香戀歌〜千年の時を越えて〜

序章

 どこかの山の中。空気は湿っていて、蝉の声が遠くから響いていた。木々は鬱蒼と茂り、差し込む陽射しは粒のように光の斑となって地面に落ちている。 岩の上には1人の男性が腰を下ろしていた。 銀色の長い髪をそのままに、白い着物の上から水色の単衣をし…

邂逅 01

「花があると山荘の中が華やかになると頼子が言っていたから、なにか摘んでいこう」 そう思って山荘近くで霞若は花を摘んでいた。名も知らぬ野の花だけれど、薄紫で可憐な花が咲いている。こんな花でも頼子は喜んでくれるだろうか。 頼子は右大臣の跡取りと…

邂逅 02

 それからは毎日同じような時間に岩のところへ通った。 それに対して頼子は何も言わない。最近は発作を起こしたことはないし、都に帰るのも決まっている。だから自由にさせてくれているのだろう。自由でいられるのもあと僅かだから。 そして霞若の方も、あ…

元服 01

 そして3日後。霞若は山を降りた。その姿を博嗣が見ていたことを霞若は知らない。 山を降りた日、霞若は泣かなかった。泣きそうにはなったけれど、父と母の前では貴族の子供として凜として、文を習い、礼を学び、元服の準備を整えた。 右大臣、四条道隆の…

元服 02

 博嗣は目が覚めると、右のこめかみに手をあて、ゆるりと上体を起こした。 しばらくダルそうにはしていたが、顔を洗おうと立ち上がる。 ここ最近の都の貴族少数が始めた鬼狩りで少し疲れていた。だが、それも父や母をはじめ、多くの鬼の命を失った昔と違い…

結婚 01

 秋の風が虫の声を連れてくる頃、真夏の婚儀が決まった。相手は中納言の姫君で、品のある美しさと文才で名高い、優しい姫君だった。 真夏は母の居間へと招かれた。婚礼の贈り物を定める為である。 几帳の内側では女房たちが唐櫃をひとつひとつ開け、絹の重…

結婚 02

 三夜目の月は霞むような雲の帳の向こうで淡く光っていた。虫の声が静かに響く庭に、真夏を乗せた牛車が静かに進む。 ふと風が吹き、袖の下に忍ばせた笛が微かに揺れ、かつて山で聞いた音が胸の奥に蘇った。 この笛があれば。 風が吹けば。 山で過ごした…

別離 01

 真夏が元服をして1年が経った。宮中に参り、妻ー清音ーの元へ通うという、自分の気持ちを殺すような日々の連続ではあるけれど、同じ歳で、同じように宮中に参っている式部卿宮家の嫡男、兼親と親しくなり、都で唯一心を許せる友となった。 風薫る初夏の午…

別離 02

「逃げてももう棲む場所はない。結界が破られれば、私のような半端な鬼はすぐに見つかる。……もう、ここまでだ。後は、少しでも多くの鬼の命を救えるかどうかだ」「そんなこと……言わないでください!」 真夏は駆け寄り、博嗣の袖を握った。温もりがある。…

夢の男 01

 長い銀の髪が風に揺れていた。 白い着物の上に薄紫の単衣を羽織っている。肩から滑り落ちそうなほどにしどけなく着崩しているのに、不思議とだらしなさは感じない。 岩の上に座り、こちらを見ている。 そして、手には何かを持っている。笛? 緑色の笛。…

夢の男 02

「旅行楽しみだな」「元伊勢だなんて、なかなか珍しいんじゃないか。普通、伊勢って言ったら伊勢神宮の方行くんじゃん?」「文学部なめんなよ!」 兼親の言葉に真夏は思わず笑ってしまった。兼親と真夏は幼馴染みで、同じ大学で、しかも同じ文学部だ。 そし…

鬼の記憶 01

 その日、お昼の京都発天橋立行きの特急に乗り、天橋立へ行った。 天橋立では特に何かをしようとかはない。ただ、天橋立が見れればいい。なので、北側の傘松公園と南側のビューランドから見るだけだ。 北と南を手っ取り早く移動するには観光船があるような…