どこかから笛の音が聞こえていた。
山の静けさの中を、澄んだ笛の音が風に乗って流れてくる。清らかで、けれどどこか哀しみを含んだ音色だった。
その、どこか懐かしさを覚えながら、音の方へと歩いて行った。
そして、夢の中の自分は音の方へと歩いて行った。
周りは鬱蒼とした木々に囲まれ、湿った土の匂いが鼻先をかすめる。蝉の声が遠くから響いていた。
夢だ、と気づいたのは、その全てが現実よりも色濃く、輪郭が曖昧だったからだ。
音に導かれるように進むと、岩の上に1人の男性が座っていた。
銀色の長い髪が風に揺れている。白い着物の上に緋色の単衣を羽織り、笛を唇に添えていた。横顔は端整で静かで、どこかこの世の者とは思えぬ雰囲気を纏っていた。けれど、恐ろしさはなかった。
年齢は20代前半か中頃か。真夏が夢で何度も見てきた”誰か”その人だとすぐにわかった。
けれど、名前は知らない。姿を見れば心が温かくなるのに、思い出そうとしても記憶は霧に包まれたままだ。
そっと呟いた。
その小さな声が届いたのか、男は笛を下ろし、ゆっくりとこちらを向いた。
思いがけず掛けられた言葉に、真夏は胸の奥が熱くなるのを感じた。
母と聞いた時、その表情がわずかに陰った気がした。きっともういないのだろう。言葉の端々に滲む哀しさに真夏の胸も痛んだ。
鬼――。夢の中で聞いたその言葉は、どこかで聞いた気がするのに現実の感覚とは上手く結びつかない。けれど、不思議と、目の前の人が鬼だと言っても恐ろしくはなかった。
そう言って微笑んだ。その微笑みは寂しく、でも温かくて、真夏はただ見つめるしかできなかった。胸の奥がふいに温かくなる。涙が出そうなのに理由がわからない。
霞若? ああ、この自分はまだ元服をする前だったんだなと気づく。
そう問いかけた瞬間、風が木々を揺らし、男の人の髪がふわりと広がった。そして何かを口にしたのだろう。けれど、その名は風にさらわれ、真夏の耳には届かなかった。
ただ、香の良い香りがした。これは沈香か? 母が香が好きでよく焚いているが、それとは少し違うが、良く似ている。
この香の香りはどこか懐かしくて、胸を締め付ける。
そう思った瞬間、景色が滲み、夢が終わる予感がした。
真夏は目を覚ました。けれど、心の奥にはまだあの音色が残っていた。優しくて、悲しくて、どこか懐かしい、あの笛の音。
これは自分と彼との出会いだ。出会った頃、自分はまだ元服前の子供だったのかと思う。
しかし、せっかく名前を聞いたのに、その名は聞こえなかった。何という名前なのだろう。名前だけが、どうしても思い出せない。
目を覚ました瞬間、真夏は胸の奥に残る微かな香りに戸惑った。
夢の中のことなのに、確かにそこに沈香の匂いがあった。甘くて、でもスパイシーで重厚で懐かしい香り。
枕元に香を焚いた覚えはない。けれど、体にその気配がまとわりついているような気がして、真夏は自分の腕に鼻を寄せた。
何もない。けれど、香りは確かに記憶に残っている。
起き抜けの体に残るのは、あの夢の断片。銀の髪、そして遠くから響く龍笛の音。
ぼんやりとそう呟きながら真夏は支度をし、兼親との約束のあるカフェへと向かった。
カフェに行くと、兼親は奥の席に座っていた。テーブルにはアイスコーヒーのカップが既にあった。
お財布だけ持って、レジカウンターの短い列に並び、アイスカフェオレを買って兼親の待つテーブル席に戻る。
兼親の問いに真夏は目を伏せ、頭を横に振る。
どう……。
思い出すと、また夢のあの香りがするようだった。
兼親にそう言われて考えてみる。
確かに懐かしかった。でも、夢の中でその香りがしたのは初めてだった。ということは記憶、だろうか。過去―前世―の記憶。そう考えるとつじつまがあう。
前世の香りを夢を介して記憶を取り戻すのはあるんだろうか、と真夏は考えた。
そう言って笑ってくれる兼親に、どこか胸が痛くなった。
なんでだろう? そう思いながら、気づかないふりをした。
あの香りの正体が気になって、真夏はその日から香りにまつわる記憶を辿るようになった。
まずは近所の香水屋さんに行ったけれど、そこに並んでいるのはどれも今風の人工的なものばかりだった。
甘いバニラや柑橘、花のブレンド。どれも違う。あの夢の香りはもっと静かで落ち着いていてなぜか胸の奥に深く響いてくるものだった。
次に足を運んだのは、都内にある香木専門の和の香りを扱う店だった。
木の箱に丁寧に保管された香木を試香させて貰い、沈香の香りを嗅いだ瞬間、真夏は小さく息を呑んだ。
――これだ!
夢の中で最も印象的だった香り。穏やかで、木の温もりのような甘さのある香り。その奥に、どこかスパイシーな香りと、冷たく澄んだ香りが重なっていた気がした。
そう店の人に尋ねると、|丁子《ちょうじ》や|龍脳《りゅうのう》という香材の名が返ってきた。
丁子はクローブとも呼ばれる香辛料で、香りに刺激と奥行きを加える役割があるという。龍脳は、すっきりとした清涼感を加える香材で、古来、貴族の|薫物《たきもの》や仏事にも使われていたと教えられた。
沈香、丁子、龍脳。この3つが揃った瞬間、真夏の中で夢の記憶が鮮やかに再生された。あの山の中で出会った銀色の髪の男。その人の袖から、確かにこの香りがふわりと漂っていた。
その夜、真夏は図書館へ向かった。地方史や風俗史を扱う棚で”香道”や”平安時代の香り”に関する資料を探し、貴族たちが香を調合して自らの趣味や教養を競い合っていたこと、そして”薫物合わせ”といった遊びに香りが用いられていたことを知った。香りはただの飾りではなく、記憶や心を伝える”言葉”でもあったのだ。
さらに夢の香りについて調べているうちに、ある論文に辿り着いた。「香と異界の境界」という民俗学的な論考だった。
そこには古来、香りが”この世”と”あの世”の境目を示すものであると考えられていたという記述があった。特に沈香や龍脳は寺院での読経や仏前に焚かれ、霊的な世界との繋がりを生む香りとされていたという。
そして、ある伝承が目を引いた。
――香りが、鬼と人を結ぶ鍵?
まさかと思いながらも、真夏の中に確かに芽生えたものがあった。あの夢に出てくる人の正体。その存在がただの幻想ではないかもしれないという直感。そして、自分が無意識のうちにその人を探しているのだという確信。
香りは記憶を呼び起こす。あるいは、記憶の中にあるものを超えて、前世や魂の繋がりにすら触れるのかもしれない。
沈香、丁子、龍脳。静かな香りの重なりの奥に、真夏は誰かの名前のような、まだ思い出せない音を聞いた気がした。
昼下がりのカフェ。窓際の席に腰を下ろし、真夏は手元のノートに何かを書き付けていた。
図書館で集めた香道や平安の香に関する知識、夢に出てきた香りとの照合、そして”あの人”の姿。
銀色の髪。深い瞳。そして遠くを見つめるような表情。何を思っていたのだろう。そんなことばかり考えている。
向かいに座る兼親が声をかけた。手にしたアイスコーヒーはほとんど減っていない。
真夏が頷く。兼親がどう思っているのか言葉には出さないけれど、察していた。自分がここ最近ずっと"夢の中の誰か"に心を向けていること。現実に目を向けていないこと。そういうところ、兼親は鋭いから。
それでも、夢の中のあの人に惹かれていく感覚は止めようがなかった。初めはただの夢だと思っていた。けれど、夢の中のあの人は日々、輪郭をくっきりとさせていく。
表情。声。香り。手の感触。次第に”知らない誰か”ではなく、”懐かしい誰か”になっていった。
ふと思い立って口を開いた。アイスコーヒーのストローをくるくると指で回しながら、曖昧な言葉を選ぶ。
言いながら、自分でもよくわからない感情に喉の奥が詰まる。
夢の中の人が、ただの夢じゃなく、もっと深いところで繋がっていたんじゃないか。忘れてしまったことが、何か大事なものを壊してしまっていたような気がする。けれど、思い出すことが怖くもあった。
兼親はすぐには答えなかった。ゆっくりとカップを持ち上げて一口飲み、それから少しだけ顔をあげた。
真夏は返事に詰まる。思い出したい。けど、思い出すことで変わってしまう何かもあるような気がした。例えば、こうして向かい合っている兼親との関係とか、日常の安定とか。言葉にできない何かが、確かに胸の中で揺れていた。
そう言って、無理に笑って見せた。自分でも曖昧な答えだと思う。でも、それが今の正直な気持ちだった。
兼親はそれ以上何も言わなかった。ただ静かに真夏の顔を見ていた。まるでそこに、”自分じゃない何か”を見ているような眼差しだった。その視線に気づいて、真夏は胸の奥がちくりと痛んだ。
本当はちゃんと話さなきゃいけないのかもしれない。自分がどれだけ夢に囚われているか。どれだけ”あの人”のことばかり考えているか。
けれど今はまだ言えなかった。言葉にしてしまったら、もう戻れなくなる気がして。
兼親の声は淡々としていた。でもその言い方が、逆に寂しく感じられた。そう思うのは自分の勝手だとわかっている。けれど、その静けさに何かが潜んでいるような気がした。
店を出たあと、並んで歩きながらも言葉はなかった。陽射しは強く、でも風は心地よかった。でも、どこかに影が差していた。
真夏は歩きながら、自分がどこに向かっているのかを思った。そして隣にいる親友の存在を感じながらも、心の一部が遠く、”夢の人”のもとへ惹かれていくのを止められなかった。