EHEU ANELA

愛のない婚約者は愛のある番になれますか?

新しい生活2

午前11時。

僕と陸さんは陸さんの実家へと行く。もう何度も来ているけれどほんとに大きい家だと思う。高級住宅街にありながら、その他の家よりも明らかに大きい。日本を代表する宮村製菓社長の家だと思うとその大きさも頷ける。

今日は陸さんの運転で来ていて、陸さんは慣れた様子で車を停める。そして玄関ドアが開いてゆきな伯母様、もといお義母様が顔を覗かせる。


「お帰りなさい」

いらっしゃい。じゃなくてお帰りなさい。それは陸さんがいるからなのかわからないけれど。


「千景くんもお帰りなさい」

ああ、僕にもお帰りなさいと言ってくれるんだ。それがとても嬉しかった。心が温かくなる。ゆきなお義母様はいつも僕にとても優しい。だから僕はゆきなお義母様が好きだ。だから僕も言う。


「ただいま帰りました」
「疲れたでしょう。さぁ入って」

そうしてリビングに入る。広さ30畳以上という広いリビングだ。

僕と陸さんがソファーに座るとお手伝いさんの茜さんがコーヒーを持って来てくれた。コーヒーの良い香りがして、きっといい豆を使っているんだろう、雑味のない味だ。下手なカフェで飲むよりも美味しい。それは茜さんがコーヒーを淹れるのが上手いというのもあるんだろう。

そして茜さんは皆の好みを把握していて、僕には蜂蜜を少量足して淹れてくれている。外ではブラックにほんの少し砂糖を入れるけれど、家で飲むときはほんの少し蜂蜜を入れて飲むのが好きなのだ。

こんなパーフェクトなお手伝いさんは茜さんしかいないんじゃないだろうかと思う。だからお土産もきちんと買って来てある。でも、まずはお義父様とお義母様から。


「お義父様、これお土産です。ハワイの地ビールです」
「おお。ハワイにも地ビールがあったのか」
「はい。今はワイキキにもお店があるんですよ」
「そうか。オアフ島はあまり行かないからな。今度はオアフ島へ行ってみよう」
「ワイキキは結構変わってました」
「じゃあ、行かなくてはな」

とお義父様に地ビールとネクタイピンとカフスのセットを渡す。最初は地ビールだけだったけれど、お義母様にはアクセサリーの他にもあるのだから、と急遽付け加えたのだ。


「カフスか。パーティーのときに付けられるな。地ビールだけでいいのに気を使わせたな。これを買ってくれたのは千景くんだろう。陸はそこまで気が回らないからな」

そう言ってお義父様は笑う。外に出ると厳しい人だけど、家の中ではとても優しい人だ。

そしてお義父様にお土産を渡した後はゆきなお義母様だ。


「お義母様、これを」
「千景くんにお義母さんと呼ばれるなんて嬉しいわ。で、なに?」
「これ、ピアスなんですが。あまり年齢気にせずに使えるかと思って」
「そうね。ハワイアンジュエリーってどうしても若い人向けなデザインが多いから、これだと年齢気にせず付けられるわね。千景くんは細やかな気配りが昔から出来るのよね。本当にありがとう」
「あと、これも」
「あら、これはフェイスマスクね。これでいつまでも若くいなくちゃ」

そうやって笑うお義母様に陸さんが口を開く。


「若作りはするなよ」

その言葉にお義母様が反応する。


「まぁ、失礼ね! ほんとに。あんたは千景くんの爪の垢を煎じて飲みなさい」

陸さんとお義母様のこの手のやり取りはいつものことだから今さら驚かない。


「千景くんみたいな子が息子になってくれたなんてほんとに嬉しいわ」

その言葉に僕は小さく微笑む。お義母様は僕が小さい頃から可愛がってくれている。だから僕もお義母様が昔から好きだ。言いたいことはハッキリ言うお義母様は気持ちいいくらいだ。

お義父様とお義母様にお土産を渡したから、後は茜さんに。


「茜さん」

僕が名前を呼ぶとスッと来てくれる。茜さんはお義母様と同じくらいの年代の人なのだと思う。なのでフェイスマスクとお菓子を買ってきた。


「これ、お土産です」
「そんな。私にまで……」
「いつも良くしていただいているので、ほんとに気持ちだけで申し訳ないんですが」
「そんなもったいない」
「茜さん、貰ってあげて」
 

そう言って受け取るのを迷っている茜さんにお義母様が言ってくれる。

お義母様の言葉に茜さんが恐る恐る受け取ってくれる。それに僕はホッとした。


「お心遣いありがとうございます」
「いいえ。こちらこそ、いつもありがとうございます」

僕のうちは普通の家なのでお手伝いさんなんていないから、茜さん以外のお手伝いさんはわからないけれど、茜さんはほんとに細やかな気配りのできる人だから僕はいつもすごいなと思っているし、たまに来るだけの僕の好みまで覚えていてくれているのはほんとに嬉しいんだ。だからほんとに気持ちだけだけどお土産が渡せて良かった。


「で、新婚旅行はどうだった? まさか別行動をしたとか言わないでしょうね」

ゆきなお義母様の言葉になにも言えなくなってしまう。ここで別行動でしたって言ったらどうなっちゃうんだろう。でも嘘なんて言えないし、と僕が心の中で慌てていると陸さんが答えた。


「別行動に決まってるだろう。ちなみにお土産も全部千景が選んだ。俺はなにもしてない」

それ言ったらお義母様に怒られると思って僕は身を縮こませてしまう。嘘をつくのはどうかと思うけれど、そんなに正直に話さなくても……と思ってしまう。せめてお土産の下りくらいは黙っておいてもよかったのでは? と思ってしまう。でも、陸さんがそう答えた以上僕はなんとも言えない。


「何が決まってるですか! あのね、普通の旅行じゃないのよ? 新婚旅行なのよ? 2度とない旅行なのよ。それを別行動しただなんて」
「結婚だって好きでしたわけじゃない」

陸さんの言葉に胸が痛くなる。わかっていることではあるけれど、はっきりと言われるとさすがにキツい。


「なんてことを言うの! 千景くんのなにが不満なの。こんなに良い子はいないわよ。とにかく、あなたは千景くんと結婚したのだから番になって孫の顔でも見せてちょうだい」

やっぱりそうだよね。望まれるのはそれだよね。番になって子供を産むこと。僕は陸さんに憧れているから番になって陸さんの子供を産めるのは嬉しいことだけど、陸さんは僕と番になる気なんてないだろうし、ましてや子供を作る気なんてさらさらないだろう。


「そんなことどれだけ待っても無理だよ」

どれだけ待っても無理……。

その言葉が胸に刺さる。

そうだよね。好きで結婚したわけじゃない。だから番になんてなる気もないし、子供なんてあり得ないんだろう。そう思ってふと思った。陸さんの好きな人の性別はなんだろう。

陸さんの好きな人がオメガだった場合、アルファの陸さんとは番になることができる。そして1度番になった場合、番のアルファにのみフェロモンを発することができなくなるため、離婚や番解消した場合オメガにとってはとてもダメージが大きい。だって、もうアルファを誘惑するフェロモンを出すことができないから再婚とか再度他の人と番に……というわけにはいかない。ということは陸さんとその人がもし番になっていたらもう離れるわけにはいかなくなる。そうしたら番になっていない僕が離婚するしかないということだ。陸さんに好きな人がいるだろうということはわかっていたけれど、そこまで考えていなかった。そうだ。僕が離婚になるかもしれないんだ。


「私は千景くん以外は認めませんからね」

そうお義母様は言う。お義母様は僕のことを可愛がってくれるから。でも、離婚になるかもしれないということを考えたら僕はショックを受けてしまった。なんでそのことに気づかなかったのだろう。


「千景くん、顔色が悪いわ。陸、あなたのせいよ」
「そんなこと言われても困るよ。俺がこの結婚を望んでなんていなかったって知ってるだろう」
「千景くんの前でそんなことを言う馬鹿がどこにいますか! 少しは人の気持ちを考えなさい」

陸さんに好きな人がいるのは間違いないと思う。でも、相手の性別によっては別れられないことがあるって思い至らなかった僕は馬鹿だ。そんなことに気づいたら顔色も悪くなるだろう。自分勝手だけど、陸さんの相手がアルファかベータであることを願うしかない。もしオメガだったらこの結婚は遅かれ早かれ離婚になるだろう。それがたまらなく怖かった。


「まぁ、そんなにカリカリするな。でもな陸。今はそう思っていても夫婦なんて一緒にいれば情がわくものだよ。私とお母さんだってそうだ」

それまで黙っていたお義父様が口を開いた。

お義父様とお義母様は恋愛結婚じゃなかったのか。でも2人はとても仲が良い。とてもそんな風には見えなかった。

でも、一緒にいれば情がわく、か。陸さんの相手がオメガでなければきっと離婚にはならないと思う。そうしたらいつか陸さんが僕のことを見てくれることもあるのだろうか。そんなことを望む僕はわがままだろうか。


「夫婦なんてそんなこともあるんだ。だから今は好きじゃないと言っても人間の気持ちなんて変わることがあるんだ。少しは流れに身を任せてみろ」
「そうね。夫婦なんてわからないものよね。千景くん、陸がひどいことを言ってごめんなさいね。でも、身勝手なことを言うけれど、少しの間だけ我慢してね。そのうち変わるから」

そのうち変わる、か。そうだといいな。いつか恋愛感情じゃなくてもいい、陸さんの気持ちがほんの少しでも僕の方に向いてくれればそれで十分だ。


「僕は大丈夫です」

ほんとは大丈夫なんかじゃない。でも、ここでめそめそするわけにはいかないから。だから僕は笑顔を作る。そして、いつか陸さんが僕を見てくれる日を夢見る。


「さぁ、馬鹿なこと言ってないで食事にしましょう。今日はお寿司にしたのよ。ハワイだとあまり和食食べられなかったと思うから。って言ってももう帰国して1週間近いけれど」

そう言ってお義母様はいたずらっこぽく笑う。ハワイは日系人や日本人が多いから和食は食べられるけれど、お寿司ばかりはアメリカでは食べる気になれない。

もちろんアメリカにだってお寿司屋さんはある。だから行けば食べられる。でも、日本の味を望むことはできない。だから和食を食べることはあってもお寿司は食べない。お義母様はそれがわかっているからお寿司をチョイスしてくれたんだろう。そういう気遣いのできる人だ。


「うにもイクラもあるからたくさん食べなさい」

お義母様がそう言うと茜さんがお寿司を持って来てくれた。美味しそうだ。


「いただきます」

そう言ってまぐろをパクリと食べる。するとその鮮度が半端なく良くて美味しかった。これはハワイで食べられる味でもないけれど、日本国内にいたってなかなか食べられる味でもない。これはさすが宮村家、というところだ。


「美味しいです、すごく!」
「そう。良かったわ。千景くんの好きなイクラやうにもたくさんあるからいっぱい食べてね」
「はい!」

陸さんの好きな人の性別のことでショックを受けてしまったけれど、オメガと決まったわけじゃない。気が乗らなかったとは言え僕と結婚したのだから、もしかしたらアルファかベータなのかもしれない。そうしたら番になれなくても離婚にはならないかもしれない。考えると辛いから、そう思って自分を慰めてお寿司を食べる。美味しいものは気持ちを元気にしてくれる。そう思うと大好きなお寿司をチョイスしてくれたお義母様に感謝だ。

お寿司は陸さんも好きだから顔をやわらげてお寿司を食べている。うん、やっぱりこのチョイスは大当たりだ。僕と2人のとき陸さんは顔をやわらげることはない。だから、そんな顔を見たのは久しぶりだ。僕と2人でも、なにか美味しいものを食べたらそんな顔をしてくれるだろうか。それなら、なにか理由をつけて美味しいものを作るのだけど。

そんな風に考えて、僕は陸さんの好きな味を作れているだろうか? ハワイでは僕の作ったものを1度食べて貰ったことはあるけれど、なにも言わなかった。それは美味しかったということなのか美味しくなかったということなのかわからない。表情も変わらなかった気もするからわからない。

今度なにか作ったときは陸さんの表情をしっかりチェックしよう。お寿司を食べながらそう思った。