正門さんのお店に行ってすぐの日曜日、正門さんがお店にコーヒーを飲みに来た。
正門さんにコーヒーを淹れるのはもう1年以上前だと思う。少しでも美味しいコーヒーが淹れられるように神経を集中してネルフィルターを設置し、ゆっくりと蒸らしてから少しずつ落としていく。そして入ったコーヒーを正門さんの前に出す。
そう言うと正門さんはコーヒーを口に含んだ。その口が開いてどんな言葉を発するのかドキドキして待つ。このドキドキは正門さんのお店で働いているときと同じだ。誰に飲んで貰うよりも一番緊張する。
正門さんがそこそこと言うのは悪くないんだろう。まずはそれに安心した。でも、これで終わりだとは思っていない。
バイトには雇って貰えないけれど、カフェ・サンクの定休日に教えて貰えるのはありがたい。この店が終わってから行くから夜遅くになってしまうけど、それは正門さんの休みを夜とはいえ奪ってしまうことを考えたら文句など言えない。
やることはコーヒーを淹れることだけだけど、神経を集中させて淹れるとなかなかに疲れることだ。ましてや正門さんに飲んで貰うとなると緊張するから余計だ。でも、それが自分のためなのだから仕方がない。
海外へか。
海外へは大学生のときに、イタリア、フランス、シアトルのカフェを回った。場所ごとにコーヒーの味も違う。特にシアトルはヨーロッパで飲まれるのとまた違う。イタリアとフランスでも違う。正門さんの言うとおり、店を休むことにはなるけれど、駆け足になってもいいからまた回ってみようか。
ドイツと聞いて心臓がドクリとする。大輝のいる国。そこに行くことになるとは。いや、単にコーヒーを飲みに行くだけでサッカーを見に行くわけではないし、会うわけじゃない。でも、大輝がいる国だと思うだけで心が落ち着かない。
こうして俺の海外行きは決まった。お店をそんなに長く休むわけにはいかないから駆け足になってしまうけれどそれは仕方がない。でもコーヒーを飲みに行くだけとはいえ、ドイツへ行くことになったことにドキドキする。大輝に会うわけではないけれど、同じ国にいるというだけで胸がときめく。ドイツはどんなところなんだろう。俺はまだ先なのにまだ見ぬドイツに心を奪われていた。
正門さんが帰った後、俺はさっそく飛行機とホテルを検索した。どこから行こうかと考えて、パリから行ってデュッセルドルフ、ローマを回ることにした。シアトルはヨーロッパから直行便がないことから今回は外した。
期間は1週間もあればいいだろうか。現地に行ってもカフェに行ってコーヒーを飲むだけだ。観光やショッピングをするわけではない。だからそんなに日数もいらない。現地へ着いたらカフェに行ってコーヒーを飲んで、そうしたら次の地へ行く。それだけだ。
夕方、お客さんが途切れたので俺はスマホで飛行機を抑え、次にホテルを探していた。そこに優馬さんが来た。
ネルをセットしてコーヒーを落としていると優馬さんに話しかけられた。
そう答えると優馬さんは目を見開いた。なんだろう。なんか変なこと言っただろうか。それとも1週間もお店を休むからだろうか。
まさか海外での日程がバッティングするとは思わなかった。でも、優馬さんがパリコレに行くのはおかしなことじゃない。ファッションデザイナーをしているのだから行って当然だ。それでも、自分が行く日程で優馬さんも向こうにいるというのはすごい偶然だ。
英語なら日常会話には困らないけれど、フランス語、イタリア語は挨拶とコーヒーの注文の仕方しかできない。なのでいつも食事には困るのだ。大学生のときはどんなものが出てくるのかドキドキした覚えがある。
1人でカフェでコーヒーを飲むのはコーヒーに集中してるからそんなことはないのだけど、きちんとした食事をレストランでしようとすると1人だと浮いてしまうし、心細い。言葉がわからないと余計に。
お店をやっていなければもう少しどこかへ行ったりするのかもしれないが、今回はお店を休むわけだからほんとに駆け足になる。でも、現地で知った顔に会えるのは少し嬉しい。
そこは小さなB&Bでマダムがとても愛想が良くて立地も良く、パリでの優馬さんの定宿だという。ネットで空室を調べると部屋は空いていたので、その場で予約をした。
正門さんに”美味い”と言って貰えるようなコーヒーを淹れられるようになってコーヒー鑑定士の試験に受かりたい。日本の頂上に行きたいんだ。
コーヒー鑑定士の合格率はわずか4%で、試験内容としては商品設計、生豆鑑定、品質管理の3項目となる。美味しいコーヒーというのが試験内容にあるわけではないけれど、生豆鑑定ができれば味の雑味を少なくすることができる。だから不味いコーヒーを淹れる方が難しい。でも俺はまだコーヒー鑑定士の試験を受ける資格がない。コーヒー鑑定士の試験を受けるにはコーヒーインストラクター1級保持者でないと受けられないのだ。しかし、俺はまだ2級。だからまずは1級に受からなくてはいけない。とりあえず来年春のコーヒーインストラクター1級の試験を受けようと思っている。俺が指針とする正門さんレベルに到達するにはまだまだ道は遠い。
ポツリと優馬さんが言った。それに俺は、はいと答えた。優馬さんの言葉がなにを含んでいるのかはわかる。大輝のことだ。
俺がそう答えると優馬さんは目を見開いた。俺が言った答えは予想していなかったのだろう。連絡を取っていないにしてもどこに住んでいるのかくらいは知っていると思ったのだろう。
大輝がドイツへ行くとき、俺は敢えてどこへ行くのか訊かなかった。どこの街に行くのか知っていたら大輝に内緒で会いに行けてしまう。だから大輝は俺に言わなかったし、俺も訊かなかったのだ。
今回行くのはドイツのデュッセルドルフだ。ドイツというとミュンヘンやベルリンを思い浮かべるが、デュッセルドルフもそこそこ聞く地名だ。邦人は5,000人いると言うから多いと思う。そこに大輝がいる確率はどれくらいなんだろう。ドイツの人口は約8,400万人。デュッセルドルフの人口が63万人。そこに日本人も5,000人いる。日本人は多いとは思う。でも、そんな中で大輝に会うなんてことはないだろう。もし会ったとしたならそれはすごいことだと思う。
きっと優馬さんには理解できないだろう。涼でさえ理解できないと言っていた。でも、誰かに理解して貰いたいとは思わない。俺はただ大輝の言うことにただ従うだけだ。そしていつか迎えに来てくれると信じて待つだけだ。だから今回ドイツへ行くことになったけれど、そこで会おうとは思わない。大輝がドイツで頑張っているように俺は俺で頑張る。ただそれだけだ。それでも、大輝と同じ空の下に行けると思うと嬉しい気持ちがするのは仕方がないことだろうと思う。早くドイツの空の下に行きたい。