今日はいつもより帰りが遅くなってしまった。もはや俺の定時となっている21時に帰ることはできず、22時になってやっと会社を出ることができた。今日が金曜日で良かったと思う。これが週半ばなら、疲れがとれずキツイ。
電車を降りてマンションまでの道を歩いていると小さくお腹の虫が鳴る。今日は19時にカップ麺を食べたけれど、きちんとした食事をしたとは言えないからかお腹が空いてしまった。家に帰れば作り置きのおかずがあるので、家に帰ったらそれを食べよう。
そう思って、マンション近くの公園を通り過ぎようとしたとき、人影を見つけた。人影は大人だ。こんな時間に珍しいなと思う。しかも誰かと一緒ではなく1人だ。
そう思って人影を見ていると、それは律くんによく似ていた。こんな時間に公園にいるということは、また暴力を振るわれたのかもしれない。そう思って声をかける。
やっぱり人影は律くんだった。
思った通り蹴られでもしたのだろう。そう思って訊くが律くんは違うと言う。なんだろう?
そう言われてよく見ると膝に小さなスポーツバッグを持っている。
そう言って律くんと並んで歩く。一体、どれくらいあそこに座っていたんだろう。
時間を気にしてはいなかったようで、ポケットからスマホを出すとびっくりしていた。
急に出ていけと言われたからか、律くんは消え入りそうだ。
もし俺が通りかからなければ、律くんはずっとあそこにいるつもりだったんだろうか。
そう言って律くんは踵を返して、駅の方へと行こうとする。俺は慌ててその腕を掴んだ。怪我してないとも限らないから優しくだけど。
辛い? いつも暴力を振るっている方が? 辛いのは暴力を振るわれていたほうだろ、と思う。律くんの話しぶりからすると律くんは優しい性格のようだ。暴力振っている方のことをそんなふうに考えるなんて。
暴力振るうのに、いつもと違うもなにもないだろうと思うけれど、そう言う訳にもいかず適当に答えた。それとも、いつもより暴力が酷かったのだろうか。それは後で湿布を貼るときにわかる。とにかく今は早く家に帰って、律くんの体を温めてあげてそれから湿布を貼ってあげよう。
彼の様子がどうこう言う話しは後だ。
律くんがお風呂に入ってる間に俺は着替えて、作り置きのおかずをレンジで温めて食べた。
そして、お風呂からあがってくる律くんのためにお茶を淹れた。長い間公園にいたみたいだし、あの様子では何も飲んでいないだろうし、お風呂あがりは水分補給が必要だからだ。
でも、賢人とかいう男の様子がいつもと違うとはどういうことなんだろう。
どうせなら律くんの方から離れた方が律くんのためになるけれど、きっと律くんは離れないだろう。
こんなにしょっちゅう暴力を振るわれていて、誰も気づいていないのだろうか。友人とか知っている人はいないのだろうか。仮にいたとしたら、別れろと言わないのだろうか。
いや、あれだけの痣だ。気づかない人はいないだろう。そして、気づいていたら別れろと言われるだろう。
それでも別れないというのは、それだけ彼のことが好きなのだろうか。
正直、こんなにも暴力を振るわれて、挙げ句、出ていけとまで言われて一緒にいるのは律くんにとって良くないだけでなく、彼にとっても良くないのでは? と思ってしまう。
それというのも律くんが以前、初めから暴力を振るわれていたわけじゃない、と言っていたからだ。
となるとストレスか何かで暴力を振るってしまっていることが考えられる。だとしたら、今日様子がおかしいというのもわかる。暴力を振るってしまう自分が嫌になってしまっていることも考えられる。だとしたら離れてあげることも優しさではないだろうか。
もっとも律くんには難しいことのようだけれど。
離れないのだから好き、なんだろうな。
だとしたら俺の好意は失恋になる。認めよう。俺が律くんに対して持っている感情は、はっきり言ってしまえば恋心だ。
きっとそれは、初めて律くんに湿布を貼るためにうちに招いたときからだろう。そのときに好意を抱いたのははっきりと覚えてる。だから、それが恋だったんだ。認めたくなかっただけで。
俺がそんなことを考えているうちに律くんはお風呂から上がってきた。
そうやって小さく笑う律くんは可愛かった。律くんみたいないい子に好かれているなんて、あの彼が羨ましすぎる。
この間ショッピングモールで会ったとき俺は彼のことを「友達」と言ったけれど、ほんとに友達だなんて思ってはいない。間違いなくあの彼は律くんの恋人だろう。
言うつもりはなかったのに、気がついたら言葉が出てしまっていた。
律くんに目をやると、目を見開いてこちらを見ていた。
自分で自分の傷を抉るような質問をしてしまう。
優しいか。そしたら、今日様子がいつもと違ったというのは、彼が自分に嫌気がさしたのかもしれない、という予想はあながち間違いではないようだ。
本当に酷いことを言っているという自覚はある。でも、このままでは2人ともダメになるだけな気がする。決して自分の恋を成就させたいわけではない。いや、ほんの少しはそういう気持ちもある。でも、客観的に見てそう思うのだ。
律くんは彼のことを好きかわからない、と言っていたけれど、恐らく少しは好きという感情が残っていると思う。
だから彼のそばから離れられないのだろう。律くんからそのような感情を持って貰っている彼がほんとに羨ましい。
でも、俺の片思いなのはわかっているから、せめて律くんが困ったときは助けてあげたいと思う。それが俺にできる唯一のことだ。
翌日朝。いつもなら早朝に彼からの「帰ってこい」というメッセージで律くんは帰って行くが、今日は出ていけと言われたのもあり、朝10時を過ぎても彼からのメッセージはなかった。このまま連絡はないのかもしれない。
でも律くんは、メッセージを今か今かと待っているが携帯は沈黙したままだ。
いつもは1人で食べる週末の朝食を元彼と別れてから初めて人と食べている。最も律くんは恋人じゃないけれど。それでも好きな人と食べられるのは幸せだ。幸せを感じているのは俺だけで律くんはそれどころじゃないけれど。
時間が経つにつれて律くんの表情は暗くなっていく。彼からの「帰ってこい」というメッセージをどれだけ待っているのかがよくわかる。
律くんは、好きなのかわからないと言っていたけれど、少しはその気持ちが残っているのだということがその表情から読み取れる。
そんな気持ちのまま昼になり、ありあわせのものでパスタを作り食べた。正直、食欲はないだろう。でも、俺が作っているから申し訳ないと思い食べているのかもしれない。
一言そう言うと、弾かれたように顔をあげた。
そうは言うけれど、今はパスタの味なんかよくわからないだろう。
そう言うと律くんは眉を下げて小さく笑った。
辛いのに普通に話そうとする律くんがあまりにも切なくて、俺はつい抱きしめてしまった。
泣いている気配はないけれど、腕の中から出ていこうとしないということは、悲しんでいる顔は俺に見せたくはないんだろう。そう思い、しばらくそうして抱きしめていた。
少しそうしていると、律くんから「ありがとうございます」と聞こえてきた。
腕を解いて律くんを見ると、少し目元が赤くなっていた。泣いているとは思わなかったけれど、少しは泣いたのかもしれない。
まだ辛そうな顔をしているけれど、少し泣いたみたいだからそれでちょっとは冷静に考えられるようになったのかもしれない。それも強がりかもしれないけれど。
気がついたらそんな言葉が出ていた。自分の言葉に自分でびっくりする。
俺がゲイだと言ったのは律くんは信じていなくて、それどころか彼女がいると信じている。
可愛い女性と言われ頭をひねる。
女性といることなんて仕事のときくらいしかない。それが駅で一緒に、というのがわけがわからない。
ん? 駅で?
小柄で髪が長い女性と言えば、1人心当たりがある。
俺がそう言うと、律くんはしばらく考えているようだったが、しばらくすると「お願いします」と頭を下げた。
好きなものを食べて、少しでも元気を出して欲しいと思ったから、そう声をかけた。
でも、律くんは躊躇うような表情をした。
そう言って俺は財布を持って家を出た。それが後で後悔することになるとは思わずに。