EHEU ANELA

海の青と空の青

紫陽花の季節に

薬井さんという男は意外といい距離感で付き合える。そう思ったのは薔薇園へ行ったあと、再度忙しくなったときだった。

薔薇園へ行ってから1ヶ月ほどは脚本と長編の執筆と慌ただしい日々を送っていた。ドラマの脚本なんて受けなければ良かったとそのときになって後悔したが、その分ドラマを楽しみにすればいいのだと自分に言い聞かせながら仕事をした。その間、作家らしくというのか、引き籠もりのように家に籠もりっきりになった。そして食事すら義務的で食材を買いに行っても元々レパートリーが少ない上に作る気にもなれずに適当に腹を満たして日々のエネルギーを摂取していた。仕事が落ち着いたらなにか美味しいものを食べに行こう。そのときは薬井さんを誘ってみてもいい。そう思っていた。

俺が家に籠もっている間、薬井さんから送られてきた薔薇の写真と描いて貰った青い薔薇の絵を何回も見た。やっぱり薬井さんの青は俺の心を掴んで離さない。

今度どこかへ行ったら薬井さんの目に見えている世界の色を描いて欲しいとお願いし、了承して貰ったので、一緒にどこかへ出かけるのが楽しみだ。

そして引き籠もっている間も薬井さんとはメッセージの交換は続けているが、忙しさに忙殺され返信は遅れてばかりいたけれど。それでも外界の人間と文字とはいえ話しをすることが唯一の楽しみとなっていたのは事実だ。

そして返事すらままならない俺になにを言うでもなく「できるときだけでいいですよ」とまで言ってくれたのだ。これは付き合いの長い友人ならまだしも、知り合ったばかりの人間には間違いなく距離を置かれるものだ。だからちょうどいい距離感で薬井さんと繋がっていられたのは一重に薬井さんのおかげと言える。そしてそうなると俺の警戒心は一気に低くなる。我ながら単純な男だ。

そんな単純で、一息ついたあとの食事を楽しみにしている俺に、せめて買いに行けるコンビニスイーツを、どこの何がおすすめと教えてくれた。そしてどれもがほんとに美味しくて、意外と食の好みは似ているのかもしれないと思ったものだ。他にも美味しいステーキハウスを見つけたから一段落ついたらぜひ行こう、というように俺に小さな楽しみも与えてくれた。

そして頑張り続けて、まだ終わってもいないけれど外には行けるようになった。最近は食材すらネットスーパーに頼っていたからほんとに久しで、気分はまるでヤクザの出所だ。何しろ引き籠もり生活を1ヶ月続けていて、その間は食事すら楽しみにならない生活を送っていたのだ。そしてやっと外食ぐらいできる程度の余裕が出来て、薬井さんと食事に行く約束をした。それが今日だ。

場所は先日薬井さんが美味しいと言っていたステーキハウスだ。週末は混むからと平日の夜に待ち合わせをした。そして、腹を空かせた俺たちはまっすぐにステーキハウスへと向かった。

落ち着いた店構えと雰囲気は久々で少し緊張する。

こんな雰囲気の良い店では混みあうのではないかと思っていたけれど、逆に若い層はあまり来ないのかすんなりと席に案内され、腹の空いた俺にはありがたかった。

席に通されメニューを見るけれど、初めて来た俺になにが美味しいのかわからず薬井さんおすすめのコースにすることにした。コース料理は飲み物とデザートが選べたので、コーヒーとチーズケーキをチョイスした。


「やっとまともな食事ができる」

そうボソっと呟いた一言を薬井さんは聞き逃さなかった。


「そんなに酷い食事してたんですか?」
「ん〜。カップラーメンとかカップうどんですね。マシなときはコンビニ弁当」
「マシなときがコンビニ弁当ってほんとに酷い食事ですね」

と呆れた顔をされた。まぁそんな食事で1ヶ月生活してたんだから自分でもさすがに呆れるし、よくそれで体を壊さなかった自分には感心する。


「今度から食事作れそうになくなったら言ってください。簡単なものになるけどある程度は作れるから作りに行きますから」
「じゃあお願いするよ。もうほんと普通の食事がしたかったですよ」
「ほんとよく生きてましたね。最後に会ってから1ヶ月か。会えて良かったです」
「なんで? 会わないとでも思った?」
「ん〜」

と薬井さんは一瞬言い淀む。


「薔薇園に行ったときはまだ堅い気がしたので。でも人見知りというのは知ってたから、だからこそしんどいかなとか思ったり。でも、メッセージが途中からは力が抜けたような感じがしたから大丈夫かな、と少しは安心したりしたんですけど」

薬井さんは気にしていないと思っていたけれど、薬井さんは薬井さんなりに気にしていたようだ。そう思うと少し申し訳なくもある。

薔薇園に一緒に行ったときはほんとに距離感がめちゃくちゃあったと思う。


「すいません、人見知り激しくて。大体、あの段階でダメになるんです」
「そうか。じゃあ気長に待ってて良かったんですね。こうやって肩の力を抜いて話せる日が来るのかちょっと不安だったけど、待ってたご褒美ですね」

そう言って薬井はふわっと花が咲くような笑顔を見せた。ほどよい距離感で付き合えると思ってたけど、薬井さんの忍耐強さのおかげなんだなと思う。

 
「薬井さんの方はまだイラストの仕事ですか? それとももう個展の準備ですか?」
「イラストの仕事しながら個展の準備です。まぁ、もう個展の準備の方は終わりかな。もうすぐ始まるから」
「そうか。場所とかあとで教えてくださいね。見に行くので」
「え? 来てくれるんですか? 先生が来てくれるから頑張らなきゃですね」
「いや、そこは俺が行かなくても頑張らないとでしょう」
「もちろん頑張りますけど。でも、先生が来てくれるならもっと頑張るというか。特別です」
「なにが特別なのかわからないけど頑張って下さい」
「はい。ありがとうございます」

今日の薬井さんは薔薇園で会ったときよりも笑顔を見せる。その表情を見ていると「嬉しい」という気持ちが伝わってくる。俺に会うことが、そして個展に行くと言ったことがそんなに嬉しいものなのかよくわからないけれど、ファンと言ってくれていたからそれでだろう。

その後は前菜のスープ、サラダが来て近況――もっとも俺は仕事しかなかったので聞く専門だったけれど――たまにいくダイビングのことなどを聞きながら食事をした。

薬井さんはほんとに海とダイビングが好きなようで、仕事が落ち着けば沖縄や海外へ行ってダイビングをするらしい。そしてたまに千屋とも一緒に行くという。


「海が好きだからあんな青が出せるんですかね?」
「え?」
「画集も青い薔薇の絵も青がすごく強烈的だなと思って」
「強烈?」
「作家が言う言葉じゃないけど、どう形容したらいいのかわからないほどの衝撃的な青でした。衝撃的といっても不快感はなくて。あんな青を俺は見たことがありません」
「んー。描いた本人にはよくわからないけれど、青は好きですね。海の中の深い青。そして突き抜けるような青い空が好きですね」
「薬井さんの目にはこの世はどんな色に見えているんだろうって思いました。俺が見てる世界とは違うんじゃないかって思ったりして」
「どうなんでしょう。同じだと思うんですけどね。でも、作家と画家で表現方法が先生と違うだけだと思うんですけど。俺は絵で先生は文章で」
「また同じ景色を見に行きたいですね。そして、そこで薬井さんに見えたとおりの絵を描いて貰ったらわかるかな、と」
「行きましょう。約束ですよ」

そう言って薬井さんは、今日会って一番の笑顔を見せた。


そんなステーキハウスでの食事から2週間後、俺は都内にある画廊に来ていた。

数日前からここで薬井さんが個展を開いているからだ。そして俺は資料本を買いに来たついでに画廊に立ち寄った。

絵画の個展なんて初めて来たが、年配の金持ちばかりかと思っていたら意外と若い女性などもいたりした。きっと絵を購入する人だけでなく、薬井さんの絵が好きな人、ぶらりと目について立ち寄った人と様々な人がいるのだろう。

飾られている絵は一面のラベンダー畑だったり、真っ青な空といった色どり豊かな明るい絵があったかと思えば寂しい海辺や廃工場だったりと、あの画集で見た絵のように様々な絵が並んでいる。

画家はある一定の決まった絵を描く人が多い印象だけど、薬井さんの場合は自由な気がした。そして、それが画家・薬井直人なのだろうと思った。

そんなことを考えながら絵を見ていると肩を叩かれた。


「都谷先生」

振り向くと薬井さんがいた。


「来てくれたんですね。嬉しいです」
「ちょうど資料本買いに来たのでそのついでに。平日なのに結構人がいるものなんですね。すごい。絵もどれもいい。お金があれば買いたいところだけど生憎そうもいかなくて申し訳ないんですが。それよりこんなところで話しをしてていいんですか?」
「関係ないですよ。売るのは画廊さんの仕事だから。俺は飾りです。それより先生に時間があるなら少しお茶でも行きませんか?」
「俺は大丈夫ですけど、お飾りと言ってもここ離れて大丈夫なんですか?」
「ちょっと待っててください」

そう言うと薬井さんは画廊の奥へと一度消えたが、笑顔で出てきた。


「30分くらいですけど休憩貰って来ました。少し先に雰囲気のいいコーヒー専門店があるんです。そこに行きましょう」

薬井さんがそう言ったお店は一本路地を入ったところにある静かなコーヒー専門店だった。

専門店だというだけあって、賑やかというよりは皆静かに思い思いのことをしながら静かにコーヒーを楽しんでいるようだった。

薬井さんが教えてくれるものはハズレがないなと思う。都心でこんなに静かにコーヒーを楽しめる場所があるなんて思わなかった。


「ここ専門店だけあって水出しコーヒーもダッチコーヒーもあるんですよ」

水出しコーヒーはその言葉の通り水で淹れたコーヒーで、ダッチコーヒーは氷で落としたコーヒーだ。氷の溶けた水で落とすために時間がかかる。普通のカフェではどちらも扱っていない。


「ダッチコーヒー……と言いたいところですけど、時間の関係もあるので水出しコーヒーにしておきます。先生はお好きなの頼んで下さい」
「俺も水出しコーヒーで」

自分で決められない女子みたいだが、大体薬井さんのおすすめがはずれることはないし、その薬井さんが頼むのだから美味しいんだろうという読みだ。

それに薬井さんの言うとおりダッチコーヒーは時間がかかるので、時間に制限のある今は水出しコーヒーがいいだろうと思ったのだ。

もし今度来る機会があれば、そのときはダッチコーヒーを頼もう。


「個展はいつまでなんですか?」

水出しコーヒーを注文し、コーヒーを待つ間に何気なく訊いてみる。


「残り5日です。個展が終わったら少し休憩するつもりです」
「どこか行くんですか?」
「遠出はしないけど、カメラ持って紫陽花でも見に行こうと思って。もうすぐ終わるじゃないですか」

そうか。この間薔薇を見たと思ったのに、もう紫陽花も終わるのか。


「先生は忙しいですか」
「今と変わりません。脚本と長編の原稿です」
「ちょっと紫陽花を見に行く時間は取れませんか?」
「原稿があるので、頑張って数時間ですね。原稿を持っていくことになるかもしれませんが」
「なら近場で紫陽花を見に行きませんか?」

近場ならいいかと思い承諾する。


「やった! 先生とデートできますね」

そう言って薬井さんはクシャッと笑った。目尻に笑い皺があるのを見る限り、笑うことの多い毎日を送っているのだろう。そして、そんな薬井さんの笑顔に惹きつけられる。

いや、そんな笑い皺などどうでもいい。デートという単語がこんなときに出てくるのがおかしい。

確かに薬井さんはいい人だと思う。でも、それとは別に日本語がおかしいと思うことがたまにある。

以前の俺の写真が欲しいというのも、俺を綺麗だというのもそうだ。


「男同士でデートはないと思いますよ」
「なんでですか? 好きな人と日時を決めて出かけるんです。デートじゃないですか」

好きな人……。

どうも薬井さんは友人として、ということまで「好き」という一言にくくってしまうようだ。普通その言葉は恋愛感情を伴った相手との場合に使うのだけど。


「では、個展が終わったら連絡しますね」

その後はコーヒーを楽しんで別れた。



**********


スマホのディスプレイを眺めながらメッセージが来るのを待つ。いくら眺めたって来るときは来るし、来ないときは来ない。そんな当たり前のことはわかっているのに神経はスマホに向いたままだ。理由なんて簡単だ。それは好きな人からのだから。

会ったのはたったの5回。しかも、そのうちの1回はカウントしていいのかさえわからない。サイン会だったから都谷先生は俺のことなんて記憶にない。ただの一ファンにすぎない。

きちんとお互いを認識して会ったのはたったの4回。千屋さんの勤める出版社の50周年記念パーティー以降だ。

パーティーで千屋さんに紹介して貰ったとき、雷が落ちたようにビリビリと来た。俗に言う一目惚れ。ロマンティックに言うなら運命の出会い。でも運命の出会いなんてベタなロマンス物みたいで抵抗があった。それでも薔薇園に行ったときには認めるしかなかった。どうやっても「好き」という感情しかわかなかったのだ。だから好きだと言った。想いはそのままに。でも好きだという音は軽くして。

先生にしてみたら男からそう言われるのは友情として、ファンとしてしか受け止められないだろうとわかっていた。だからわざと誇張して言ったりもした。

幸いにも嫌悪感はないようで「なにを言ってるんだ?」という顔をするだけだったので、それが俺をつけあがらせた。

薔薇園に行った後は先生が忙しいということで会うことは出来なかった。ただメッセージが来るのを待つのみだった。

まるで初恋のようにドキドキとして、なにも手につかなくなって。いい歳をした自分がそうなることに呆れたりはするけれどこんなにも恋い焦がれるのは初めてだ。まるで今までしてきた恋愛が全ておままごとのように感じてしまうほどに。


また会えるかな?

会ってくれるかな?


俺はポジティブと言われるけれど、このときばかりはポジティブではいられなかった。たった3回あっただけの画家のことなんて仕事に忙殺されていたら忘れられても不思議じゃない。それが怖かったのだ。しかも相手は超がつくような人見知りだ。それが俺を余計に心配にさせた。それでも信じて待った。

結果、そんな心配は無用だったようでメッセージのやり取りをしている中、言葉の中に気安さを感じた。それがどれだけ嬉しかったか、そしてそれがどれほど俺を自惚れさせたか。それは先生の預かり知らぬことだけど。

自惚れた俺は少しずつ距離を近いものに持っていきながら、かつ好意を嫌がられない程度にアピールしていった。

そして先生の忙しさが一段落ついて会ったときは、辛抱強く待っていて正解だったと思った。俺はただ諦められなかっただけだけれど。

ただ好きなだけなら心折れていたかもしれない。でも、そんなに簡単に折れてしまうような想いではなかったから粘り強く待っていられたのだ。

そしてその粘り強さが正解だと知ったとき俺は、以前よりも少し想いを乗せてアピールしていった。


――薔薇園
――ステーキハウス
――カフェ

そして紫陽花デートへと続けて誘った。それも短期間に。最も紫陽花デートはカフェで約束を取り付けてから実際に行けるようになるには少し時間がかかった。それは雨のせい。

いや、雨の中のデートも悪くはない。けれど、ある一点が俺の足を止めた。


それは傘。


カップルならば相合い傘ができる(相手が許してくれればだけど)。でも、今の俺たちは俺の一方的な片想いだ。相合い傘なんて提案さえできない。となると、傘で先生の顔が見られなくなる。せっかくのデートなのに顔が見られないなんて嬉しくもないし楽しくもない。だから晴れ間を待った。

子供のようにてるてる坊主を作ってベランダに吊るして、信じてもいない神様に晴れ間を願った。そして週間予報で晴れのマークを見つけたときは速攻で先生に連絡して約束を取り付けた。

約束をしたその日。俺が神様に半ば呪いにも近いことを言ったからか、雨が止むだけで泣くほんとに久々の快晴だった。


「突き抜けるような青空ですね」

そう言って目をキラキラとさせる先生は、今にも走り出しそうな子供のようでいつもの綺麗さから一転、とても可愛かった。

今日はきちんと持って来た一眼レフで、先生の後ろ姿にシャッターを切る。

こんな先生の絵を描いてみたい。

先生と花というのは相性がいいらしい。それはきっと先生が綺麗な顔立ちをしているからだと思う。

そんなことをボーッと考えていると、先生が俺の顔を覗き込んでいた。


「ボーッとしてどうしたんですか?」
「え……あ、いや、綺麗だなと見蕩れてました」
「は? 俺、男ですよ? 男の俺が綺麗とかないでしょう」

先生は自分が綺麗だとは認識していない。それどころか自分の容姿がいいことさえも気づいていないだろう。


「それより、薬井さんには今どんな色が見えてますか?」

そういえば以前、見えている世界を絵にして欲しいと言われていたなと思い出す。


「あぁ。でも今日、色鉛筆もなにも持って来てないですね」

俺がそう言うと先生はいたずらっ子のような笑みを浮かべてカバンの中から12色入りの色鉛筆とノートを取り出した。今日はカバンが大きめだなと思ったのはそれが入っていたかららしい。


「忘れているかと思って持って来ました」

なんてドヤ顔でいう先生はほんとに子供のように可愛くて、景色なんかよりも俺に見えている先生を描きたいと思ってしまう。もっともそんなことを言ったって描かせてはくれないだろうけれど。


「ゆっくりと描く時間はないから、きちんとは描けませんよ?」
「ええ。どんな色の世界が見えているのかがわかればいいだけですから、それはかまいかせん」
「ほんとに適当ですからね」

そして近くにあった岩のような石に座ってサラサラと描き始める。


「近くを見てきますね」

きっと、じっとしていられないのだろう。子供のように、今にも走り出すんじゃないのかと思うほどに足取りも軽やかにどこかへと行った。今日の先生は目をキラキラとさせて、幼さを感じさせて可愛い。

空の青の下、咲き誇る紫陽花と先生の後ろ姿。紫陽花まではいいけれど、先生を入れたらなにか言われそうだけど入れさせて欲しい。

サラっとデッサン程度に留め、しっかりと描くことはやめて、色を乗せることに集中する。

先生が見たいのは、しっかりとした絵ではなく俺の目にどんな色が見えているのかということだから色に集中してもいいはずだ。

空の色。紫陽花の色。そして後ろ姿の先生。

12色の色鉛筆では色がさすがに足りないけれど、色と色を重ねることで俺に見えている世界の色にかなり近いところまでは持っていった。

どれくらい時間がたったのだろう。ふと顔をあげるが、先生の姿は見えない。まだ戻っていないようだ。遠くまでいったのだろうか。ここは少し入りくんだところだから、道に迷っていなければいいのだけれど。

そう心配しながらも、もし俺が動いてしまって先生が俺を探しにまたどこかへ行ってしまったらすれ違いになってしまうので俺はここで待つことにした。

先生のことを待ちながら、頭の中は先生のことで一杯だ。もっともそれは今だけじゃないけれど。パーティーで千屋さんに紹介して貰ってから俺の頭の中は先生のことばかり。

最初は男同士というのもあり、男同士で運命もないだろうと思った。それは今まで恋愛してきたのは女性ばかりだったからだけど、最後には男同士だって同じ人間だから惹かれたっておかしなことではない気がしたし、気持ちに気づかなかったことにできそうもなかったから認めるしかなかったのだ。認めてからは何を見ても「先生なら……」と思ってしまう。

正直、苦しい部分はある。というか先生を1人になんてしたくない。日本人離れした色の白さは女性顔負けで、白人の血が入っていると言われても信じてしまいそうなほど白くて、その白い肌を際立たせるようにチェリーのように赤くぽってりとした唇。とにかく美しいという言葉がぴったりだ。

本人も認めている通り人見知りは激しいけれど、見ていると一度懐に入れた人間には甘いみたいだし、そんな人間の言うことは全てを信じてしまいそうだけど。でも、きっとそんなときは千屋さんをはじめとする先生の友だちが阻止してくれるだろうけれど、その役割は俺がしたい。

そんなことを考えていたら結構時間が経っていたみたいで、いつの間にか先生が戻ってきていた。


「薬井さん?」
「あ、戻ってたんですね」
「どうかしましたか? 難しい顔をしてましたよ?」
「いや、なんでもないです」
「そうですか? ならいいけど……」

少し心配そうに俺の顔を覗き込む顔がまた可愛くて。

俺が気持ちを打ち明けたらどう思いますか?

どんな顔をする?

好きです。

 

そう言えたらどれだけ楽だろうか。もう伝えてしまいたい。

千屋さんに紹介して貰ってから、それほど長い時間が経っている訳ではない。それなのに、そうは思えないほど俺の心は先生で一杯だ。

人を好きになるのに時間は関係ないんだなと思う。それは、運命と思える出会いをしたからかなのかはわからないけれど。


「先生、これ」

このままだと先生を放ったらかしにして思考の渦に飲まれてしまいそうで、先ほど描いた絵を渡す。


「これが薬井さんの見ている世界、ですか」
「100%ではないけれど、それに近い色にはなってますよ」

俺が見ている景色をそのままなんて伝えられない。それは色鉛筆が12色だからというだけでなくて。

色を重ねに重ねて、できるだけ見えている世界に色を近づけた。俺が見ている景色は先生が見ている景色と全然違うようでいて同じだと思う。

違うのは俺の見る景色の中には先生がいるから。


「俺が見てる景色の色と変わらないんですね」
「変わらないでしょう?」
「薬井さんの絵がこの色と違うのは、その違いが薬井さんが伝えたいことなんでしょうね」
「多分、俺の思っている色です。それがリアルの世界と違うとしたら、それは伝えたい色を重ねてるっていうことだと思います。意識したことがないのでわかりませんけど」

俺が描く絵には、見えている世界の色だけではない。訴えたい思いをそこに乗せている。



想いを伝える……



ふと、今自分が抱えている想いは、どんな絵にしてどんな色を使えば先生に伝わるんだろうか。

心の中にある色はどこか曖昧な色をしているから、土台となる色がはっきりしないと上にどんな色を重ねたらいいのかわからない。でも、伝えるのなら……。

先ほどの色鉛筆を取り出して、絵の裏側に曖昧な色をできるだけ想いに近い色を探って描く。そしてその上に薄紅色の濃淡を乗せる。

これが今の俺の心の色。

先生は、何事だろうとこの色と俺の顔を何度も視線を動かして不思議そうな顔をする。それはそうだろう。だってこれは絵なんかじゃない。ただ色を乗せただけだ。

 
 
「薬井さん?」
 
 

これはね、



「好きです……」


という一言だけ……。


 

それは紫陽花の終わりの季節だった。