EHEU ANELA

遠回りのしあわせ〜You're my only

一番大切な人2

唯奈が出て行ったのはそれから四日後の金曜日、仕事に行っている間に引っ越しを済ませたようで、郵便受けに鍵がひとつ入っていた。

そしてリビングダイニングのローテーブルには記入済みの離婚届が置かれていた。

離婚届の他にメモも残っていて、顔も見たくないから家には来ないで、と書かれていた。

今週末には唯奈の実家に行くつもりでいたけれど、来ないでと言われたら行くわけにはいかない。

としたら、自分の親にだけは離婚することを言わなくてはいけない。怒られるだろうな。

だけど、これ以上自分の気持ちに蓋をすることはできないから、なにを言われてもしかたない。

今、電話するか。

理解なんてして貰えるとは思ってないし、勘当されるかもしれないと思うと電話をするのが怖い。

電話を持つ手が震える。


「はい、もしもし瀬名でございます」

数回のコールで母親が出た。


「もしもし、俺だけど」
「あら、立樹? 電話なんて珍しいじゃない」
「うん、ちょっと報告したいことがあって」
「なに、改まって。もしかして、子供でもできたの?」

子供というワードが出て、親はそれを待っていたのかもしれないと思った。

孫の顔が見たいと思っているだろう。


「いや、そうじゃないよ」
「あら、じゃあなに?」

決定的な一言を言うのにドキドキして怖い。

でも、伝えないわけにはいかない。


「あのさ。俺、唯奈と別れる」

ひと思いに口にする。

そうでなければ怖くて言えなかった。


「唯奈さんと離婚? 喧嘩でもしたの? 少し気のきついところあるものね」
「いや、唯奈は悪くないよ。悪いのは俺」
「あなたが? あまり怒らないあなたが珍しいわね」
「いや、そうじゃなくて。俺、他に好きな人がいて。その人を失いたくないんだ」
「え?」

まさか離婚の原因がそんなことだとは思わなかったのだろう。母親は絶句している。


「近いうちにきちんと話しに行くけど、とりあえず報告だけでもと思ってさ」
「ほんとに離婚するのね? 慰謝料はどうするの?」
「払うよ。俺の勝手だから」
「そう。その辺もきちんと話したのね。お父さんには私から話しておくけれど、あなたも直接お父さんに話しなさい」
「うん。わかってる」
「近いうちに帰っていらっしゃい。そのときにまたゆっくり聞くわ」
「わかった」

母親は特に怒ることもなく話しを聞いていた。もしかしたら唯奈に問題があって俺が他に好きな人を作ったと思っているのかもしれない。

でも、とりあえず母親にだけは離婚のことを言えてホッとした。

ホッとしたことだし、呑みに行くかな? 悠はもう仕事は終わっただろうか。悠の顔が見たい。そして離婚することを伝えようと思う。

悠にメッセージを送ると、『今帰宅中』とすぐに返信が来た。なので、いつもの店で待ってると送り、部屋着に着替えたばかりだけどカジュアルな普段着に再度着替えて家を出る。

離婚するって言ったら悠はどう思うだろうか。ただひとつ誤解して欲しくないのは、悠と付き合えないとしても離婚することは変わらないということだ。

悠が好きだから離婚する。でも、それを自分のせいだと思って欲しくない。結婚したいという唯奈に対して首を縦に振ってしまった俺が悪いんであって、悠は少しも悪くはない。そして知っていて欲しいのは、悠のことを本気で好きだということだ。

以前、悠は告白してくれていた。でも、今はどう思っているかわからない。彼氏と1ヶ月で別れているけれど、ただ相手を好きになれないだけで、もう俺のことは好きじゃないかもしれない。

でも、だとしても俺が悠のことを好きなことに変わりはない。

それでも、あわよくば付き合いたいという気持ちがあるのも嘘ではない。

そんなことを考えながらいつもの店でビールを呑みながら悠を待っていると、それほど待たずに悠は来た。

俺が結婚してからは、呑むとなると食事もできる居酒屋になりがちで、悠と出会ったこの店で待ち合わせるのはすごく久しぶりだということに気づく。


「お待たせ。この店で待ち合わせって珍しいね」

俺の顔を見るなり悠が言った。


「今日はね。お腹空いてる?」
「うん、ちょっとね」
「そしたらどこかに食べに行こうか」
「立樹は? 食べてきたの?」
「いや、俺も食べてない」
「じゃあ食べに行こう」
「そうだな。じゃああのハンバーグ美味い店に行こうか?」
「久しぶりだね。そう考えたら余計お腹空いてきた」

そうやって笑う悠が可愛いと思う。

悠のその笑顔をずっと見ていたいと思う。隣でずっと。

俺にそのポジションをくれるだろうか。それが少し怖かったりもする。

唯奈以前にも付き合った女の子がいない訳じゃない。

そういった言葉を言ったことがない訳でもない。でもそれを伝えるときにこんなにドキドキしただろうか、と思うほどに今、ドキドキとしている。

そう思うと今まで付き合った歴代彼女よりも悠のことが好きだと言うことなのだろう。

バーを出て悠と行ったことのあるハンバーグの美味しい洋食屋へ行く。

少しレトロな感じの洋食屋でなにを食べても美味いけど、特にハンバーグとオムライスが美味い。

この店は料理が美味くて落ち着いた店なので話しをするにはぴったりだった。

2階席の奥に案内され、ハンバーグを注文した。


「首は大丈夫か?」
「もう大丈夫だよ。心配かけてごめんね」
「大丈夫ならいいけど」

俺はいまだに悠が警察に行かなかったことが気に入らない。

悠は自分が悪いと言っていたが、フッたからって襲われてたら、世の中はとんでもないことになってしまう。

襲われたときにも言ったけれど、悠はそれでも自分が悪いからと言い張ったのだ。


「ならいいけど」

俺はそう言うしかできない。


「それより、今日は奥さん大丈夫なの?」

悠が何気なく訊いてくる。


「大丈夫というか、離婚した」
「え?」

急に離婚というワードが出て悠はびっくりしていた。

そうだよな。なんの前触れもなくだもんな。


「あのとき言ったけど、悠が好きだ。だから彼女と結婚生活をおくるわけにはいかないから」
「そんな! 奥さん、傷ついただろう」
「そうなのかな。すごい怒ってた」
「なんて言ったの?」
「そのままダイレクトに、好きな男がいるって言った」
「好きな男って……」
「そう、悠のことだよ」

そう言うと悠はまたしても言葉を失っていた。


「俺と付き合ってるわけじゃないのに」
「そうだけど、好きでもないのに結婚してるのもおかしいだろ。どうせ離婚するなら早い方があいつも再婚しやすいだろうし」
「それでも……」
「それくらい悠のことが好きなんだよ。悠を失うのが怖いんだ」
「立樹……」
「俺さ、結構前から悠のこと好きだったんだよ。悠から告白される前から。そこで俺がこたえてたら良かったのに、悠と……男と付き合うっていうことに覚悟がなかった。唯奈のことは、悠の次に好きだった」
「そんな。奥さん可哀想だよ」
「だな。俺が悪いんだよ」
「わかってるなら!」
「悠が好きなのに隠して結婚生活おくるのはさすがにひどいだろ。それなら離婚した方がそのときの傷だけで済むから。俺も後ろめたくないし。唯奈を失うより悠を失うことの方が怖いって思ったんだよ。もし、あのとき俺が通りかからなかったら悠は死んでいたかもしれない。そう考えるだけでたまらなく怖かったんだ」
「立樹……」
「あのとき公園で言ったことはほんとだよ。悠は好きだなんて言っちゃダメだって言ってたけど、離婚したら言ってもいいよな?」
「本気なの?」
「本気だよ」

俺が真剣な顔で言うと悠はなにか考えているようだった。

とそこで、ハンバーグが運ばれてきて、しばらく会話が止まる。

悠は悠で思うところがあるんだろうし、俺は俺で本気で好きだということは伝えた。後は悠次第だ。

食事中はお互いに無言だった。というか悠がなにも言わないから会話にはならない。

悠と知り合ってから、こんなに無言になることはなかった。

あまりの無言に、急に怖くなる。

もう俺のことを好きでもなんでもなく、俺の気持ちは迷惑なのかもしれない。

それでも、と考える。

そうだとしても、唯奈と離婚することは変わらない。仮に悠にフラれるにしたって、俺の一番の気持ちが唯奈にないのは確かだから。

無言のままに食べて食後のコーヒーで一息つくと悠が口を開いた。


「俺の気持ち、伝えた方がいい?」
「ああ。好きじゃないならそう言っていいし」
「あのね。俺も立樹のこと好きだよ。立樹が結婚してもその気持ちは変わらなかったよ。ただ、あのときは離婚するとは思ってなかったから」
「そうだよな。既婚者相手じゃ不倫になるしな」
「うん。それはさすがにまずいと思うから断った」
「そしたら、きちんと離婚したら俺と付き合ってって言ったら付き合ってくれる?」
「うん。本気ってことなら」

悠は頬を赤らめ頷いてくれる。そんな悠が可愛い。


「俺がもっと早くに決心してたら、悠が襲われることはなかったし、唯奈を傷つけることもなかったんだと思うと自分に腹がたつよ」
「でも、立樹はノンケなんだから仕方ないと思うよ。今までずっと女の人とつきあってきてたんだから」
「そう言って貰えると少し気が楽になるけど」
「でも、奥さんに申し訳ないな。俺がいなかったら幸せになれたのにって」
「悠!」
「せめて次は幸せにしてくれる人と結婚して欲しいね」
「良かった。やっぱりやめるって言われるのかと思った」
「それはないよ。立樹が本気で好きだって言ってくれてるのわかってるから」

やっぱり付き合えないと言われるのではないかと焦ってしまった。

でも、そうではないとわかってホッとする。


「離婚届はもう出したの?」
「昨日出してきた」
「じゃあバツはついたけど独身に戻ったんだ」
「そうだな」
「家はどうするの?」
「それなんだけどさ、一緒に住まないか?」
「え?」
「1人だと少し広いし。それに悠とずっと一緒にいたい」

そう言うと悠は目を見開いて固まってしまった。


「立樹、本気?」
「本気だよ」
「でも、同棲ってなったらただ付き合うのとは違うよ?」
「わかってる。それでも悠と一緒にいたい。遊びで付き合う気はない。でなきゃ離婚までしないよ」
「そっか」
「とはいえ、悠は悠で考えることもあると思うから無理強いはできないけど。ただ、俺の気持ちは知っておいて欲しい」
「わかった。まずはさデートしたりしよう。まずはそうやって付き合っていきたい」
「そうだな。じゃぁ、まずは来週末デートしようか。どこか行きたいところある?」
「デートコースっていうところ行ったばかりだしなぁ」

悠が小さな声でそう言ったとき、あの男とデートしたんだ、と嫉妬した。

自分だって唯奈と普通にデートしてたし、それどころか結婚までしたのだから嫉妬するのは違う。

それなのに面白くないと思う自分がいる。自分がこんなに嫉妬深いとは思わなかった。

今まで付き合った子に対して嫉妬したことはあったけれど、そこまではなかった気がする。


「あの人とどこ行った?」
「水族館、プラネタリウム、夜景スポット、テーマパーク。港街」
「人気のデートスポット総ナメか」
「うん」
「それなら、ショッピング、映画、美術館、博物館、海っていうのが残ってるな。でも、敢えて同じとこに行きたい気もするし、どうしようか」
「あのさ、今観たい映画あるんだけど」
「そうか。じゃ映画にするか」
「うん。ミステリーものでも大丈夫なら」
「どんな映画でも大丈夫だよ」

そう言うと悠は嬉しそうな顔をする。歴代彼女たちは俺が観たい映画なんて気にしてくれたことはあったかな、と思う。

自分が観たいんだから、という感じの子が多かった気がする。悠のことは可愛いと思ってきてたけど、こんなに可愛いのならなんで結婚前に付き合わなかったのか、と後悔しかない。


「時間大丈夫なら、これから呑みに行く?」
「立樹は明日は用事ないの?俺は特にないけど」
「俺も。家のことやらなきゃな、ってくらい。よし、じゃ久しぶりに宅呑みするか」
「するする! じゃあ買い物して行こう」

会計を済ませて、遅くまで開いているスーパーに寄り酒とつまみを買う。こうやって悠と宅呑みをするのは半年ぶりだ。

外で呑むのも楽しいけど、酔いを気にせずにリラックスして呑める宅呑みも楽しい。だから結構な頻度で宅呑みをしていた。

今俺が住んでいるマンションは、この間悠の首の傷を消毒した公園から少し行ったところにある。


「なんか、ほんとに入っていいのかな」

そうか。悠がこの家にくるのは初めてなんだと気づく。


「入らないと呑めないだろ」
「うん、そうだね。お邪魔しまーす」

小さな声でお邪魔しますと言い、そろそろと入っていく悠に思わず笑ってしまう。


「なに笑ってるんだよ」
「だって、誰もいないのにさ」
「そうなんだけど、なんかさ」
「もう誰もいないし、誰も帰ってこないよ」
「うん……」

そろそろと入ったのは多分、唯奈を思ったのだろう。それも仕方がないかとも思う。

確かについ最近まではここに唯奈も暮らしていたのだから。

悠はリビングダイニングに入るときょろきょろと視線を回す。


「確かに1人暮らしするには少し広いね」
「だろ? だから悠と一緒に暮らしたい。まぁ、考えてみてよ」
「うん」
「さ、呑もう。なにから呑む?」
「俺ビール」
「じゃあビールで乾杯するか」
「うん!」

先に呑むビールだけ残して後は冷蔵庫にしまい、ナッツ類を皿に出す。

そうしていると、結婚していた半年がなかったように感じるし、久しぶりの宅呑みに柄になく嬉しくなる。

それは悠も同じようで、今日会ってから一番の笑顔を見せた。この笑顔を守りたいと思う。別に悠は守ってやらなきゃいけないわけじゃない。悠だって俺と同じ男だ。でも、悠にはいつも笑っていて欲しいと思う。楽しそうにビールを呑む悠にそんなことを思った。

そして悠の腕を取り、ビールをテーブルに置かせると悠の唇にキスをした。


「好きだよ、悠」
「俺も好きだよ。ねぇ今までキスしてきてたのって……」
「そう。悠が好きだったからだよ。もっとも最初の頃はなかなか自分の気持ちを認められなかったけどな」
「そんなに前から……」
「そ。馬鹿だろ」
「ううん。立樹はノンケなんだもん仕方ないよ」
「ありがとう。でも、それで唯奈も悠も傷つけたのは俺のせいだ」

そう。離婚ということで唯奈を傷つけたけど、俺が結婚したことで悠を傷つけた。しかも、悠には式にも来て貰った。ほんとにひどい男だと我ながら思う。でも、その分これから悠のことを幸せにしたいと思った。