唯奈が出て行ったのはそれから四日後の金曜日、仕事に行っている間に引っ越しを済ませたようで、郵便受けに鍵がひとつ入っていた。
そしてリビングダイニングのローテーブルには記入済みの離婚届が置かれていた。
離婚届の他にメモも残っていて、顔も見たくないから家には来ないで、と書かれていた。
今週末には唯奈の実家に行くつもりでいたけれど、来ないでと言われたら行くわけにはいかない。
としたら、自分の親にだけは離婚することを言わなくてはいけない。怒られるだろうな。
だけど、これ以上自分の気持ちに蓋をすることはできないから、なにを言われてもしかたない。
今、電話するか。
理解なんてして貰えるとは思ってないし、勘当されるかもしれないと思うと電話をするのが怖い。
電話を持つ手が震える。
数回のコールで母親が出た。
子供というワードが出て、親はそれを待っていたのかもしれないと思った。
孫の顔が見たいと思っているだろう。
決定的な一言を言うのにドキドキして怖い。
でも、伝えないわけにはいかない。
ひと思いに口にする。
そうでなければ怖くて言えなかった。
まさか離婚の原因がそんなことだとは思わなかったのだろう。母親は絶句している。
母親は特に怒ることもなく話しを聞いていた。もしかしたら唯奈に問題があって俺が他に好きな人を作ったと思っているのかもしれない。
でも、とりあえず母親にだけは離婚のことを言えてホッとした。
ホッとしたことだし、呑みに行くかな? 悠はもう仕事は終わっただろうか。悠の顔が見たい。そして離婚することを伝えようと思う。
悠にメッセージを送ると、『今帰宅中』とすぐに返信が来た。なので、いつもの店で待ってると送り、部屋着に着替えたばかりだけどカジュアルな普段着に再度着替えて家を出る。
離婚するって言ったら悠はどう思うだろうか。ただひとつ誤解して欲しくないのは、悠と付き合えないとしても離婚することは変わらないということだ。
悠が好きだから離婚する。でも、それを自分のせいだと思って欲しくない。結婚したいという唯奈に対して首を縦に振ってしまった俺が悪いんであって、悠は少しも悪くはない。そして知っていて欲しいのは、悠のことを本気で好きだということだ。
以前、悠は告白してくれていた。でも、今はどう思っているかわからない。彼氏と1ヶ月で別れているけれど、ただ相手を好きになれないだけで、もう俺のことは好きじゃないかもしれない。
でも、だとしても俺が悠のことを好きなことに変わりはない。
それでも、あわよくば付き合いたいという気持ちがあるのも嘘ではない。
そんなことを考えながらいつもの店でビールを呑みながら悠を待っていると、それほど待たずに悠は来た。
俺が結婚してからは、呑むとなると食事もできる居酒屋になりがちで、悠と出会ったこの店で待ち合わせるのはすごく久しぶりだということに気づく。
俺の顔を見るなり悠が言った。
そうやって笑う悠が可愛いと思う。
悠のその笑顔をずっと見ていたいと思う。隣でずっと。
俺にそのポジションをくれるだろうか。それが少し怖かったりもする。
唯奈以前にも付き合った女の子がいない訳じゃない。
そういった言葉を言ったことがない訳でもない。でもそれを伝えるときにこんなにドキドキしただろうか、と思うほどに今、ドキドキとしている。
そう思うと今まで付き合った歴代彼女よりも悠のことが好きだと言うことなのだろう。
バーを出て悠と行ったことのあるハンバーグの美味しい洋食屋へ行く。
少しレトロな感じの洋食屋でなにを食べても美味いけど、特にハンバーグとオムライスが美味い。
この店は料理が美味くて落ち着いた店なので話しをするにはぴったりだった。
2階席の奥に案内され、ハンバーグを注文した。
俺はいまだに悠が警察に行かなかったことが気に入らない。
悠は自分が悪いと言っていたが、フッたからって襲われてたら、世の中はとんでもないことになってしまう。
襲われたときにも言ったけれど、悠はそれでも自分が悪いからと言い張ったのだ。
俺はそう言うしかできない。
悠が何気なく訊いてくる。
急に離婚というワードが出て悠はびっくりしていた。
そうだよな。なんの前触れもなくだもんな。
そう言うと悠はまたしても言葉を失っていた。
俺が真剣な顔で言うと悠はなにか考えているようだった。
とそこで、ハンバーグが運ばれてきて、しばらく会話が止まる。
悠は悠で思うところがあるんだろうし、俺は俺で本気で好きだということは伝えた。後は悠次第だ。
食事中はお互いに無言だった。というか悠がなにも言わないから会話にはならない。
悠と知り合ってから、こんなに無言になることはなかった。
あまりの無言に、急に怖くなる。
もう俺のことを好きでもなんでもなく、俺の気持ちは迷惑なのかもしれない。
それでも、と考える。
そうだとしても、唯奈と離婚することは変わらない。仮に悠にフラれるにしたって、俺の一番の気持ちが唯奈にないのは確かだから。
無言のままに食べて食後のコーヒーで一息つくと悠が口を開いた。
悠は頬を赤らめ頷いてくれる。そんな悠が可愛い。
やっぱり付き合えないと言われるのではないかと焦ってしまった。
でも、そうではないとわかってホッとする。
そう言うと悠は目を見開いて固まってしまった。
悠が小さな声でそう言ったとき、あの男とデートしたんだ、と嫉妬した。
自分だって唯奈と普通にデートしてたし、それどころか結婚までしたのだから嫉妬するのは違う。
それなのに面白くないと思う自分がいる。自分がこんなに嫉妬深いとは思わなかった。
今まで付き合った子に対して嫉妬したことはあったけれど、そこまではなかった気がする。
そう言うと悠は嬉しそうな顔をする。歴代彼女たちは俺が観たい映画なんて気にしてくれたことはあったかな、と思う。
自分が観たいんだから、という感じの子が多かった気がする。悠のことは可愛いと思ってきてたけど、こんなに可愛いのならなんで結婚前に付き合わなかったのか、と後悔しかない。
会計を済ませて、遅くまで開いているスーパーに寄り酒とつまみを買う。こうやって悠と宅呑みをするのは半年ぶりだ。
外で呑むのも楽しいけど、酔いを気にせずにリラックスして呑める宅呑みも楽しい。だから結構な頻度で宅呑みをしていた。
今俺が住んでいるマンションは、この間悠の首の傷を消毒した公園から少し行ったところにある。
そうか。悠がこの家にくるのは初めてなんだと気づく。
小さな声でお邪魔しますと言い、そろそろと入っていく悠に思わず笑ってしまう。
そろそろと入ったのは多分、唯奈を思ったのだろう。それも仕方がないかとも思う。
確かについ最近まではここに唯奈も暮らしていたのだから。
悠はリビングダイニングに入るときょろきょろと視線を回す。
先に呑むビールだけ残して後は冷蔵庫にしまい、ナッツ類を皿に出す。
そうしていると、結婚していた半年がなかったように感じるし、久しぶりの宅呑みに柄になく嬉しくなる。
それは悠も同じようで、今日会ってから一番の笑顔を見せた。この笑顔を守りたいと思う。別に悠は守ってやらなきゃいけないわけじゃない。悠だって俺と同じ男だ。でも、悠にはいつも笑っていて欲しいと思う。楽しそうにビールを呑む悠にそんなことを思った。
そして悠の腕を取り、ビールをテーブルに置かせると悠の唇にキスをした。
そう。離婚ということで唯奈を傷つけたけど、俺が結婚したことで悠を傷つけた。しかも、悠には式にも来て貰った。ほんとにひどい男だと我ながら思う。でも、その分これから悠のことを幸せにしたいと思った。