朝食を食べ終わると博嗣はコーヒーを飲みながら、リビングの窓から山の景色を眺めていた。
考えることは真夏のことだった。真夏が現世に生まれ変わってから何度となく夢通ってきた。子供の頃はなんの夢かもわからなかっただろう。
けれど、今は全ての記憶が戻ったわけではないけれど、一部の記憶が戻って来ている。そして、夢ではなく現実で会いたいと言っている。
そう問われて、それを望むなら、と答えてしまった。けれど、本当に? 真夏が記憶を全て取り戻し、現実で会いたいと言われたら、本当に自分は会うと言うのだろうか。
博嗣の中では、平安時代のあの鬼狩りで真夏が自分を庇い、矢に射たれたことがまだ過去のものになりきっていない。
現実で会ってしまったら、また真夏を不幸にしてしまうのではないか。そう思うと会うことは怖いのだ。
けれど、真夏はあの頃と同じ真っ直ぐな瞳で博嗣を見てくる。その目に見つめられると否とは答えられないのだ。それは博嗣も心の奥底では会いたいと思っているからだ。
だから真夏が全ての記憶を取り戻さなければいい、などと考えてしまうのだ。
そんな風に物思いに耽っていると、高光に声をかけられた。
高光は博嗣と違い完全な鬼で、博嗣よりも色々な術が使えるが、その中でも得意なのが水晶での未来を見ることだ。
そういうとまるで占いのようだけれど、対象物の未来が水晶の中にはっきりと見える。占いとは違い、100%未来の記憶が見える。
博嗣がそう声をかけると高光は水晶をテーブルに置いた。
博嗣の言葉に高光は水晶の映像を見えるようにしてくれた。そこには、人界を捨て、こちらの鬼の世界へやってきて、博嗣と静かに過ごしている映像だった。
高光の水晶に現れたということは、そう遠くない未来に必ず起きることだ。それを回避することはできない。
高光は軽く頭を下げるとリビングを出て行った。
真夏がこちらへ来る……。
つまり、自分がそれを受け入れたということになる。
自分は本当にそれを受け入れられるのか、と博嗣は考えた。
会いたくないわけではない。真夏が生まれ変わるのを待っていた。夢通えるのを楽しみにしていたのは事実だ。けれど、その先のことは考えられなかった。いや、考えるのが怖かった。
自分を庇って死んだ真夏。鬼狩りがなくなって久しい。けれど、いつ何があるかわからない。つまり、また鬼狩りが起こる可能性だってゼロではないのだ。もしまた鬼狩りが起きたら、また真夏は自分を庇って死ぬのではないか。そう考えると怖いのだ。
高光の水晶に映っていた自分は、自分の気持ちをどう整理していたのだろう。博嗣はそう考えてコーヒーを飲んだ。
博嗣はあと少ししか入っていないコーヒーカップを持ち上げ、口元に触れる。冷めた苦みが胃の奥に染みこむようだった。
窓の外には遠く連なる山の稜線が見えていた。霞がかかり、輪郭はぼやけている。まるで今の自分の心そのものだと博嗣は思った。
真夏がこちらへ来る――。
水晶に映った未来は確定されたもの。変えようのない、もうひとつの”記憶”だ。
現実味がない。けれど、高光の水晶が嘘をついたことなど一度もない。ならば、それは現実になる。しかも、そう遠くないうちに。
真夏が現実で会いに来るということは、記憶を取り戻すということだ。
博嗣が命と引き換えに背負ったあの出来事を真夏も思い出すということだ。
真夏が前世で自分を庇い、矢に射たれた光景は夢の中ではない。博嗣にとっては、毎日のように心に蘇る”現在”だ。
あの時の血の色。重さ。温度。全てが体に刻まれて離れない。
鬼狩りは今現在は存在しない。それでも、この世界が”違うもの”に対して、どこまでも冷酷になれるということを博嗣はよく知っていた。何も起こらない保証なんてどこにもない。
そう思いながらも、胸の奥にある小さな感情が、じわじわと輪郭を持ち始めていた。
ずっと心に蓋をしていた想いだ。
夢でしか会えないことに慣れようとしていた。望むことは罪だと思っていた。
けれど本当にそうだろうか?
真夏はもう子供ではない。自分で選ぶことができる。
夢の中で見たあの瞳は、あの頃と同じ真っ直ぐな光を宿していたが、どこか凜としていて、もう誰かに守られるだけの存在ではなかった。
”もう一度守る”という思考すら、もしかすると傲慢なのではないか。そう思うと自分の中で何かが静かに崩れた。
高光の水晶に映っていた未来の自分は、どんな顔で真夏を迎えていたのか――。
優しく微笑んでいた気がする。
それは償いのためではなく。ただ、もう一度隣にいて欲しかった。それだけの真っ直ぐな願い。
ふいに、夢の中の景色が脳裏に浮かんだ。月の光がぼんやりと竹林を照らし、その中に真夏が立っていた。
風が吹き、笛の音が揺れる。音の主は自分だった。
博嗣は自分の胸の内にずっとしまっていた感情の箱を、ゆっくりと開いていることに気づいた。
それは罪悪感の奥にずっと眠っていた”希望”だった。
たった1度でも、もう1度だけでも、現で会いたい。触れたい。声を聞きたい。その手を握りたい。
それを口にすることがずっと怖かった。でも、もうその感情を認めてもいいのではないか。
真夏のあの目を見てしまった以上、それを否定する方がよっぽど残酷だ。
言葉にはしなかった。できなかった。けれど、心のどこかで確かに、博嗣の心の中に”覚悟”が芽吹き始めていた。
翌日。
博嗣は、ふと手元に置いていた”あの竹笛”を手に取っていた。
色は少しくすみ、笛の端には細かい傷があった。それらは時間の痕跡ではなく、真夏の小さな指が刻んだ想いの跡だった。
何も知らずに、ただ純粋な心で作ってくれた笛だった。それが千年の時を超えて今もこの手の中にある。
小さく囁くように呟くと、ふと夢の中のあの音が蘇った。竹林の風と、月の光と、あの細く澄んだ音色。
胸がぎゅっと締め付けられる。
会いたい。声を聞きたい。あの笛を、もう一度真夏の手から聞きたい。あの頃の真夏は笛が苦手だったけれど。
だけど、そこに浮かぶのはあの最期の瞬間だ。
――矢が飛び、血が吹き出す。自分の前で、何のためらいもなく命を差し出したあの姿。
何度夢で繰り返しても、結末は変わらない。
手を伸ばしても、血を止めても、時間は巻き戻らない。
あれは現実だった。そして博嗣が背負うべき過去だった。
手にした竹笛をぎゅっと握りしめる。あの記憶は癒えない。けれど、それでも……。
呟いた瞬間、自分でも驚いた。
過去を手放せなかったはずのこの口から、そんな言葉が出たことに。
前世で救われた命。その恩をただ沈黙と引き換えに返すのではなく。今度こそ、同じ痛みを繰り返さないために、行動することが償いになるのではないか。
せめて、そこにある苦しみは減らしてやりたい。
心の中に渦巻いていたものは、罪悪感だけではなかったのだと気づく。
”守る”という言葉の中には、”ただ傍にいたい”という願いも潜んでいた。
自分はずっと誰にも言えずにいた。その感情を持つこと自体が許されないと思っていたから。
それなのに、真夏は何度も夢に現れて言葉をくれた。会いたいと言った。記憶を思い出したら会ってくれるか、と問うた。その言葉を博嗣は否定できなかった。
真夏の中に残っていた記憶の欠片が、自分を忘れずにいてくれたことがなによりも嬉しかった。ただ、それを素直に受け止める勇気が博嗣になかっただけだ。
博嗣は静かに立ち上がった。窓の外を見ると、また山の霞が少しずつ晴れていた。
思い出す度に痛む記憶も、今は少しだけ温かく感じられた。そして思った。これから向かう未来を、あの痛みの延長ではなく、別の光として選べるのなら――
夢ではなく現で。
彼が自分を選んでくれるのか。自分がそれに応えることができるのか。もう一度その目で、声で確かめたい。
それは間違いなく、恋と呼んでいい想いだったのかもしれない。
夜が訪れていた。
博嗣は再びコーヒーを淹れ、ひとりリビングのソファに腰を下ろしていた。
外の景色はすっかり闇に沈み、山の稜線は窓の向こうに黒い影のように浮かんでいる。
静寂が部屋を満たしていた。高光が見せた水晶の映像が、まだ脳裏から離れない。
真夏がこちらの世界へ来る。記憶を取り戻し、自分の意思で。
そう想いながらも、まだどこかで恐れていた。会うことへの希望と不安が心の中でせめぎ合っている。
目を閉じれば、夢の中で真夏が見せた瞳が浮かぶ。過去と変わらぬ真っ直ぐさ。でも、もう子供のように守られるだけの存在ではなかった。
今度こそ、命を背負わせないように。同じ悲劇を繰り返さないように。
博嗣は、カップをソーサーに置き、両手で顔を覆った。
心が熱を帯びていた。夢に見る度に痛んでいたはずの記憶が、今はどこか灯りのように感じる。
真夏の存在が、自分の中で”罪”ではなく、”望み”に変わりつつある。それが怖かった。けれど、同時に愛おしかった。
窓の外を風が通った。竹の葉が揺れるような音が聞こえた気がして、博嗣は立ち上がった。
夜の山。竹林。月光。そして笛の音。
触れたい。確かめたい。生きている真夏をこの手で迎えたい。
小さく、けれど確かにそう呟いた。
逃げることで守れるものがあると思っていた。自分さえ沈黙していれば、再び誰かを傷つけることはないと信じていた。けれど、それは真夏の”意思”を信じていないのと同じだった。
記憶を全て思い出したら――そう言った。ならばそこに博嗣がノーという余地はもうない。
心の中の迷いが、少しずつ霧散していく。代わりに、胸にじんわりと温かな火が灯る。
恐れがなくなったわけではない。あの痛みを忘れたわけでもない。でも、それでも前へ進むと決めた。
夢に縋るのではなく、現実の中でこの手を差し伸べると。
その時、窓の外にふっと光が差した。雲の合間から月が姿を現したのだ。滲むような淡い光が、静かに山を照らす。
博嗣はカーテンを開けた。そして月を見上げ、深く息を吐いた。
それは口に出すことで、ようやく気づいた真実だった。ずっと手に入らないと思っていたから、願ってはいけないと蓋をしていた。
だけど本当は、誰よりも強く、彼との未来を望んでいた。
夢ではなく、現で。
今度は自分の声で、言葉で伝えよう。もう離さない、と。お前とともにいると。
静かな夜に、ひとつの決意が芽吹いた。
それは、かつて命を差し出して守ってくれた人への、今を生きる者からの返答だった。
”現で会おう”
全ての記憶と痛みを抱えて。それでも、共に歩くために。