EHEU ANELA

愛のない婚約者は愛のある番になれますか?

番の約束 01

触れていたのはほんのわずかの時間だ。1秒とか2秒とか。だけど、もっと長くに感じたし、離れていく唇に寂しいと感じた。

  「すまない」

唇が離れた後陸さんが口にしたのは謝罪の言葉だった。そんな言葉いらないのに。

「いえ。謝らないでください」 「嫌じゃなかったか?」 「嫌じゃ、ありません」

嫌なはずがない。だって、子供の頃からずっとずっと好きだった陸さんだ。嬉しいと思いこそすれ、嫌だと思うことはない。でも、恥ずかしくて陸さんの顔を見ることが出来ない。

「先に風呂入るか? 今なら食事の時間には間に合うだろう」

お風呂と聞いて僕の体が強ばる。だって、ガラス張りだ。キスよりもそっちの方が恥ずかしい。

「あの、ここ、お部屋からお風呂、というよりシャワールームが丸見えで……」 「ああ、そうか。なら、一緒に入るか?」 「!!」

陸さんの言葉に僕はびっくりした。陸さんと一緒にお風呂に入る? いや、そんな。確かに熱海では一緒に入ったけど、あのときは湯浴み着を着ていた。でも今回はまっ裸だ。

いや、隠せばいいのか? 熱海と違うのは、周りに他に人がいないから、神経が集中してしまうことだ。こんなバスルームだと知ってたら湯浴み着を持ってくるんだった。

「熱海では一緒に入ったぞ。まぁ交互に入ろう。千景が入っているときはベッドのところにいるから安心しろ。あそこからなら見えない」 「陸さん、お先にどうぞ。僕はベッドにいます」

そう言うと、少し残念そうな顔をした。そんな顔しないでください! とにかく僕は陸さんを早くお風呂に入って貰うことにした。

そうして僕はベッドに座ってボーッとする。1人になると今日のことが信じられなくて。だって、ずっと陸さんには好きな人がいると思っていたし、その気持ちが僕に向くことがあるなんて思いもしなかった。

でも、結婚してから陸さんがデートしている様子がなかったのは、相手の方が亡くなっていたからなんだ。いつ亡くなったのかはわからないけど、悲しかっただろうな。僕は祖父母を亡くしたけれど、やはりすごく辛かった。それがもし陸さんだったら……。考えるだけでおかしくなりそうだ。だけど陸さんはそれを経験したんだ。

僕の笑顔で気持ちが変わったって言ってたけど、僕は陸さんが好きだったから陸さんの姿を見れば嬉しくて自然と笑顔になっていただけなんだ。でも、それで好きになってくれたのなら嬉しい。

そういえば、西賀がワンチャンあるんじゃないかって言ってたけど、ほんとにワンチャンあっちゃった感じだ。西賀に伝えたらびっくりしそうだな。メッセージを送ってみよう。

『陸さんに告白された』

そう送るとすぐに返事が返ってきた。シルバーウィークに暇してたのか?

『マジで? 良かったじゃん。でも、やっぱりワンチャンあったじゃん』 『まさかあるとは思わなかったよ』 『距離って結構重要だからな』

そうなのかな。でも確かに年に1回会う相手よりはしょっちゅう顔を見る相手の方が色々と目につきそうだ。

『でも良かったな。長年の想い叶ったじゃん』

僕が陸さんをいつ好きになったのかは覚えてない。ただ、小学校に入学する頃には陸さんのことを好きだった。最初は憧れだったと思う。小さい僕からしたらしっかりしたお兄さんで、なんでも知っていた。そして好きだと思ったのは優しかったからだ。年下の僕に、嫌な顔もせず遊び相手になってくれて、優しくしてくれた。

陸さんのこと何年好きだったんだろう。多分、20年くらいだ。自分で言うのもなんだけどすごいな。陸さんが知ったら軽く引かれそうだ。

『永遠に片想いだと思ってたよ』 『神様が見ててくれたんだよ』 「千景、あがったぞ」

お風呂に入っていた陸さんの声が聞こえる。

『今度また食事行こう。そのときに話すよ』 『了解。じゃな』

そう送ったときに陸さんが顔を見せる。この宿の甚平を着ている。甚平姿も格好いいな。イケメンってずるい。

「温泉気持ちいいから入ってこい」 「はい」

そして下着を持ってお風呂へと向かった。

シャワーを浴びて体を洗ってからお風呂に浸かる。これは温泉露天風呂になっているけれど、デッキにあるため屋根があるので雨の日や雪の日でも入れるようになっている。こういうのっていいな。

箱根の渓谷を見ながら思い出すのは昼食のときのこと。西賀にも言ったけれど、陸さんが僕のことを好きになってくれるなんて思いもしなかった。

何年前になるか忘れてしまったけれど、陸さんが愛おしそうにスマホを弄っているのを見かけてしまったときはショックだった。

僕とは婚約者だけど、心がないのはわかっていた。でも、結婚すればいつか好きになってくれるかもしれない。そう思ったんだ。でも、ほんとに愛おしそうな顔をしていたから、僕の入る隙なんてないんだと思ったら悲しかった。

だからこの想いは一生叶わないかもしれない。そう思っていた。仮にそのときの人と別れたとしても、振り向いてくれるとは限らないから。

僕はとくに綺麗でもないし、可愛くもない。ほんとに平凡なタイプだ。だから自分に自信なんてなかったし。そんな風だから西賀にワンチャンあると言われたって、そんなことないと思ってた。

なのに陸さんは僕を好きになってくれた。でも、夢じゃないよね? そう思って頬をつねってみると痛いからきっと現実なのだろう。ほんとに夢を見ているみたいだ。

そこでふと気づいた。これで心の通った本物の夫夫になるとして、番契約はどうするんだろう。結婚は紙切れ一枚で離婚ができるけれど、番契約は一生ものだ。

いや、アルファは他のオメガと契約を結ぶことはできるけれど、オメガは番契約をしたアルファしか誘惑しなくなるし、触れ合うのも拒否するというから他のアルファと契約を結ぶことはできないだろう。

だからもし離婚しても僕は一生他のアルファと契約は結べない。だから番契約は慎重になる。

もし番契約をしようと言われたとしたら、僕はどうしたいだろう。それでも番になりたいか? なりたい。万が一離婚になんてなっても僕は他の人を誘惑したいとは思わないだろう。僕は陸さんだけでいいんだ。それなら迷うことはない。陸さんと番になりたい。

だから陸さんから番のことを言われたら僕は番になりたいとハッキリ言おう。

陸さんと結婚できるだけでなく、番にもなれたら僕はなんて幸せ者なんだろう。なんて、番のことなんてなにも言われてないのに幸せな気持ちになるなんて早すぎるな。

それでも考えてしまうのは無理ないだろう? 好きだなんて言われたんだから。そう思うとお風呂の中で小さくジタバタしてしまう。

そんな風にお風呂の中で考え事をしていると、陸さんの声が聞こえてきた。

「千景、いくら露天風呂とは言え、そんなに長く浸かってるとのぼせるぞ。大丈夫か?」

声の方を見ると、部屋からデッキに顔を出した陸さんがいた。僕は慌てて体を隠す。すると陸さんは小さく笑った。

「大丈夫だよ、体は見えてない。頭だけだ」

良かった。見えてなかった。

  「温泉を堪能したなら早くあがれ。もうすぐ夕食が来る」

え? もうそんなに時間たってたの? 早くあがらなきゃ。

「すいません、もうあがります」 「ん。じゃあ俺はベッドのところに行ってるからあがってこい」 「はい」

陸さんが部屋の中に入ると、僕は慌ててお湯から出て体を拭いて甚平を着て部屋に入った。

僕がお風呂からあがってすぐに夕食が運ばれてきた。テーブルに列べられていくのは立派な懐石料理だ。

旬菜盛、造り、吸物、煮物、焼物、替り、酢物、ご飯にお漬物、小吸、水菓子。どれもが美しく飾られている。美味しそう。

今日の焼物は金目鯛西京焼きで、替りはステーキだ。こういうところだからきっと和牛あたりだろう。

仲居さんがさがったところで食事に手をつける。旬菜盛には車海老もあり、僕は真っ先に口に入れた。美味しい!

  「陸さん、美味しいです!」 「ここの食事は美味いんだ。気に入ってくれたなら良かった」

ここは絶対に庶民では手が届かないだろうところだ。でも、宿泊費はそれに見合うサービスだって言っていたから、これだけの豪華な懐石料理が出てくるんだろう。

僕は美味しいものを食べるのが好きだから、この懐石料理は見た目だけでなく美味しく頂く。

次に造りはと見ると、桜鯛、中トロ、イカだった。まず最初に中トロを口にすると、口の中でとろりととけてしまう。イカもとても柔らかくて新鮮なのがよくわかる。イカって固くなるから新鮮かどうかがすぐにわかる。

  「これ、懐石料理でもランクが高そう」 「そうだな。安い懐石ではないな。そこらの料理店ではここまでのは出てこない」 「会食で使うようなお店と比べてもですか?」

僕は会食なんて出たことないからわからない。

「店による。ほんとにいいところだとこれくらいの料理は出てくるけれど、安いところだとここまでのは出てこない」

そうなんだ。じゃあやっぱりランクとしては高いんだな。

「今度、料亭にでも行くか。考えてみたら、子供の頃から結婚は決まっていることだったから顔合わせも結納もなかったからな。顔合わせでもあれば料亭を使ってもおかしくないんだが」

そうだ。僕たちの場合は顔合わせなんて必要なく、会うのは宮村家の別荘だったり、それか宮村家だったのでそういったのがなかった。

そうか。普通はそういうときに料亭っていう選択肢があるんだな。そういう機会のなかった僕は、いまだ1度も料亭に行ったことがない。だから、行ってみたい。

「料亭、行ってみたいです。あ、でもあまり高くなくても……」 「ランクのいいところじゃないとこれくらいの料理は食べられないぞ」 「んと、それなら中くらいで」

そう言うと陸さんは笑った。

「それならクリスマスか千景の誕生日にでも行くか。もちろんランクは上で」

お祝いのときか。いや、クリスマスはまだしも僕の誕生日にだなんて贅沢だ。と、そこで思う。クリスマスって仕事忙しいのでは?

  「クリスマスって忙しくないですか? お菓子業界大変なときだと思うんですが」 「うちの会社でクリスマスが忙しいのはクリスマス前だ。当日になると材料の入荷も必要ないから落ち着く。それに俺はその現場にはいないからな」

言われてみて気づく。確かにそうだ。クリスマス当日で忙しいのはお菓子屋さんの方だ。

「だからクリスマスは食事に行けるから楽しみにしてろ」

ここでこんな贅沢をして、クリスマスにも美味しい懐石料理を食べに行けるなんて幸せだな、と思いながらも手を進める。

僕の中のメインのステーキを口に入れるとほろほろととけていき、噛む必要がないんじゃないかというくらいだった。これ、絶対に国産のいい和牛だ。でも、ステーキってソースを和の食材に変えるだけでこんな懐石料理に合うんだな。

もう口に入れる全てのものが美味しくて、量が多いと思っていた食事だけどデザートの水菓子までしっかりと完食した。

「美味しかったです。こんなに美味しい懐石は初めてです」 「そうか。じゃあ宿をここにした理由もわかってくれるか」 「そうですね。これだけの立派の部屋で露天風呂があって、これだけの美味しい懐石料理まで食べられるのなら、ここを選んでしまうのもわかります」

ここの宿泊料がいくらかはわからないけれど、きっととんでもなく高い。でも、これだけのサービスなら安いはずがない。でも、価格に見合うだけのサービスなのだと思う。

それにしてもクリスマスに懐石料理に連れて行って貰えるなんて贅沢な約束までしてしまった。うん、すっごく楽しみだ。

箱根の山を見ながらの温泉は気持ち良かったし、部屋出しの夕食も立派な懐石料理でほんとに素晴らしかった。夕食のときは僕も陸さんも飲み過ぎたら怖いためアルコールは控えたけど、地元酒蔵の日本酒や懐石料理にあったワインとかが揃っているらしい。連泊なら飲んでも良かったとは思うけれど、今回は1泊だ。

そして食事を終えたら僕と陸さんはどうしていいのかわからずにただテレビをつけっぱなしにしている。

いつも食事が終わると僕は部屋に戻るし、陸さんはたまにソファでテレビを見ていたりはするけれど、基本的に部屋に戻っている。

結婚式の後の宿泊は2ベッドルームだったから寝室は別にしたし、ハワイのコンドミニアムも2ベッドルームだったので別々だった。つまり、一緒の部屋で過ごしたことがないのだ。なのに今はソファの隣に座っている。

L字型になっているソファだけど、テレビを見るならと隣あってしまったのだ。いや、どうせテレビなんて頭に入ってこないから逃げようか。なんで本持ってくるの忘れちゃったんだろう。

僕は外出時には基本的に本を持って出かける。今日なんて宿泊なんだから本は必要だったのに。スマホで電子書籍買おうかな、と思ったところで陸さんに話しかけられる。

「明日はガラスの森美術館に行くけど、中も見てみるか。一見の価値はあるぞ」 「そうなんですね。それなら見てみたいです」

美術館なんて普段は行かないけれど、ガラスの森美術館というのだからガラス細工とかが展示されているんだろうか? それなら見てみたい。

「他にどこか行きたいところはあるか? 近くには他に印象派の絵画が楽しめるポーラ美術館とかがあるが。アウトレットで買い物でもいいぞ」 「僕、美術ってよくわからないし、特に買いたいものもないので陸さんにお任せでもいいですか?」 「俺も美術は明るくないからな。そうしたら帰りに大涌谷にでも寄って帰るか? 黒卵でも食べて帰ろう」 「はい」

こうやって遠出をして思うのは、陸さんは僕の意見を聞きつつもプランを決めるのが早い。だから僕はつい任せてしまうけれど、こういうところが頼りになるなと思う。ほんとは僕ももっと意見を言うべきなのかもしれないけれど、あまり詳しくないとつい任せてしまう。ダメだな。

  「千景」

ふいに名前を呼ばれて陸さんの方に顔を向けると、僕をじっと見る陸さんがいた。

「俺と番になってくれるか?」 「……はい」 「解消は出来ないぞ?」 「解消したいと思わないので大丈夫です。陸さんの番にして下さい」

ほんとの夫夫になるのなら、番になるのは不思議なことじゃないし、逆に夫夫なのに番じゃない方が不思議だ。それに僕は陸さんが好きだから番になれるのなら、そんなに嬉しいことはない。それにお母さんやお義母様たちも喜ぶ。

「わかった。じゃあ次のヒートのときにここを噛む」

そういって陸さんは僕の項に触れる。陸さんの手が触れて、ぞくりとした。嫌な感じはしない。ヒートでもないときに陸さんに触れられるのって初めてだ。あ、陸さんが酔って帰って来たときに抱きしめられたことはあるけれど、陸さんは酔っていたのであれはノーカンだ。

好きな人に触れられるのってこんな感じなんだな。そんな風に考えていると、再び千景、と名前を呼ばれ顎に手をかけられ、陸さんの綺麗な顔がゆっくりと近づいてきた。