EHEU ANELA

愛のない婚約者は愛のある番になれますか?

歩み寄り2

俺が週末のお昼も作って貰うようになって、いちいち食べに行く手間が減った。外に行くのはいいけれど、毎週末外で食べるとなると数件のお店をローテーションで食べることになり結構飽きていたのも事実で、だから千景が作ってくれるのは正直助かる。

それに千景は結構料理が上手い。少なくとも俺の口には合っているようで、今日は何が出てくるんだろうかと密かに楽しみにしている。

そして俺が楽しみにしているだけでなく、作っている千景も楽しそうに作っている。作るのなんて面倒じゃないんだろうか。俺は料理はしないけれど、見ていると面倒くさそうだ。少なくとも楽しいものとは思えない。なのに千景は楽しそうなので、俺はそれが不思議だった。

そんな日曜日の今日、お昼を食べ終わると千景が声をかけてきた。


「陸さん、僕、買い物に行ってきますね」

買い物に行くのに声をかけてくるのは珍しいなと思った。スーパーは1階にあるので、買いに行ったとしたってすぐに帰ってくる。だから千景も一々声をかけてはこない。それなのに今日に限って声をかけてきた。なんでだろうと不思議でそれが口に出た。


「スーパーなんてすぐだろ」
「あ、今日はスーパーだけじゃなくてちょっとコーヒー豆が欲しくて。もう後少ししかないから」
「それはどこなんだ」
「隣の駅です。ただ、川崎なので時間はかかりますけど。でも、珈琲の専門店で色々な豆が売ってるんです」
「今まで買ってたところより美味しいのか?」
「今飲んでいるものですよ」

俺はコーヒーは好きなので結構味に拘っている方だ。実家にいたときも良い豆を使っていて、茜さんの淹れてくれるコーヒーは美味しかったし、千景と暮らすようになってから飲んでいるコーヒーも美味しいと思って飲んでいた。いつもコーヒー豆のために電車に乗って買いに行ってくれていたのか。


「車を出す」
「え?」
「川崎なら時間がかかるし大変だろう。だから車を出す」

車を出すと言った俺に千景は目を丸くする。それはそうだろう。結婚して数ヶ月経つけれど一緒に買い物に行ったこともないし、車を出したこともない。いや、その前にこんなに会話をしたことがないかもしれない。そんなだったから千景は驚いたんだろう。


「もう出れるか?」
「え? あ、はい」
「じゃあ行くぞ」
「はい!」

驚いた顔をした後はなんだか嬉しそうな顔をしているけれど、俺は恥ずかしくて見て見ぬふりをした。


「その店にはよく行くのか?」
「美味しいコーヒーが飲みたくなると行ってます。コーヒー豆を買えるのもそうですけど、カフェにもなっているから店内で飲むこともできるんです」

コーヒーの美味しい店で店内でも飲めるのなら、お店で飲んで帰るのもいいなと思う。


「なら、飲んで帰るか」
「え? いいんですか?」
「いいから言ったんだろうが」
「そうですけど」
「嫌ならやめよう」
「嫌じゃないです! 嬉しいです」

横目でチラリと見た千景の顔は、とても嬉しそうな表情をしていた。コーヒーを飲んで行くかと誘ったのがそんなに嬉しいのか? その表情はちょっとしたときに見せるものだ。なにがそんなに嬉しいのだろうと思う。それでも結婚する前からそういう表情をすることがあったから、俺が話すことが嬉しいのだろうか。でも、俺たちは恋愛結婚じゃない。なのに、そんなに嬉しいのだろうか。

鍵を持って地下駐車場へ行き、車に乗り込んだ。



うっかりコーヒー豆を切らしそうになって買い物のついでにコーヒー豆を買いに行こうと思って陸さんに声をかけたら車を出してくれると言われた。そんなことは初めてだからびっくりしたけれど、そう提案してくれたことが嬉しくて僕の顔はニヤけていなかっただろうか。

陸さんの実家で出されるコーヒーが美味しかったので、一緒に住むようになってからコーヒーは拘って買っていた。

買いに行くお店はカフェとしても営業しているので、店内で気に入った豆を買って帰ることができるので、実家にいたときはたまに出かけていた。うちは家族全員コーヒー党なので僕が買ってくるそのお店のコーヒー豆が美味しいので通販で買ったりもしていた。

だから結婚してからもためらわずにそのお店の豆を買うことにしていた。何しろ実家からよりもここの方がお店に近いし。だからいつもは平日に買いに行っていた。でも、今回はうっかりしてしまって今日飲んでしまったら明日の朝の分が足りるか足りないかになってしまったから、今日行くことにしたのだ。

陸さんは毎朝、コーヒーを飲んで仕事に行く。だから、そのコーヒーを切らしてしまうとかあり得ない。僕が陸さんに出来ることの数少ないうちのひとつなんだから。

だから週末なのに買いに行くんだけれど、まさか陸さんが車を出してくれるとは思わなかったのだ。

陸さんの車! 陸さんが免許を持っているのは知っているし、だからハワイでは運転していた。だからきっと車だって持っているだろうなとは思っていた。

普段は寺岡さんの運転する車で通勤しているけれど、きっと休日は運転するだろうとも考えていた。でも、車という陸さんのテリトリーに入らせて貰えるなんて思わなかった。だから、すごく嬉しいんだ。

マンションの地下駐車場に降りて陸さんが鍵を開けた車はポルシェだった。そうだよね。陸さんみたいな人が乗るんだから、一般的によく見かけるような国産の軽自動車なんかじゃないよね。

僕は車には明るくないのでよくわからないけれど、流線型のフロントマスクはとても高そうだ。それでも陸さんにはぴったりだと思う。切れ長の目で、クール系の陸さんにはSUVよりもこういった形の車の方が似合うと思う。

その車に陸さんが乗るのはいい。だって陸さんの車だし。でも、僕が乗ってもいいんだろうか。お洒落な車で、陸さんのプライベートなテリトリー。そこに僕みたいな普通の人が乗ってもいいのか迷う。でも、ここで乗りませんとは言えないし、覚悟を決めて乗るしかない。でも、どこに乗ればいい? 後部座席? 助手席? いや、さすがに助手席は厚かましいよね。僕がそうやって悩んでいると、陸さんは助手席のドアを開けた。え? 自分が乗る前に開けちゃうの? そんなエスコート、紳士だよ。もう、あまりのことに僕は倒れそうだったけど、気をしっかり持って恐る恐る助手席に乗った。


「道はわかるか?」
「ここからの道はわからないけど、向こうの駅からはわかります」
「向こうの駅からか。住所……なんてわからないか」
「住所なら」

カバンの中からスマホを取りだし、店名を入力すると住所がでてきた。


「あの、ここです」

僕がスマホを見せると陸さんはカーナビに住所を入力した。


「ここからならそんなに遠くないな」

そうなんだ。確かに電車でもちょっと距離はあるけれど、それでも一駅で着くんだから車でもそうなんだ。車に乗らない僕にはよくわからなかった。

でも、そんなに距離がないのなら、ゆっくりドライブ気分を味わうことはできないんだなと思う。いや、ドライブなんて思うのがおこがましいか。それでも陸さんの運転する車に乗るなんて今後ないだろうから、少しでも時間かかればいいなと思ってしまった。


お店には30分ほどで着いた。陸さんが言っていたように、それほど遠くはなかった。電車で行くのと大して変わらない。でもそれは途中、渋滞があっての時間だから渋滞がなかったらもう少し早かったんだろう。


「ここか。大きな店ではないんだな」
「でも、豆はかなりの種類ありますよ」

カフェもあると言ったからもっと大きなお店を想像していたのかもしれない。小さなお店に見えるけれどかなりの数のコーヒー豆が売られている。それでもネット通販ではお店以上の数の種類を扱っているから、いつも何を買おうかと悩んでしまう。けれど、陸さんに出すのはブラジルと決めている。それは陸さんが何が好きかわからないからだ。

とりあえずカフェ席に座り、何にするか決める。僕は今日はキリマンジャロにした。かなり久しぶりに飲む。結婚してからはブラジルだけだから、実家にいたとき以来だ。


「僕はキリマンジャロにします。陸さんはどうしますか?」
「俺はブルマンにする」

ブルーマウンテン!

それはキリマンジャロとは価格の差がすごい。それをさらりと言えてしまうあたりがすごい。そうだよね。あんな高級車に乗っているんだ、ブルマンくらいなんでもないだろう。それでもキリマンジャロとは一杯1,000円の差があって僕には飲む勇気がない。でも、陸さんは毎日大変なお仕事をしているんだから、それくらいの贅沢をしたって罰はあたらない。毎日家のことだけしている僕とは違うんだ。

レジに並び、キリマンジャロとブルマンを注文して陸さんのいるところに戻る。


「こういうカフェ形式でブルマンがあるのは珍しいな」
「やっぱり豆を扱っているからじゃないですか? 豆も注文してから焙煎してくれるんですよ」
「そうなのか。新鮮なんだな」
「はい」

陸さんは店内を見渡しながら言う。コーヒーに関するものが所狭しと置かれていてびっくりしているのだろう。僕も初めて来たときはびっくりしたものだ。


「うちでいつも飲んでいる豆はなんだ?」
「ブラジルです。陸さんはなにが好きですか?」
「そんなに種類を知っているわけではないがブルマンが好きだ。実家ではなにの豆を使っていたかは知らないが、それも美味しいと思って飲んでいた」
「陸さんのところではブラジルあたりかなと思ってました。なのでブラジルにしているんですが」
「そうか。あまり癖がなくて飲みやすいな」
「コーヒーと言えばブラジル、みたいな感じなので。僕もブラジル好きです。でも、ブラジルのフレーバーコーヒーも美味しいんです」

お店では扱っていないけれど、ネットではブラジルにフレーバーをつけたフレーバーコーヒーもある。実家にいたときはお母さんと一緒に毎月セール対象になるフレーバーコーヒーを注文していた。フレーバーコーヒーも随分飲んでないなぁ。


「コーヒーが好きなのか?」

コーヒーに口をつけつつ陸さんが問う。


「はい。うちは両親もコーヒー党だったので、常に2,3種類の豆がありました」
「でも、今は1種類じゃないのか? いや、お前の部屋にあるのかは知らないが」
「今はブラジルだけです」
「コーヒーが好きなのなら、何種類でもいいから置けばいいだろう」

陸さんは当然のように言う。でも、僕は今、仕事をしているわけじゃない。陸さんが働いたお金で生活させて貰っているんだ。なのにそんな贅沢をしていいんだろうか。あ! 陸さんの好きなブルマンも置けばいいのか。


「陸さんの好きなブルマンと他に1種類くらい買ってもいいですか?」
「好きにすればいい。でも、たまにブルマンを淹れてくれたら嬉しい」

好きにすればいい。そんな贅沢していいんだろうか。でも、ブルマンを置いても僕は飲まない。そんなの飲んだら罰が当たる。そう言うと陸さんは笑った。

え? 陸さんが笑った! 子供の頃は当たり前に見ていた笑顔だけど、陸さんが思春期を迎えて距離が出来てからは初めて見る笑顔だ。今日はなんだろう。陸さんの車に乗せて貰って、陸さんの笑顔を見せて貰って。僕、前世でなにか徳を積んでたんだろうか。そう思ってポカンとしていると、陸さんは自分が笑っていたことに気づいたのかいつもの無表情に戻ってしまった。それでも、陸さんの笑顔が見れたことが嬉しくて、コーヒーが余計に美味しく感じた。