EHEU ANELA

切なくて、恋しくて〜zielstrebige Liebe〜

まだ見ぬ地へ2

正門さんのお店に行ってすぐの日曜日、正門さんがお店にコーヒーを飲みに来た。


「正門さん!」
「店に来るのは久しぶりだな」
「1年以上は経ってるかと」
「そんなになるか。今日はコーヒーを飲ませて貰うよ。ブラジルをくれ」

正門さんにコーヒーを淹れるのはもう1年以上前だと思う。少しでも美味しいコーヒーが淹れられるように神経を集中してネルフィルターを設置し、ゆっくりと蒸らしてから少しずつ落としていく。そして入ったコーヒーを正門さんの前に出す。


「コーヒーを淹れる姿はいっちょ前になったな。味の方はどうかな」

そう言うと正門さんはコーヒーを口に含んだ。その口が開いてどんな言葉を発するのかドキドキして待つ。このドキドキは正門さんのお店で働いているときと同じだ。誰に飲んで貰うよりも一番緊張する。


「どう、ですか」
「……うん、あの色男が言うようにそこそこの味が出てるな」

正門さんがそこそこと言うのは悪くないんだろう。まずはそれに安心した。でも、これで終わりだとは思っていない。


「ただ、お前はこの味で満足してるか?」
「いえ。まだ正門さんの味には到達してませんから。まだまだ上に行きたいです」
「そしたらまた努力するんだな。思うだけじゃコーヒーは美味くならない」
「はい。あの、また教えて貰えますか? 秋のコーヒーマイスターの試験受けたいので。利き珈琲選手権に出るのもいいかなと思ってて」
「そうだな。店をオープンして少し落ち着いただろうからレベルアップが必要だな。またしごいてやる。日曜の夜、うちの店に来るか」
「バイトで雇って貰えますか?」
「さすがに店構えてるのにバイトはないだろう。うちの定休日の日曜の夜、教えてやる」
「はい!」
「でも、自分でも美味しく淹れられるよう研究しろ。豆の焙煎や欠損豆の有無でも味が変わってくるのは知っているだろう。まずは初歩的なそこを見直すのもいい」
「はい」

バイトには雇って貰えないけれど、カフェ・サンクの定休日に教えて貰えるのはありがたい。この店が終わってから行くから夜遅くになってしまうけど、それは正門さんの休みを夜とはいえ奪ってしまうことを考えたら文句など言えない。

やることはコーヒーを淹れることだけだけど、神経を集中させて淹れるとなかなかに疲れることだ。ましてや正門さんに飲んで貰うとなると緊張するから余計だ。でも、それが自分のためなのだから仕方がない。


「美味しいコーヒーを淹れるなら美味しいコーヒーを飲むのも必要だ。どうだ、また海外へ行くのは。店を休むことにはなるけど」

海外へか。

海外へは大学生のときに、イタリア、フランス、シアトルのカフェを回った。場所ごとにコーヒーの味も違う。特にシアトルはヨーロッパで飲まれるのとまた違う。イタリアとフランスでも違う。正門さんの言うとおり、店を休むことにはなるけれど、駆け足になってもいいからまた回ってみようか。


「ドイツに俺が教えてやったヤツが店を構えてる。なかなかにいい味を出しているから紹介するぞ」

ドイツと聞いて心臓がドクリとする。大輝のいる国。そこに行くことになるとは。いや、単にコーヒーを飲みに行くだけでサッカーを見に行くわけではないし、会うわけじゃない。でも、大輝がいる国だと思うだけで心が落ち着かない。


「正門さんがいい味と言うのは美味しいっていうことですよね。ぜひ紹介して下さい」
「わかった。なら日程決めろ。それでドイツに行く日が決まったら教えろ。連絡をしておく」
「わかりました。よろしくお願いします」

こうして俺の海外行きは決まった。お店をそんなに長く休むわけにはいかないから駆け足になってしまうけれどそれは仕方がない。でもコーヒーを飲みに行くだけとはいえ、ドイツへ行くことになったことにドキドキする。大輝に会うわけではないけれど、同じ国にいるというだけで胸がときめく。ドイツはどんなところなんだろう。俺はまだ先なのにまだ見ぬドイツに心を奪われていた。

正門さんが帰った後、俺はさっそく飛行機とホテルを検索した。どこから行こうかと考えて、パリから行ってデュッセルドルフ、ローマを回ることにした。シアトルはヨーロッパから直行便がないことから今回は外した。

期間は1週間もあればいいだろうか。現地に行ってもカフェに行ってコーヒーを飲むだけだ。観光やショッピングをするわけではない。だからそんなに日数もいらない。現地へ着いたらカフェに行ってコーヒーを飲んで、そうしたら次の地へ行く。それだけだ。

夕方、お客さんが途切れたので俺はスマホで飛行機を抑え、次にホテルを探していた。そこに優馬さんが来た。


「こんにちは。湊斗くんがスマホ見てるって珍しいね」
「あ、いらっしゃいませ。今日はなににしますか?」
「今日のブレンドはなに?」
「今日はブラジルとコロンビアをベースに苦みのあるものにしました」
「そしたらそれで」
「わかりました」

ネルをセットしてコーヒーを落としていると優馬さんに話しかけられた。


「湊斗くんがお店でスマホ見てるのを初めて見たよ」
「すいません。いつもは見ないんですけど、来月1週間お店をお休みにして海外に行こうと思ってて」
「海外?」
「はい。コーヒーを飲んで来ようと思ってて」
「来月のいつぐらい?」
「下旬です」

そう答えると優馬さんは目を見開いた。なんだろう。なんか変なこと言っただろうか。それとも1週間もお店を休むからだろうか。


「どこへ行くの?」
「ローマ、パリ、デュッセルドルフです」
「僕、20日過ぎならパリにいるよ」
「え?」
「パリコレがあるから。パリには20日〜27日までいる」
「俺は22日にパリに行きます」

まさか海外での日程がバッティングするとは思わなかった。でも、優馬さんがパリコレに行くのはおかしなことじゃない。ファッションデザイナーをしているのだから行って当然だ。それでも、自分が行く日程で優馬さんも向こうにいるというのはすごい偶然だ。


「そうしたら向こうで食事でもどう? もちろん、カフェ込みで。1人で食事は寂しいでしょう」
「優馬さん、フランス語わかりますか?」
「簡単なフランス語ならわかるよ」
「優馬さんが神々しく見えます! 俺、英語しかわからなくて」

英語なら日常会話には困らないけれど、フランス語、イタリア語は挨拶とコーヒーの注文の仕方しかできない。なのでいつも食事には困るのだ。大学生のときはどんなものが出てくるのかドキドキした覚えがある。


「じゃあ助けてあげる代わりに一緒に食事して貰えるかな?」
「もちろんです! いや、言葉云々なくても食事くらいご一緒しますよ。というかこちらからお願いしたいです」
「良かった。1人旅は慣れてるけど、異国での1人ご飯はちょっと寂しいんだよね」
「わかります、それ。とくに言葉がわからないとそれを強く感じます」

1人でカフェでコーヒーを飲むのはコーヒーに集中してるからそんなことはないのだけど、きちんとした食事をレストランでしようとすると1人だと浮いてしまうし、心細い。言葉がわからないと余計に。


「じゃあフランスで湊斗くんと食事するのを楽しみにしているよ。フランスには何泊いるつもり?」
「2泊の予定です」
「じゃあ2日は一緒に食べれるね。にしても駆け足だね」
「はい。あまりお店を休むわけにもいかないし、コーヒーを飲む以外にすることもないので」
「いつも海外へ行っていたっけ?」
「いえ。お店をオープンさせてからは初めてです。以前は大学生の頃と専門学校を卒業して正門さんのお店で働いているときに」
「そのときもコーヒーを飲むために?」
「はい。あ、でも大学生の頃は有名な観光名所だけは行きましたけど。2回目のときは見るものもないのでほんとにカフェに行くだけで」
「コーヒーを飲むためだけに海外に行くってすごいね。って、服を見るだけのために海外に行くのと同じか。仕事だもんね」
「そうですね。優馬さんと同じですよ」

お店をやっていなければもう少しどこかへ行ったりするのかもしれないが、今回はお店を休むわけだからほんとに駆け足になる。でも、現地で知った顔に会えるのは少し嬉しい。


「ホテルは決めたの?」
「いえ、まだです」
「そうしたらお勧めがあるよ。僕も泊まるんだけど」

そこは小さなB&Bでマダムがとても愛想が良くて立地も良く、パリでの優馬さんの定宿だという。ネットで空室を調べると部屋は空いていたので、その場で予約をした。


「でも、なんで海外へ?」
「秋にコーヒーマイスターっていう試験のレベルアップのために試験を受けようと思っているのと、この間久しぶりに正門さんの淹れるコーヒーを飲んでガツンとやられたので」
「そうか。試験っていうのは大変だね。でも、そうか。海外を含めて色々なお店でコーヒーを飲むのも勉強になるものね。僕が洋服見て回るのと一緒だ」
「そうですね。ずっと自分の淹れたコーヒーしか飲んでないと味がいつまでたっても変わらないので。俺としては正門さんのコーヒーに負けないものを淹れたいと思うので」
「湊斗くんなら大丈夫だよ。好きだからっていう贔屓抜きで、ほんとに正門さんの次に美味しいと思っているから」
「ありがとうございます」

正門さんに”美味い”と言って貰えるようなコーヒーを淹れられるようになってコーヒー鑑定士の試験に受かりたい。日本の頂上に行きたいんだ。

コーヒー鑑定士の合格率はわずか4%で、試験内容としては商品設計、生豆鑑定、品質管理の3項目となる。美味しいコーヒーというのが試験内容にあるわけではないけれど、生豆鑑定ができれば味の雑味を少なくすることができる。だから不味いコーヒーを淹れる方が難しい。でも俺はまだコーヒー鑑定士の試験を受ける資格がない。コーヒー鑑定士の試験を受けるにはコーヒーインストラクター1級保持者でないと受けられないのだ。しかし、俺はまだ2級。だからまずは1級に受からなくてはいけない。とりあえず来年春のコーヒーインストラクター1級の試験を受けようと思っている。俺が指針とする正門さんレベルに到達するにはまだまだ道は遠い。


「ドイツ、行くんだね」

ポツリと優馬さんが言った。それに俺は、はいと答えた。優馬さんの言葉がなにを含んでいるのかはわかる。大輝のことだ。


「ドイツの彼が住んでいるところへは行くの?」
「いいえ。というか、どこに住んでいるのか知りませんから」

俺がそう答えると優馬さんは目を見開いた。俺が言った答えは予想していなかったのだろう。連絡を取っていないにしてもどこに住んでいるのかくらいは知っていると思ったのだろう。

大輝がドイツへ行くとき、俺は敢えてどこへ行くのか訊かなかった。どこの街に行くのか知っていたら大輝に内緒で会いに行けてしまう。だから大輝は俺に言わなかったし、俺も訊かなかったのだ。


「じゃあ遠くから姿を見るっていうこともできないね」
「ええ。それでいいんです」

今回行くのはドイツのデュッセルドルフだ。ドイツというとミュンヘンやベルリンを思い浮かべるが、デュッセルドルフもそこそこ聞く地名だ。邦人は5,000人いると言うから多いと思う。そこに大輝がいる確率はどれくらいなんだろう。ドイツの人口は約8,400万人。デュッセルドルフの人口が63万人。そこに日本人も5,000人いる。日本人は多いとは思う。でも、そんな中で大輝に会うなんてことはないだろう。もし会ったとしたならそれはすごいことだと思う。


「でも、会いたいでしょう」
「それは会いたいです。でも、会わないと決めた彼の気持ちを尊重したいんです」
「そっか」

きっと優馬さんには理解できないだろう。涼でさえ理解できないと言っていた。でも、誰かに理解して貰いたいとは思わない。俺はただ大輝の言うことにただ従うだけだ。そしていつか迎えに来てくれると信じて待つだけだ。だから今回ドイツへ行くことになったけれど、そこで会おうとは思わない。大輝がドイツで頑張っているように俺は俺で頑張る。ただそれだけだ。それでも、大輝と同じ空の下に行けると思うと嬉しい気持ちがするのは仕方がないことだろうと思う。早くドイツの空の下に行きたい。