涼がビールを一口飲んでから口を開く。俺はプルタブは開けたけれど、まだ飲んではいない。
リアルでなにかやられるのも怖いけどインターネット掲示板に書き込むのもかなり悪質だ。嫌がらせしているのが自分だとバレないからいいと思って書き込んでいるのだろう。HNを入れる必要のない掲示板なら数字の羅列のID番号が振られるだけだ。そのIDを見れば以前書いた人物と同一人物だとわかるだけで、誰が書いたかはわからない。ほんとに悪質だ。
確かに涙見せれば男は弱いって思ってる女の人いるって言うからな。そう考えると気が滅入ってくる。開けたビールを飲んでため息をつく。
あの書き込みにレスがついていたのを見ただろうか。
警察に相談……。それは考えたことがないでもない。俺の名前もお店の名前もはっきりと書かれているわけだから。それに警察が介入すれば掲示板運営側は情報を開示する必要がある。つまり犯人は見つかるし、刑事責任を問われることがある。今回は店名が入っていることから営業妨害とかに問われるのかもしれない。
どこを見てお店に影響がでたら、となるのかは正直わからない。まあ、大事にしたくないだけ、というだけなんだけど。
笑いながら涼が言う。さすがだな。伊達に付き合いが長いわけじゃない。俺の性格を知っている。それに対して苦笑で返す。涼はビールを一缶飲み終わったのだろう、冷蔵庫に立ち、もう一本飲むかと訊かれたので首を振って答える。なんだかあまり飲む気になれないんだ。プルタブを開けた一本で十分だ。
涼の言うとおりだ。はっきりとした証拠がなければなにもできない。そうでなければ言いがかりだと言われて終わりだ。怖いけれど、逆にリアルになにか行動を起こされた方がいいのかもしれない。まさか、数日後リアルに行動を起こされるとは思わず、俺と涼は話していた。
俺がインターネット掲示板に書き込まれていると話してから優馬さんは平日の17時以降になるとお店に来るようになった。なにかリアルで行動を起こされないようにだろう。
そして定休日明け3日目の金曜日、ことは起こった。時間は18時。会社勤めの人は仕事が終わって帰宅前に、残業の人は残業前の休憩にお店を訪れている人がチラホラいる。優馬さんはこの時間の前に来ているけれど、今日はまだ来ていない。仕事が終わっていないのかもしれない。そこに、女性客が1人入って来た。
こういったコーヒー専門のカフェに来てアメリカンを注文する人は珍しい。少なくともうちの店ではストレートの銘柄を注文する人が多く、次にウインナコーヒーやカプチーノといったアレンジものの注文がたまに入る。でも、アメリカンは少ない。こういったコーヒー専門のカフェに来るのはあまりないお客さんなのかもしれない。そう思いながらアメリカンを淹れた。
そう言ってアメリカンをサーブした。そうして数分後、その女性は席を立ち、大きな声をあげた。
その声に俺はすぐに女性の方へと行く。そして他のお客さんはびっくりして女性の方を見る。それはそうだろう。静かなカフェの中を切り裂くかのように怒声が響いたのだから。お店を開いて2年。お店でこんな大きな声を聞いたのは初めてだ。
正直、金切り声が耳に痛い。でも、場を治められるのは俺しかいない。
そういうと女性はテーブルの上のカップを払いのける。
カシャン!
カップが床に落ちて割れた。それを見た俺は一瞬固まってしまった。いや、固まっている場合じゃない。掃除、掃除しなきゃ。でも、その前にコーヒーの代わりを淹れた方がいいのか? あまりのことに冷静さを失ってしまった。しかし、その後女性が発した言葉に俺は完全にフリーズした。
その言葉で動きだけじゃなく、頭もフリーズしてしまう。そしてそこに人が飛び込んでくる。
店に飛び込んで来たのは涼と優馬さんだった。俺は2人の顔を見たもののなにも言うことはできなかった。
そう言って涼は俺の方へと来る。そしてそれと同時に優馬さんさんが声を発する。
女性は優馬さんを見ると、さっきまでの勢いはどこえやら呆然とその場に立ち尽くしている。
優馬さんの問いに女性はなにも言わない。俺はただそれを見ていた。
すぐ傍から涼の言葉が聞こえてきて、俺は我に返った。カップを片付けなきゃ。そして、他のお客さんがこちらを見ていることも思いだした。
まずはカップを片付けて、それからお詫びのコーヒーを淹れよう。そう思ってほうきとチリトリを持って来たところで涼に取られる。
涼の言葉に一瞬固まったけれど、確かにこれだけ騒ぎになったら警察を呼ぶのも当たり前だ。その前に他のお客さんのフォローをしないと。そう思って俺はお詫びのコーヒーを淹れ始めた。
カップの片付けを涼に任せて、俺は他のお客さんにお代わりとして注文頂いたメニューと同じものを淹れた。お客さんが5人で、みんなよく来るお客さんなのでメニューを覚えていたのが幸いした。
コーヒーを淹れながら優馬さんが女性に話しているのを聞いていた。
優馬さんの言葉に女性は言葉をなくしたようだ。
そうしていると警察官が2人連れでやってきて、俺になにがあったのかを訊き、それに答えると女性は連行されていった。俺はなにも言えずに店を出て行くのを見送った。
迷惑をかけたお客さんにお詫びのコーヒーをサーブし、今日のお代は必要ない旨伝える。ゆっくりしたい場所でこんな事件にぶつかるなんてお客さんにとってはいい迷惑だ。
お客さんにお詫びのコーヒーを淹れたあとは優馬さんと涼にもコーヒーを淹れる。優馬さんにはブレンドを、そして涼にはマンデリンを淹れた。
カウンターに並んで座った2人の前にカップを出す。
2人が一緒にお店に入ってきてびっくりはしたんだ。数回しか顔を合わせていないから。
あれだけの声だ。お店の外に聞こえていても当然だ。
結局、インターネット掲示板への書き込みもあの彼女がやったっていうことか。優馬さんのことを好きな人。自分の好きな人が他の人を好きなのは悲しい。それが同性なら余計にそうだろう。でも、だからといってやっていいことと悪いことがある。あんなことをやってスッキリすると思ったかもしれないけれど、自分の品位を下げただけで終わった。それって惨めじゃないのかな? そんな風に考えた。
そう言って優馬さんは頭を下げる。
涼からもそう言われて優馬さんは頭を上げて、再度ごめんと言った。
涼がマンデリンは俺が淹れたのしか飲んでないというのはびっくりした。そんなこと知らなかった。
涼と優馬さんのコーヒー談義で、お店の中はまるでなにもなかったかのように穏やかになっていった。