窓から差し込む陽射しに意識がゆるゆると浮上する。目を開け、目に入った天井を見た瞬間はそこがどこかはわからなかった。しばらくボーッと天井を見つめて、そこがやっと神宮寺に借りた家だと気づく。
普段天井なんて意識していないので、どこの家の天井だろうと同じだと思っていたが、実際に見ると違って見える。
そしてそこが神宮寺の家だと気づいたことで、昨夜自分の身に起きたことを思い出した。
仕事から帰ったらアパートが火事で全焼し、ネオン街で途方に暮れているところで神宮寺と会い、この家を借りることになたことを思うと不思議な気がした。
神宮寺は友人ではない。知人にすらなるのかどうか。確かに知ってはいる。チンピラに絡まれているところを助けて貰いもした。しかし、知人だ、というのは少し違う気もする。そんな神宮寺に家を借りたのだ。それがこの家だ。しかし、なぜ神宮寺がそこまで良くしてくれるのかがわからなかった。
それにしても、家が火事にあったなんて夢ならいいのに。もし、目覚めたここが自分の部屋ならば夢だった、で済むのだが、あいにくここは自分の部屋ではない。神宮寺の家の寝室だ。つまり、昨日起きたことは現実だった、ということだ。火事なんて起きてなくて神宮寺の家にいる、なんていうことはあり得ないのだから。
神宮寺と言えば、昨夜、指先が触れた時に体に電気が走ったようになり、体は熱を帯び、ヒートを起こす前のような状態になった。けれど、なぜ神宮寺の指先に触れたからと言ってそんな状態になったのだろう。そんなことでヒートを起こしかけていたら大変だ。
不思議だな、と思いながら枕元のスマホを見ると八時だった。いつもなら遅刻だ、と急いで身支度を整え家を飛び出ている頃だが、今日は当座必要なスーツや部屋着などの衣服を購入し、抑制剤を貰いに病院に行かなくてはいけない。和明がいない中休むのは申し訳ないが、今日は無理だ。
スーツなどの衣類は、定時退社でなんとかなるかもしれないが、病院はギリギリすぎる。いつも病院には土曜の午前中に行っているが、今回ばかりはそれでは間に合わない。
まだ今日は水曜日だというのに、手元には抑制剤は二錠しかない。一日一錠。つまり二日分しかない。しかも、外で突発的にヒートを起こしそうになったらアウトだ。つまり、何があっても今日は病院に行き、薬を処方して貰わなくてはいけない。
そう言えば、確か九時には神宮寺が迎えに来ると言っていた。確かにここからネオン街への行き方はよくわからないけれど、それならスマホアプリでなんとか行くのに。家を貸してくれたり、迎えに来ると言ってくれたり親切だな、と思う。
さて、まだまだ時間は早いけれど、コーヒーでも飲みたいからコンビニに行きたい。
のそのそとベッドから起きあがり、服を着る。昨日着ていたスーツだ。昨夜はコンビニで下着だけ買い、スウェットがないので仕方なく下着だけで寝たが、今日はスウェットを買いたい。さすがに裸は寝なれない。
スーツを着てマンションの隣のコンビニで朝食用におにぎりを買い、モーニングコーヒーを買う。普段は朝はバタバタしていて朝食抜きなことが多いので、こんなときでないと朝食は摂れない。
部屋に戻り、神宮寺が来るまでゆっくりとモーニングコーヒーを楽しむ。時間にゆとりがあると心にもゆとりが持てるのだと気づく。
そして、神宮寺が来る前に会社に電話をし、事情を説明すると快く有給を取ることを認めてくれた。特に忙しいわけでもなく、何かトラブルがあっても、現地に和明がいることで対応がしやすいのが救いだった。もっともそうなると和明の負担は増えるが。
神宮寺が来るまでリビングダイニングの窓からの景色を楽しんだ。
十分ほどすると神宮寺が来た。昨日ここへ来たときにいた男も一緒だった。
寝付きは悪かったけれど、寝ついてからはぐっすりと眠れた。昨日起きたことを考えるとよく寝れたな、と思わなくもないけれど今日動かなきゃいけないことを考えたら短時間でもぐっすり眠れたのは良かった。
そう言って玄関を出て、昨日乗った専用エレベーターに乗る。すぐに開くエレベーターはストレスがない。
寝室やリビングダイニングから見ていた通り、今日も快晴でとても気持ちがいい。歩くのはちょうどいいだろう。用事が終わったら散歩をするのもいいかもしれない。
神宮寺が先頭を歩き、直生はその左斜め後ろを歩き、昨日からついている男が右斜め後ろを歩き、神宮寺を守るようにしている。実際、護衛のようなものなのだろう。
直生は道を覚えるために、周囲に目をやりながら歩く。周りのマンションは一様にのっぽで、うっかりしていると違うマンションに入ってしまいそうだ。
周囲に気を配りながら、右、左と角を曲がり、その度に直生は目印となるものを見つけ、歩を進める。そして数分歩くと、見知った道へと出た。
直生がそう言ったのは、マンションを出てから三分程度経った後だった。
昨日、車でマンションへ行ったときはもっと遠く感じたけれど、狭い道もあったから一方通行や通れない道もあったのだろう。
とにかく、普段ネオン街からアパートへ行く途中の道へ出たので、そこからネオン街への道は毎日通っていたので問題がない。アパートと意外と近いようだ。
そして直生と神宮寺はそこで別れ、直生はいつものようにネオン街を通り駅まで向かった。
スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、靴下、休日服、スウェット、下着、靴。必要最低限の衣類を買っただけなのに、荷物は結構すごくなった。さすがにこれを持って病院へ行くわけにはいかないので、一度マンションへ荷物を置きに戻ることにした。
時間がちょうど昼時だったので、ネオン街のカフェでサンドイッチとコーヒーを買い、部屋に戻る。
スーツとワイシャツは皺がつかないようにハンガーにかけ、行儀は悪いがスマホを片手にサンドイッチを食べる。スマホで見るのはウィークリーマンションだ。
確かに、神宮寺はいつまでいても構わない、と言ってくれているが、そんなにいつまでも甘えるわけにはいかないだろう。なので、できればウィークリーマンションを見つけたいところだ。
ざっと見た感じ、当然と言えば当然だが、普通のアパートやマンションよりも数万円高いようだ。家具や家電がついているのだから仕方がないが。
その家賃を見ると、安いビジネスホテルに連泊するのと対して変わらない。一ヶ月ならいいが、それが何ヶ月も続くのは正直痛い。掃除の手間を考えるならば、調理はできないがビジネスホテルに泊まった方がいいのでは?と思ってしまう。
貿易事務は、確かに他の事務職に比べて給料はいい。専門職となるためだ。しかし、かと言って金に糸目をつけずになんでもできるほど給料がいいわけではない。
ゆえに、そんなに高いところに住み続けるというのは遠慮したいところだ。しかし、この場合の難点は賃料もだが、立地に問題があると言えるかもしれない。
ネオン街は当然のことながら商業地であり住宅地ではない。ゆえにマンションといったものが極端に少ないのだ。直生のアパート周辺と神宮寺のマンション周辺くらいしか住宅というものがない。そのため、この近辺にウィークリーマンションはなかった。
色々なサイトで探してみるが、結果は変わらない。つまり、ない、ということだ。立地が悪すぎる。ネオン街に固執するのならウィークリーマンションは諦めなくてはならない。
直生は小さくため息をつくと、ゴミを捨て病院へと向かった。
病院へは午後の診察が始まって間もなかったが、待合室には数名の患者さんが待っていた。
病院でも今後のことを考える。ウィークリーマンションがないのなら、普通のアパートやマンションを探すしかない。スマホでいくつかの住宅情報サイトを見るが、ネオン街周辺のアパートやマンションはない。確かにパイは少ないが。
残念なことに春の入学・入社シーズンを終えたばかりなので、引越し業者は空いているだろうが、肝心の物件がない。タイミングが悪いとしか言えない。
こうなると多少高くても立地を取るか、多少立地は悪くても賃料を取るか。どちらかしかないのだ。そこへ行き当たって直生は今日何回目かのため息をついた。こんなことで住むところなんて見つけられるのだろうか。
どちらも難しくて、そう思うと直生はまたため息をついた。とても見つけられる気がしない。
そんなことを考えているうちに名前を呼ばれた。
質問をするのは、直生の担当医だ。医者ということから考えて、恐らくαなのだろうが、偉ぶったところのない物静かな人物だった。以前の担当医はとても偉ぶっていて、気も強く直生は苦手だった。だから、その担当医が系列の他の病院へ行くということで担当が変わり、今の担当医に変わったときはとてもホッとしたものだ。
温和な笑顔を浮かべていつもの質問をされたときに浮かんだのは神宮寺のことだ。
ヒートもラットも起こしていないのに、お互いの香りが強くすること。そして昨日の指先が触れたときに電気が走ったようになり、体が熱くなり、ヒートを起こす前兆にとても似ていたこと。
香りだけなら、気のせい、他の人も、ということができる。けれど、昨夜のことは気のせいとはとても言えない。そう思うと、医師に神宮寺のことを告げていた。
そう言って担当医は少し考える素振りをする。
医師に話していて、直生はやっぱり偶然なのかもしれない、と思った。
香りがしたのも落ち着くのも。触れたときにビリビリとしてヒートを起こしそうになったことも。なんらかの意味がありそうだけど、実はなんでもなくて単なる偶然が重なっただけなのではないか。そうでないと、今の直生にはキャパがいっぱいいっぱいだ。
しかし、担当医の口から出てきた言葉は真逆の言葉だった。
担当医は慎重に言った。
考えなかったことではない。和明もそう言っていたし、自分でもチラリとそう思ったことがある。しかし、運命の番なんて本当にいるんだろうか。ただの都市伝説ではないのか。
都市伝説だと思っていた運命の番は本当にあることらしい。
医師いわく、通常のヒートやラットとは関係なく、お互いにだけわかる互いのフェロモンが強く香り、本来のヒートとは関係なく触れ合うとΩはヒートを起こし、αはラットを起こすらしい。
つまり、ヒートを自由に起こすことができるという。それが運命の番の出生率を上げているのだろう。そうして起きたヒートは一時的なもので、そのまま本来のヒートに入ることはないという。
話を聞くと、確かに今回の神宮寺とのことは運命の番として考えるとしっくりくる。
他の誰も気づかないけれど、相手のフェロモンの香りが遠くにいてもわかるほどに強く香ってくる。そして、その香りは気持ちを落ち着かせる。触れ合って起きるヒート(実際は起こす手前だが)。
それら全てが、運命の番だというのなら納得はいく。つまり、都市伝説だと思っていた運命の番というのは実在し、そしてそれが自分に起こった。
担当医はそう言って少し笑う。そのことに直生は少し安心した。現実味がないのは自分だけではないのだ。どうも自分の身に起きていることだとは思えないが、医者に言われてしまえば認めるしかなくて。キャパいっぱいだ。そこで気づいた。
神宮寺と運命の番だとしてどうなるのか気になったのだ。普通のサラリーマンの自分とその筋の神宮寺。あまりに違いすぎて運命の番だと言われても番契約を結ぶことがピンとこなくて。
いや、昨日のようにうっかり触れてしまって、そのままヒートを起こしてそのまま項を噛まれた、というのなら番になることもあるのだろうけれど。それ以外で番契約を結ぶことがイメージできなかった。ただそれだけだ。
お辞儀をして診察室を出る。
医者から出た言葉は、やはり運命の番で。しかし、その運命とやらを無視したらどうなるのだろうか。いや、無視しなくたって、どうやっても一ミリも動かない関係だろう、と直生は思った。
とりあえず、良くも悪くも運命の番だとわかった。としたら後は住むところだ。
直生は頭を振って意識を切り替えた。