EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

目覚めの香 2

それからというもの、真夏は香りに敏感になった。

駅前のお香屋の前を通った時も、不意に沈香の香りが鼻をかすめた瞬間、歩みを止めてしまう。

胸の奥で何かがざわりと揺れる。それは懐かしさとも恋しさともつかない、けれど確かに「思い出さなくてはならないもの」への強い渇望だった。

それでも記憶の扉は固く閉ざされたままだ。思い出したい、けれど思い出せない。香りが導いてくれるはずなのに、霧のようなものが覆い被さってそれ以上先に進めない。もどかしさと焦燥で胸がぎゅっと締め付けられた。

夜――眠りに落ちた真夏は、またあの夢を見た。

どこかの山。薄い霧が立ち込め、湿った風が頬をなでる。空気に混じって漂ってくる香りがある。沈香と丁子、そしてほんのわずかな龍脳。深くて柔らかな、それでいて胸を突く香り。

その香りが鼻腔をくすぐった瞬間、鼻の奥がつんと痛くなった。涙が出てきた。

夢の中なのに、涙を落ちていく感覚がある。温かく、頬を伝って首筋に滑る。それがどうしてなのか自分でもわからない。ただ、その香りが流れてくるだけで呼吸が苦しくなるほどに胸が締め付けられ、涙が止まらなかった。

その場に誰かがいる気配があった。銀の髪が風にそよぐ。振り返るその人の顔ははっきりと見えないのに、目が離せない。

懐かしい。愛しい。どうしてこんなにも――。

目が覚めた時、真夏の枕は濡れていた。部屋にはもちろん香の匂いなどしない。けれど、まだ鼻の奥に微かに沈香の気配が残っているひょうな気がして、真夏はベッドに腰をかけたまましばらく動けなかった。

なぜ自分はあの香りに反応するのだろう。何故涙がでるのだろう。その理由がどうしてもわからない。わからないのに心が勝手に反応してしまう。涙腺が、胸があの香りに引き寄せられていく。

香りの正体はわかっている。沈香、丁子、龍脳――図書館で調べた、平安時代の貴族が好んで使った組香のひとつ。

けれど、自分がそれをどこで嗅いだのか、誰とともにいたのか、どんな場面で涙を流したのか、それだけが記憶の奥で閉ざされたままだった。


「なんで俺、泣いたんだろう」

ぽつりと独りごちた声が早朝の部屋に虚しく響く。夢の中では確かに誰かがいた。その人のそばにいると懐かしくて、苦しくて、でも安心できた。

涙の理由が喜びだったのか、悲しみだったのかもわからない。ただ、確かに”あの香り”には自分の心を揺さぶる何かがあった。

まだ全ては思い出せていない。けれど――


「きっと、もうすぐ……」

そんな予感だけが胸の奥でじっと静かに灯っていた。

真夏は顔を洗い、濡れた手をタオルで拭きながら、窓の外を見た。青く澄んだ空の下、どこかで風が吹いている気がした。その風の中に、あの香りがふっと紛れていそうで思わず目を閉じる。

あの人は一体誰なのか。何故自分の心は、そこまで強く惹かれるのか。まだ答えは出ない。けれど、その問いの先にあるものに手をのばさずにはいられない気がしていた。

もう一度夢を見たい。そして次こそは……。

その夜、真夏は酷く疲れていたはずなのに眠りは浅く、夢の入り口を彷徨うように意識が漂っていた。

やがて懐かしい香りがふと鼻をかすめた。沈香に似た深い香り。その香りが漂ってきた瞬間、視界が揺れ、夢の中へと引き込まれる。

木々のざわめき、淡い月光。そして、あの人がいた。銀の髪、深い赤い目。夢の中ではもう彼の姿を見失うことはなかった。

静かに目が合う。胸が締め付けられるほど懐かしく、苦しくなる。けれど、真夏は今度こそ問わずにはいられなかった。


「……俺が全てを思い出したら、現でも会ってくれますか?」

真夏がそう問いかけると彼は少し考えてから口を開いた。


「……お前がそう望むなら。ただし……」
「ただし?」
「全てを思い出したら、だ」

条件付きのイエスだった。けれど、会ってくれるというのが嬉しかった。


「じゃあ約束してください。全て思い出したら会ってくれるって」
「ああ。約束しよう」

約束までしてくれた。そうしたら頑張って全ての記憶を思い出さなければ。今まで、ゆっくりだったけれど思い出せた。本気になればきっともっと思い出せるはずだと思った。


「……そんなにしてまで私に会いたいか?」
「はい。だって、小さい頃からずっとあなたの夢を見ていたんです。何度も何度も。そこまで夢に見るのなら、きっとそれだけの意味があると思うので。だから会いたいんです」

真夏がそう言うと彼は口を閉ざした。そしてふと疑問に思った。真夏が子供の頃から繰り返し夢を見てきたということは、彼もずっと同じように夢を見てきたということだろうか。

そうだとしたら、どんな気持ちで会っていたんだろうか、と真夏は疑問に思った。


「あの……俺が小さい頃から繰り返し夢見ていたということは、あなたも子供の頃から? ずっと前から俺の夢を見ていたっていうことですよね?」
「そうだな」
「それならなんで会おうって言ってくれないんですか? 本当は会いたくないとか?」
「そういうわけじゃない。ただ、私と会ってもいいことはない。それだけだ」

会ってもいいことはない? その言葉に真夏は首をかしげた。ということは、彼は全ての記憶があるということか。なんで自分には記憶がないのに、彼には記憶があるんだろう。

真夏にとっては前世の記憶だ。思い出すのは容易ではない。だけど彼が全ての記憶を持っているとしたら、真夏よりも早いスピードで思い出したのか、または生まれ変わったわけではないか。

生まれ変わったわけじゃないとしたら、真夏にとっての前世、つまり平安時代からずっと生きていることになる。それこそ1000年以上も。

そんなことは可能なんだろうか。人間でなければ可能なのか。真夏にはわからない。いや、どうして記憶があるのか、そんなことはどうでもいい。真夏にとって大切なのは会ってくれることだ。だから今はそんなことは考えずに、記憶を取り戻すことだけ考えよう。真夏はそう思った。


その日、真夏は雑踏の中を歩いていた。駅前のスクランブル交差点はいつものように人で溢れ、喧噪と光に包まれていたが、自分の心の中だけはどこか別の場所にいた。

そして香専門の店の前を通りかかった時、その店から香ってきた香りが夢の中で感じた匂いと酷似していた。沈香に丁子、龍脳――甘さと渋さが混じったあの深い香り。その香りを吸い込んだ瞬間、胸の奥に熱い痛みが走った。


「なんでだ……」

独り言のように呟いた。香りは記憶を呼び起こすと聞いたことがある。ならば、自分が思い出しつつあるものとは、あの夢の中の人に関係しているはずだ。

その時だった。すれ違った男性の首筋から、ふと風に乗って香が流れてきた。あの香りと全く同じ。沈香に丁子、龍脳が混ざり合う、あの懐かしい香り。

瞬間、視界が傾いだ。心臓が大きく跳ね、世界の輪郭が歪んでいく。

真夏は思わず足を止めた。でないと倒れてしまいそうだった。人の流れの中、ただ1人立ちすくむ。鼓動が早く、目の奥が熱くなる。

香りが濃くなる。

いや、違う。ここは街の雑踏の中じゃない。

風が湿っている。草の匂い、土の匂い、そして血の匂いが混ざっている。

誰かの呻き声。木々の間を縫うようにして、鮮やかな赤が視界をかすめた。


(どこだ、ここ……)

目の前に広がるのは山の中だった。木々の間から光が差し込む。誰かが倒れている。緋色の布地に赤が滲んでいる。胸に深く突き立てられた矢。そして、その体を抱きかかえるようにして崩れ落ちている、銀色の髪の人。


「博……」

知らないはずの名を呼び掛けようとした瞬間、背筋に戦慄が走った。真夏は口元を押さえた。喉が詰まり、言葉が出ない。目の前の光景が焼き付いて離れない。

どこかで何度も見たような感覚。けれど思い出せない。でも、知っている。確かに見た。いや、あれは……。


「……っ、は……っ」

再び視界がぐらつく。現実の音が耳に戻ってくる。車のクラクション、人の声、足音。

気がつけば真夏は、ビルの影に身を寄せていた。汗ばんだ手で額を押さえ、荒い呼吸を繰り返す。頭の中ではまだ、あの香の残り香が渦巻いている。


「……なんで」

香りを感じただけで、こんなにも胸が締め付けられる理由がわからない。なぜ、あの血の匂いと香の匂いが重なった記憶を持っているのか。

誰かを――いや、あの銀色の髪の人を失った記憶がある。いや、自分が失われたのかもしれない。あの場面で倒れていたのは、誰だ?

立ち上がろうとする足が、すぐには言うことをきかなかった。心臓がまだ速く打ち続けている。

自分の中の何かが、確実に動き出している。現実の時間と別の流れの中で、記憶の扉が何かの拍子に軋むようにして開いている。

香りは夢の中だけのものではない。確かに自分の記憶の奥にあった。そしてその香りは、悲しみと結びついている。けれど、童子に温もりもある。あの香の中で、抱かれていた気がする。血の匂いと共に、誰かの腕の中にいた。

真夏は目を閉じた。涙が一筋、頬を伝った。理由はわからない。けれど、確かにこれは自分が生きた記憶なのだと思った。夢じゃない。現実の向こうにある、もうひとつの”自分の人生”が香りによって目を覚まそうとしている。


「……思い出すよ、必ず」

風の中に残る微かな香りを追いながら、真夏は歩き出した。


夜風がガラス越しに吹き込むカフェのテラス席。

真夏はぬるくなったコーヒーを両手で包みながら、遠くの街明かりをぼんやりと眺めていた。

通りのざわめきは落ち着き、店内には静かなピアノのBGMが流れている。

向かいに座る兼親が、グラスの氷を揺らしながら、ふと真夏を見た。


「……なぁ兼親」
「うん?」
「俺、もっと思い出したいんだ。全部……会わなきゃいけない気がするんだ、あの人に」

その瞬間、ふわりと風が吹いた。甘く、乾いた香りが漂う。沈香だ。夢で何度も嗅いだあの香りが、一瞬だけ現実に染みこんできた。

真夏は思わず顔をあげ、香りのした方角を見つめた。そこには何もない。けれど、胸の奥だけが静かにざわめいていた。


「どのくらいまで思い出した?」
「最近は、あの人の香りと名前が博なんとかってこと」
「香りか。どんな香りするんだ?」
「沈香と丁子と龍脳が混ざった香り」
「沈香はわかるけど、丁子とか龍脳とか初めて聞いた。でも沈香ってことは平安時代か」
「うん。だって、俺が知っているのは平安時代しかないから」
「確かにそうだな」

街中でフラッシュバックでワンシーンを見てから気にかかっていることがある。

あの、矢で射られた人は誰なんだろう。銀髪の人が崩れ落ちるほどショックを受けていた。あれからそのシーンが脳裏に染みついて離れない。

あんな悲しい場面をあの人は1人で抱えているのかと思うと真夏は胸が締め付けられた。


「で、名前ははまだ思い出せないのか」
「うん。フラッシュバックの時に、名前を呼びかけようとした時に、博って言いかけたから、博のつく名前なんだろうけど」
「博なんとかじゃ、わからないよな」
「そう。それにさ、あの人が矢で射たれた人を抱きかかえるようにしてたけど、その射たれた人が誰なのかもわからない」
「まぁ、この流れでいけばお前なんだろうけど」
「俺?」
「そう。だって、でなかったらそんなフラッシュバックで見たりしないだろう」

兼親の言葉に、真夏もそうか、と頷く。でも、あのシーンはあの時以来みていない。だから、自分だという確証がないのだ。

 
「俺だとしたら、なんで射られたんだろう」

真夏はぽそりと呟いた。あの矢は元々自分に向かって放たれたのか。それとも誰かに射られたものを庇ったのか、それともただ巻き込まれたのか。それすらわからない。


「そこまで思い出したら、もう一歩ってとこなんじゃないか?」

兼親がそう言って、アイスコーヒーに口をつけた。その声音は相変わらず穏やかだったか、どこか少しだけ遠く感じた。


「なんかさ。あの人、ずっと何かを我慢してる感じがするんだ」
「夢の中で?」
「うん。優しいけど、いつも一歩引いてて。俺が近づくのを迷ってるみたいな」
「それでも会いたいんだろ?」
「うん。絶対に」

その時だった。風がふっと吹き、沈香と丁子と龍脳の、どこか懐かしい香りが鼻先をかすめた。真夏はすっと顔を上げ、その香りの流れてきた方角へ静かに視線を向けた。