歩こうと立ち上がったけれど、しばらくの間立ったまま動けずにいた。
胸の奥に残る痛みは、矢に射られたときの痛みだけではない気がした。そこで、ふと気配のように心をかすめた感情があった。
今の自分には”戻る場所”がある。迎えてくれる人がいる。決して1人ではない。
あの夜ー兼親の家に泊まった日ー熱に浮かされたように夢を見て、布団をはねのけて目を覚ましたことがあった。その時、兼親が冷たい水を持って来てくれた。
真夏はそっと目を閉じた。思い出すまでもない。あの夜の空気、寝汗に濡れた肌、喉の奥に残る渇き。その全てが今でも手のひらの中にあるようだった、あれはまだ記憶が曖昧で、夢と現実の区別もつかない夜だった。恐ろしくて、でも何が恐ろしいのかもわからないまま震えていた。自分が誰かだったこと。自分が何かを失ったこと。その断片だけが胸の奥を引き裂いていた。それでも兼親は何も言わなかった。ただ、そっと冷たい水の入ったグラスを手渡してくれた。手が震えていたから、こぼれないようにと指先をそえてくれていた。その手の温度は今も忘れない。
思わず名前を呼ぶと、風が木々の隙間を抜けて頬を撫でた。まるであの夜、窓を少し開けたときに感じた夜風のようだった。兼親は何も強いことは言わなかった。でも、甘い言葉も言わなかった。ただ、寄り添うように傍にいてくれた。それがどれほど支えになっていたか。真夏はようやくそれを真正面から認めることができた。
出発の日の朝も、いつものカフェの窓際の席でコーヒーを飲んでいた。
それだけ言って兼親は穏やかに微笑んだ。問い詰めることも、止めることもなかった。けれど、その微笑みの奥に「もう迷っていないんだな」という確かな理解があった。
兼親は何も求めなかった。真夏が壊れるようになっても、思い出せなくても、ずっと見守ってくれていた。真夏がどこに向かうのかを選ぶまで、ただ待っていてくれた。
自嘲ではなく、実感として呟いた言葉が、静かに胸の奥に染みていく。そして今、ようやく気づいたのだ。自分はもう、ただ守られるだけの存在ではない。あの時とは違う。もう、誰かを守る側に立てる。いや、立ちたいと心から願っている。
風が強く吹いた。木の葉がざわめき、陽射しが揺れる。胸の奥からじんわりと、熱のようなものが立ち上がってくる。それは誰かの背中を追うための熱じゃない。誰かと”並んで”生きるための熱だ。
誰を想って生きるのか。その答えを、もう迷わず選べる。そう思えた瞬間、一歩、真夏の足が自然と前に進んでいた。ずっと傍にいてくれた兼親を思うと強い勇気が湧いてくるようだった。兼親は子供の頃から今日に至るまで変わることなく傍にいてくれたのだ。だから真夏は頑張れる。そして、同時に思う。申し訳なかったと。
そう言った時の兼親の心の痛みはどれほどのものだったか。兼親は今世だけじゃない。きっと平安時代の頃から見守っていてくれたのだろう。真夏は兼親に何もしてあげられない。だから、そんな兼親に素晴らしい日が来ますように。それを心から願った。
岩場を越えたその先にそれはあった。
木々の隙間から漏れる光の中に、祠は静かに佇んでいた。まるでこの森がそっと抱くようにして、ずっとそこに在ったかのように。
真夏は息を呑んで立ち止まった。その場所を夢では何度も見てきたはずだった。それでも実際に目の前に立った今、その祠の放つ空気はどこか異質で、どこまでも深くて、胸の奥に知らぬ感情を呼び起こした。足元の土は少しだけ軟らかく、湿っている。風が音もなく吹き抜けてた。沈香と丁子、龍脳の微かな残り香が鼻先をかすめ、真夏は目を閉じる。
思い出すのは血に濡れた日。矢の痛みと、博嗣の叫び。体が冷たくなっていく中で、抱きしめてくれた温もり。そして最後に交わした視線。その全てが、今なお彼の中で終わっていなかったのだと知る。この祠はその証だった。博嗣が自分の死をきっと何度も、何年も何百年も悼んできたのだ。ひとりきりで。姿を隠し、時を超えて。
思わず呟いた言葉が木立の中に吸い込まれる。彼が千年の時を超えて守り続けた祠。その前に、今、自分が立っている。それが偶然なんかではないことを真夏は深く理解している。
あの日、自分は死んだ。でも、ただ死んだのではない。誰かを守るために。博嗣を守るために命を差し出した。言葉も届かぬほどの衝動で、ためらいも恐れもなく。けれど――
言葉が風に乗って消える。けれど祠は確かにそれを聞いてくれたようだった。
ここへ辿り着いた意味が、今静かに真夏の中で形を成していく。過去の記憶、痛み、後悔。そして長い時間を経てようやく得た”今の自分”という存在。それら全てを携えて、祠の前に立つ自分自身の足元が、しっかりと地に根ざしているように感じられた。
胸の奥に確かに熱が灯っていた。風が一層強く吹き、梢を揺らす。葉の擦れる音が重なって、どこか懐かしい音楽のように響く。その旋律の中に、かつて博嗣が吹いていた笛の音の記憶が紛れ込んでいる気がして、真夏は目を閉じた。そのまましばらく動けなかった。祠の前に立つということは、すなわち過去と向き合うということだった。死の記憶と、再会の痛みと、これから進む道の全てを背負う覚悟がなければ、ここには来られなかった。だが、真夏は、ようやくその準備が整ったと感じていた。
その言葉を心の中で繰り返しながら、真夏はそっと祠の前に進んだ。手はまだ伸ばさない。ただ立ち尽くし、静かに深呼吸をする。白い息が微かに空に滲む。
結界の気配が確かにそこにある。祠の奥、空気が違う。温度も音も、全てがこちら側とは異なっている。けれど、真夏はもう怖くなかった。そこにいるのが、あの人だと知っているからだ。そして自分が選んだ未来が、あの人と共に歩む未来だと知っているからだ。
目を開けた真夏は、まっすぐ祠を見つめた。その視線には、もう迷いはなかった。