夢を見ていた。夢、通っていた。もう数え切れないほど夢通った相手――真夏――と。
風が竹の葉を揺らしていた。ざわざわと淡い緑の波が夜の静けさの中で震えている。月は高く、それどその輪郭はどこか霞んでいて、光は地上の全てを柔らかく、曖昧に包み込んでいた。
この風景を博嗣は何回見ただろう。けれど、毎回、その一瞬一瞬が胸を締めつけるほど鮮やかだった。
夢の中だと知っていても、その空気の冷たさも、竹に触れた時のひんやりとした感触も、あまりに現実的すぎた。
静かな笛の音が夜の闇に震える。吹いているのは自分だった。手に持つ竹笛は、かつて幼い真夏が作ってくれたもの。歪で素朴なその笛を、博嗣は千年経っても手放さなかった。
そう思った直後、竹の間から現れた姿に心が小さく揺れた。
夢の中でも彼は変わらない。違う時代を生きてはいても、同じ真夏という名だからか、夢の中の彼は昔と同じ真夏のままだ。
真夏がぽつりと呟いた。その声に応えるように、博嗣は笛を下ろした。
真夏の目が博嗣を見つめ返す、怯えも拒絶もない。ただまっすぐに自分の存在を受け止めている。
その問いはかつて1度も訊かれたことのない言葉だった。いや、1度、自分から鬼だと名乗ったことはあったか。それを今の真夏が覚えているかはわからないけれど。
そう言えば、角を見せたのは初めてだったかもしれない。赤い目も。
少しだけ寂しさが混ざる。それでも真夏の顔に”恐れ”はなく、ただ”確かめたい”という目だった。
半分違う血が入っている。ただそれだけで線を引かれる日々だった。
真夏の声は途切れる。それで十分だった。彼は鬼ではなく、”博嗣”として自分を見てくれた。今はまだ名前を思い出してはいないようだけど。
でも、真夏のその態度で何もかもが報われる気がした。
例え現実で交わることができなくても、夢の中だけでも会えるのなら、それでいい。
けれど、そう願うことすら、どこか苦しくもある。
その言葉に博嗣の胸が震えた。
また風が吹く。
笛が小さく鳴いた。まるで啼くように。
そして、空が白くなってきた。夢の終わりの合図だ。
博嗣は目の前の真夏を、去りゆく光の中で見つめていた。
目が覚めた時、天井はいつもの白だった。
カーテンは閉まっていて、隙間からほんのりと陽が差し込んでいた。
博嗣はゆっくりと息を吐き、額に手を当てる。胸が静かに痛んだ。
それでも会えたことは嬉しいことだった。
そして、ノックの音と共にドアが開いた。|良子《よしこ》だった。
静かな身のこなしで部屋に入り、いつも通りの手際でカーテンを開ける。
朝の光が少し強くなり、夢の余韻がじわりと遠ざかって行く。
良子は問いかけながらも既に確信を持っているようだった。
博嗣は目を閉じて小さく笑った。
良子の問いは静かだった。そして優しさと、ほんの少しの憂いが混ざっていた。博嗣はゆっくりと首を振る。
その声には悲しみが宿っていた。
だから夢でしか会わない。それが博嗣ができる唯一の優しさだった。
口にしたその言葉は、静かな部屋の中で沈んだ鐘の音のように、心の奥へと響いていった。
博嗣は窓辺に歩み寄り、薄く開いたカーテンの隙間から朝の光を浴びる。
ぼんやりと遠くを見る視線が見ていたのは、さっきまでいた夢の中の竹林。そして、その奥にいる真夏の姿だった。
会いたいと願うことは弱さだ。それはとうに理解している。どうしても忘れられない光景がある。
矢が飛んできた。
思い出したくないのに、否応なく瞼の裏に浮かぶ光景だ。
真夏が、すっと前に出たのだ。なんのためらいもなく。まるでそれが当然のことのように。
風が吹いていた。雨の気配がし、湿った土の匂いがする。
そして自分を包むように伸ばされた腕。その腕はあまりに細く、あの時の博嗣にとっては世界の全てを守る腕だった。
叫んだ声は間に合わなかった。音もなく矢が突き刺さり、緋色の狩衣が赤黒く染まっていく。
目を見開いた真夏が博嗣の顔を見て、微かに笑ったように見えた。
震える唇がそう言った気がした。
博嗣の手に、その時真夏を抱きしめた時の重さがまだ残っている。
倒れかけた真夏の体を抱きしめた時、肩に伝った血の温度。
それを押さえるようにした手が、あまりにも頼りなく震えていた。
ぽつりと漏らした言葉に、自分の声ながら少し驚いた。そうだ。あの死は時間の中に沈んでいない。今も博嗣の中で生々しく息づいている。
真夏は博嗣を庇って死んだ。
他でもない自分を守るために自分の命を差し出した。なぜ、そうまでして。なぜ、あんな優しい顔で笑えたのか。答えはあの時も今もわからないままだ。
けれど、わからないままでも、博嗣は知っている。あれが全てだった。あの瞬間に、博嗣の中で真夏が永遠になった。
だからこそ会えない。生まれ変わってもなお、夢通ってしまっている。けれど、現実で会ってしまったら、もしまたあの時のように自分を庇って命を落とすようなことになったら。今度こそ自分は戻ってこられなくなる。
博嗣はゆっくりと胸に手を当てた。鼓動がある。生きている。それは、真夏が自分の代わりに死んだからだ。
だからこそ簡単に踏み込めない。再び交わるということは、再び選択を迫られるということだ。
自分と生きることを選ぶなら、彼はまた何かを捨てることになるかもしれない。それが怖い。
博嗣はぎゅっと唇を噛んだ。
夢で目があった時、少しだけ緩んだ真夏の頬。
真夏の中にも、まだあの時の痛みが残っているのなら、あの痛みに寄り添える日が来るのなら。
思いが言葉になる前に、再度、ドアをノックする音が聞こえた。1度下がった良子が再びやってきた。
博嗣は目を閉じ、ひとつ息を整えてから部屋を出た。手に、まだ真夏の重みが残っている気がした。
ダイニングには温かい香りが漂っていた。出し汁の香り。白米の湯気。焼き魚の香ばしい匂いが朝の冷たい空気を和らげている。
博嗣はゆっくりと席についた。
良子が手際よく朝食を並べていく。どれも特に博嗣の好物というわけではないが、季節に合い、体に優しいものばかりだ。
礼を言いながら箸を取る。味噌汁を一口すすると、ほんのりと磯の香りがした。胃の奥が温まっていく。けれど、味はほとんど残らなかった。今もまだ体の奥が夢に浸っている。
真夏の声。目元の笑み。それらが湯気の向こうにちらついては消える。
ぽつりと呟いた言葉に、良子は少しだけ手を止めた。だが返事はしない。ただ黙って博嗣の空いた湯飲みに新しいお茶を注ぐ。
好きだった。いや、今も――。
過去に置いていけたら、どれだけ楽だったか。死という別れが終わりとして機能するなら、きっとこんなに何度も夢に見ることはなかっただろう。
でも違う。あれは終わっていない。千年たっても。矢が射抜いたのは真夏の命だけではなかった。博嗣の時間もまた、そこで止まってしまったのだ。
博嗣は焼き魚を箸で割りながら、じっと骨の白さを見続けていた。
あの日、自分を庇って死んだ真夏の重さ。言葉では語り尽くせない罪悪感と感謝が絡み合い、今も胸の奥に根を張っている。
良子が静かに声をかけた。
思い出す度にどうしようもなく痛む。夢の中で笑っていた彼を見れば見るほど、自分が殺したような気がしてしまう。
博嗣はゆっくりと目を伏せた。
良子は多くを語らない。だが、時々その言葉が妙に胸に刺さる。
博嗣は箸を置いて、湯飲みで手を温める。
その手が、かつて真夏の体を抱きとめた時と同じように震えていた。
その言葉が朝の光に静かに溶けていった。茶の香りが柔らかく漂う中、博嗣はもう一度茶を飲んだ。
博嗣の心はまだ夢の続きを歩いていた。