嗣」

思わず口にしていた。何故その名を知っているのか、自分でもわからない。ただ、その名を呼ぶことに違和感はなく、むしろ懐かしさが胸に満ちた。


「変な顔をしてどうした? まるで初めて会うみたいに」
「いや……なんでもない。ただ、なんとなく不思議な気がして」

そう言いながら鞠を拾い上げると、指先に確かな重みがあった。夢であるはずなのに、風の匂いも鞠の質感も全てが鮮やかだった。


「ほんとにお前は物思いがすぎるな。ここに来てからというもの、目の焦点も定まらないし、どこか浮ついて見える」

兼親がそう言って少し目を細める。優しいけれど、どこか寂しげな眼差しだった。

真夏――いや、この時代では別の名があるのかもしれないけれど――は思い切って鞠を蹴った。それは空に舞い、ふわりと兼親のもとへと行った。

兼親はそれを見事に足で受け、また蹴り返す。しばしの間、言葉もなく2人は鞠を交わした。庭の隅で風が木々を揺らし、御簾の影では蝉が鳴いていた。


「なぁ、兼親」

真夏がぽつりと声を落とす。


「俺は……誰を想っていたんだろうな」

兼親の足が止まり、鞠が静かに地に落ちる。


「思い人の名を忘れたのか?」
「今は思い出せてない。ただ、心の奥底に何かが刺さっているんだ。悲しみとも恋しさともつかない、なんとも言えない思いが」

それを聞いた兼親はゆっくりと鞠を拾い、手の中で転がした。そして目を伏せながら呟いた。


「お前の心にいる人が幸せであることを俺は願うよ。例えそれが俺じゃなくても」

真夏はその言葉にハッとした。兼親の声がどこか震えていた気がした。何かを押し殺すような、淡く切ない響き。


「……ごめん。なんでかお前には甘えてしまうんだ。言いたくないことまでぽろりと零れてしまう」

それに対して兼親はふっと笑った。


「構わない。お前が望むのならば、俺はいつまでも隣にいるよ。名を呼ばれなくても、思い出されなくても」

それは夢の中の言葉だった。けれど真夏の胸に、深く深く染みこんでいった。

風がまた吹き、鞠がころりと転がる音がした。


 
「!!」

真夏はがばりと上体を起こした。

夢を見ていた。夢の中の彼は、確かに兼親だった。今の兼親とは少し違うけれど、兼親のことならわかる。年齢は、恐らく今の自分たちとさほど変わらないだろう。

あれは蹴鞠だろうか。着ているものからも平安時代の貴族だということがわかる。

兼親が平安時代の俺の夢を見たと言っていたけれど、これもそうだろう。

これはただの夢なのか。それとも前世の記憶なのか。

ただの夢にしてはリアル過ぎたし、ただの夢とも思えなかった。きっと――いや、間違いなく――前世の記憶だ。だとしたら兼親とはその頃も友人だったということになる。

ただ、兼親の言葉が切なかった。思い出されなくても隣にいるってなんだよ。目だって寂しげな目をしていた。なんで? どうして? いくら考えても答えはでなかった。

では兼親本人に訊けばわかるのだろうか。いや、きっと同じ答えが返ってくるだけだろう。

それでもひとつわかった。兼親は自分の大切な友人なのだと。そう思うと兼親に会いたくなった。


国会図書館に行くのは午後からだ。だから朝、ゆっくりとコーヒーを淹れて、先日古本屋で買った自費出版の資料本を開く。

そこでふと疑問に思う。自分たちは何も疑わずに鬼のことを調べているけれど、そもそも本当に鬼はいたのだろうか。元伊勢にいった時に、鬼の交流博物館に行ったけれど、何かを感じたのはあの笛と笛の音が聞こえたくらいだ。

あの笛は龍笛というらしい。雅楽で使われる笛なので、別に鬼とは関係がない。そうしたら、前世は――さっき見た夢が前世の夢だというのなら――平安時代の貴族らしいので、龍笛のことを知っていてもおかしくはない。

そうしたら、たまたま龍笛に反応しただけで鬼は関係ないかもしれない。真夏はそう考え始めていた。

そう考えていると、兼親からメッセージが届いた。


『今日は国立博物館に行かないか? 酒呑童子の首を切ったって言われる”童子切安綱”っていう刀が展示されているから。大江山で酒呑童子のことは反応しなかったけど、わかんないじゃん?』

酒呑童子の首を切った刀……。それを見たら何か思い出すだろうか。大江山では何も感じなかった。でも、感じなかったのは酒呑童子であって、刀はわからない。多分、何も感じないだろうけれど、その刀に紐付けられて何か思い出すかもしれない。そう思って兼親に返信する。


「そうだね。じゃあ2時に迎えに行くよ」
『了解』

こうして今日の予定が変わった。

鬼退治があったと言われているから、酒呑童子だけじゃなく他の鬼の首も落としているかもしれない。そうしたら刀で何か思い出すこともあるかもしれないと真夏は思った。

そうだ。大江山の鬼退治で伝承があるのは3回だけど、記録に残っていないだけでもっとあるかもしれない。そうしたら鬼退治のことをもっと調べた方がいいかもしれないと思う。でも、どうやって? いや、そもそも本当に鬼がいたのかさっき疑問に思ったばかりだ。だとしたら、本当に鬼がいたのか調べた方がいいだろう。そして、鬼退治のことを調べて……。

でも、どうやって本当に鬼がいたか調べたらいいのかがわからない。資料が残っているということは本当にいたということだろうか。でないと、自費出版までしないだろう。

出かけるまでにはまだ少し時間がある。コーヒーを飲み干し、真夏はもう一度机に広げた資料本へと視線をやった。

鬼は本当に存在したのか。その問いは単なる好奇心ではなく、自分の過去、自分の正体に関わるような気がするのだ。

もし、鬼が実在しなかったとしても、誰か、鬼と呼ばれる存在はいたのだろう。異形の姿だったか、異なる価値観を持つ者だったのか。

鬼を「退治」した、という伝承には勝者の都合の良いように書かれていることもあるだろう。だからこそ、記録に残らなかった側の声に目を向けるべきではないか。

ふと、夢に繰り返し現れるあの銀髪の人は、鬼なのか、人間なのか。何とはなしに、あの人のことを鬼と捉えて調べているけれど、ただの人だという可能性だってある。そうしたら記録になんて残っているはずない。

だけど、どこかで人とは違う何かを感じている。あの人が人間だとしたら、鬼に反応する自分に説明がつかないのだ。

そこまで考えたところで、思考を振り払うように真夏は立ち上がった。そろそろ支度をしなくてはいけない。博物館で何か感じられたら、きっとまた見えてくるものがあるはずだ。その為には、まずは支度だ。


1時間後。

真夏と兼親は国立博物館にいた。平日の昼間ということで人は少なかった。

特に見たいものがあるわけではないので、酒呑童子の首を切ったと言われる刀、”童子切安綱”へまっすぐに行く。

”童子切安綱”の前で立ち止まった真夏は、ガラス越しに勝たなを見つめた。青白い照明の中、静かに眠るそれは、時を越えてなお、何かを語ろうとしているかのようだった。

刃文は美しく、どこか冷たい。けれど、その冷たさの奥に何か熱いものが宿っている気がした。


「これが、鬼を斬った刀か……」

兼親が小さく呟く。それに対して真夏は何も言わない。兼親が何を言っていたのかわかってはいたけれど、それ以上に刀の持つ静かな圧に引き込まれていた。


「鬼狩り……」

その言葉を呟いた瞬間、視界が揺れた。気づけば自分は黄昏の山の中にいた。足元には血痕。夢のようで夢ではない、どこか現実から外れた空間。

騎馬を連ねた武将たちが山を進む。刀と矢を手に、その顔には恐れと興奮が入り混じっていた。鬼を狩る――それが彼らの正義だった。

そして木陰から彼らを追うように、ひとりの青年貴族が現れる。緋色の狩衣をまとい、真っ直ぐに歩く姿は自分自身。けれどその目には諦めの色があった。

風が吹く。土と草と血の匂い。懐かしく、けれど苦しい。

守りたかった。けれど――

あれは、何を選んだ顔だったのか。胸が締めつけられる。

 
(俺は……)

ふと、森の奥に気配を感じた。何かがいる。人ではない。でも、怖いとは思わなかった。それよりもどこか懐かしささえ感じた。

その時、視界がパッと白く弾けた。


「真夏?」

兼親の声がして、真夏ははっと我に返った。足元がふらつき、思わず展示ガラスの縁に手をつく。


「大丈夫か?」
「うん。ごめん、ちょっと貧血」

兼親は心配そうに眉をひそめながらも、それ以上は問わなかった。

真夏はもう一度刀を見た。先ほどまでの感覚は既に遠く、まるで夢のようだった。けれど、胸の奥には確かなざわめきが残っていた。

この刀は人を守るために作られたのか、それとも恐怖を形にしたものなのか。ただひとつ確かに言えることがある。

真夏はゆっくりと視線をあげ、展示の説明パネルに目を落とす。


『童子切安綱。源頼光が酒呑童子の首を斬ったとされる刀』

その説明文に書かれている名と、自分が見た情景の中には、重なる部分があった。


(俺は、本当に鬼を……?)

言葉には出来なかった。ただ、あの山の冷たい空気と、刀の重みだけが今も手のひらに残っているかのようだった。