博物館を出て、近くのカフェに入って落ち着くと、兼親が心配そうに声をかけてくる。そんなに自分はひどい顔色をしているのだろうか。
そう言って微笑むけれど、兼親は眉間に皺を寄せたままだ。
あれはなんと説明すればいいんだろうか。思い出した、でいいんだろうか。
酒呑童子で……。いや、それは違う。刀でだ。それも”童子切安綱”ではなく、刀というものにだ。
兼親は、平安貴族の真夏の夢を見ているから、こんな話しをしても変な顔をしたりしない。だから話しやすい。
大江山でもそうだったけれど、ここでも酒呑童子という名前ではピンとこない。鬼の頭領だったというのに。それとも自分が感じている鬼は、酒呑童子の下にいる鬼だったのか。
いや、酒呑童子本人ではなく、その下にいた鬼だとしたって、酒呑童子に絡んでいれば何か感じるだろうに、それは一切ないのだ。
そう言葉にして真夏は軽いショックを受けていた。
でも、と真夏は思う。あの人が人間じゃないとして。鬼だとして、何かが変わるだろうかと考える。鬼だと言われても会いたいと思う気持ちは変わらない。ただ、あの人が鬼じゃないとしたら、さっき感じたあの自分の、何かを諦めたかのような顔はしないだろう。どちらにしても、訊いてみないとわからないな、と真夏は思った。
風が竹の葉を揺らしていた。ざわざわと淡い緑の波が夜風に揺らされている。月は高く、けれど霞んでいて照らす対象のものの輪郭を曖昧にしていた。
そこはどこか懐かしく、それでいて現実とは少しずれた場所。夢の中だと真夏はすぐに気づいた。
竹林の奥で音がした。
細く、澄んだ音色。遠くで鳥が啼くような、けれどどこか人の心に触れてくるような優しい笛の音。真夏はその音に引き寄せられるように、音のする方へと足を進めた。
雨でも降った後なのだろうか。竹が濡れている。手を添える度に、ひやりと冷たさが伝わってくる。夢の中のはずなのに、空気も音も鮮やかだった。
やがて笛の主が見えた。月の光に照らされたその姿は、真夏の記憶に深く刻まれていた。いつものように白い着物を着て、上に淡い紫の衣をしどけなく羽織り、銀色の髪はいつものようにたらされたままだ。そして、前頭部から伸びる2本の角を持つ男。かの人――半鬼の男が竹笛を吹いていた。
その竹笛はかつて真夏が作ったものだ。まだ元服をする前の、幼かった真夏が。
真夏が呟くと、銀髪の人の手が静かに笛を下ろした。
彼の目が月明かりの中、真夏を捕らえる。深い赤。けれどそれは怒りでも憎しみでもない。静かな情がそこに見えた。
真夏はそのまま一歩彼に近づいた。
彼の角と赤い目を見たのは初めてだった。そして抱いていた疑問。
彼はしばらく黙っていた。笛を両手で包み込むように持ちながら、月を仰ぐ。
低く、けれど穏やかな声だった。
言いかけて真夏は言葉を呑んだ。
笛が月の光に反射した。その音を聞くために真夏はここに呼ばれた気がした。眠りの中で、千年の時を超えて。
そう言うと銀髪の人は目を細めて笑った。悲しげに、けれどどこか嬉しそうに。
その言葉に胸が強く締め付けられる。夢の中だというのに真夏は目の奥が熱くなるのを感じた。
風がまた吹いた。笛が少しだけ、彼の手の中で小さく鳴いた。短く、細く、まるで啼くように。
真夏はその音を、心に刻むように静かに聞いていた。
そこで空が白くなってきた。目覚める時だ。
それに気づいた彼はどこか寂しく真夏を見ていた。
真夏はゆっくりと目を覚ました。そして夢を思い返す。
名も思い出せていない銀髪のあの人の前頭部からは2本の角が生えていた。それを見たのは今日が初めてだった。
でも、鬼と言っても半分だけ。それでも、人でないことは確かだ。だけど自分は怖いとは思わなかった。それよりも、自分は鬼だということが彼自身を傷つけている気がした。
だけど、まだ信じられない自分がいた。角のある姿を見てもなお、この世に鬼が存在することが信じられなかったのだ。