EHEU ANELA

海の青と空の青

薔薇が咲く日

桜を見に行った後はわかりやすく忙しい。

ドラマの脚本と短編の原稿。原稿だけでも大変なのに脚本も、なんて自分で自分の首を絞めただけなのはわかっている。

それでも、短編の原稿は後少しで終わる。終わると言ってもその後に長編の原稿があるけれど。

八重桜の写真を薬井さんに現像して貰った。忙しくて郵送でお願いしたけれど、薬井さんとはメッセージのやり取りをしていた。

IDを交換したものの、人見知りで打ち解けるのに時間のかかる俺からはメッセージを送るというのは非常にハードルが高いけれど、人見知りをしないであろう薬井さんにはそういったハードルはないらしく、俺がなかなか返信できなくてもポッとメッセージが入る。

それは文字だけのときもあれば、写真が送られてくることもあった。

出かけるときはカメラを持ち歩くという薬井さんは色々なものを撮るのが好きなようだ。

最近は、その写真の中に薔薇の花があった。そういえばそろそろ薔薇が見頃になる時期だ。短編の原稿もそろそろ終わるし、散歩と気分転換を兼ねて薔薇を見に行くのもいいかもしれない。

とは思ったものの、この辺で薔薇を見れるところなんて知らない俺は、つい薬井さんに訊いてしまった。


【この辺で薔薇が綺麗なところってどこですか?】

そう送るとすぐに返信が来た。スマホでもいじっていたのだろうか。


【この辺だと2ヶ所あってどちらももうすぐ見頃を迎えます。もしかして見に行きますか? それなら一緒に行きませんか?】

なんとなくそうだろうな、と思う返信が返ってくる。ゆっくり1人で見たい気がしなくもないけれど、薬井さんに対してまだ打ち解けきれてはいないものの嫌いなわけじゃない。

絵だけで言えば間違いなく惹かれているし、なんとなく会ってみてもいいかなと思う相手だ。そんな相手に誘われて1人で行きますと断る理由もなく、つい同伴することを許す。


【いいですよ】
【良かった。ちょうど写真撮りたかったんです。薔薇と一緒に都谷さんの写真も撮りたい】
【モデルはお断りしますが、写真撮るのに俺が写ったら邪魔じゃないですか?】
【邪魔だなんてとんでもない。都谷さんの写真も欲しかったし】

俺の写真を欲しかったって? なんで? 俺の顔なら知ってるわけだし、写真というなら出版社によっては本のカバーに写してあるのもある。だからわざわざ新たに俺の写真を撮る必要なんてないと思うんだけど。なのでそれを言ってみる。


【俺の写真なら出版社によって本のカバーに写してあるのもあるから必要ありますか?】
【新しい俺だけが知る先生の写真が欲しかったんです。ところでいつ行きますか? 来週が見頃だと思います。俺は今は自由に動けるから先生の都合にあわせますよ】

来週ならちょうど短編も書き上がっているだろうし、長編のための資料の読書をしているだろう時期だからそんなに長時間でなければ自由に動ける。

スマホで来週の天気予報を見ると月曜日は晴れるみたいだけど、その後は雨が降るらしい。そうしたら月曜日にでも行こうか。


【じゃあ月曜日はどうですか? 俺も時間取れるので】
【了解です。迎えに行きますね】

そうして薬井さんと薔薇園に行くのが決まった。それは緊張感は伴うけれど、どこか楽しみにしている自分がいた。


約束をした月曜日の午後。薬井さんが来るのをコーヒーを飲みながら待っていた。こうやって約束の日を待って、その相手が来るのを待つのなんて何年ぶりだろうか。

千屋とは時間を約束して会ってはいるけれど、千屋の場合は仕事だから違う。

こうやって日時を決めて人と会うのが久しぶりだというのは人見知りなこともあるけれど、仕事が不規則に忙しいので人付き合いというのは後回しにしているからだ。

そうやって薬井さんを待っていると少しドキドキしたりして、まるで恋人を待っているみたいだ。男相手におかしいだろ、と自分に突っ込みを入れる。

そうしていると着いたと連絡が入り、急いで下に降りる。


「お待たせしました」

前回と同じように車で迎えにきてくれた。

少し恥ずかしそうに笑うその表情が、まるで付き合いたての恋人同士みたいだなと思う。なんだか薬井さんのその笑顔に少しの甘やかさを感じるのだ。その笑顔を見るとなんだか恥ずかしくなってしまう。


「2ヶ所あるけど、どっちに行きますか?」
「どっちがいいのかわからないので、お任せしてもいいですか? できたら散歩できるといいですけど」
「そしたら、珍しい薔薇が見られる方がいいかな。なかなか見られない青い薔薇があるので」
「そうですか。じゃあそっちで」
「はい」

そう言って車を出す。どの方向へと行くのだろうと思っていると、薬井さんが住んでいる市の方へ通じる道へと向かっている。

散歩ができれば、と言ったのは普段あまり歩くことがないし、今日だって久しぶりの外出だからこういうときくらいは歩きたいと思ったのだ。

しかし、車の中は静寂に包まれている。考えてみたら、メッセージのやり取りはしているものの相手はまだ3度目なのだと気づくと今さらながらに緊張感が押し寄せてくる。


「なんだかデートみたいで緊張しますね」

俺の緊張感なんてどこ吹く風で、どこか浮かれたような言葉が聞こえてくる。

いや、男同士でデートもないだろう。


「デートもなにも付き合ってないですし、なんなら男同士です」
「そうだけど、好きな都谷さんと時間決めて出かけるのってデートになりません?」

すっかり忘れていたけれどメッセージのやり取りをしていて「好きです」なんて送ってくるような人だった。

もちろん、この場合の好きというのは作家としての俺だと分かっている。分かっているけれど、言葉のチョイスが普通の人間と少し違うのだ。

悪い人間ではない。千屋が言っていた通り人畜無害そうだ。しかし、そんなことを普通の人間に言ったら驚かれる、という世間一般の常識が欠けているのではないかと思うことがあるのだ。


「それ、知らない人間が聞いたら誤解するので外ではやめてくださいね」
「誤解じゃないんですけど、まだ早いかな」

と訳のわからないことを言う。これ以上言っても仕方がないと思い口を閉ざす。


「原稿、大丈夫ですか?」

運転をしながら薬井さんが訊いてくる。


「ひとつあがったので。長編を書き始めないといけないけど、少し息抜きしたいので。この1週間引き籠もりになっていたから」
「引き籠もるほどって大変っていうことですね」
「まぁ自分で自分の首絞めたので仕方ないですよ」
「ドラマの脚本でしたっけ。脚本までやるって凄いなと思って」
「いや、脚本家に任せれば良かったんですけどね」
「でも、ファンとしては楽しみが増えたことなんですけど、でも体に気をつけて頑張ってください」
「薬井さんは大丈夫なんですか?」
「今はイラストの仕事中です。そのあとは個展があるので個展の準備をします」
「個展あるんですね。そのときは教えてください。見に行くので」

そう言うと薬井さんは恥ずかしそうに笑った。


「先生に言われると嬉しいけど恥ずかしい」

頬が赤くなっていて、本当に恥ずかしいのだとわかる。絵を見られるのは仕事柄あることなのに俺に見られるのがそんなに恥ずかしいのだろうか。行くというのは社交辞令でもなんでもなく、ほんとに見に行くつもりでいる。あの画集を見たときの衝撃が今も忘れられないのだ。あの衝撃をもう一度感じたいと思う。それくらい俺はこの人の絵が好きだと思っている。

公園に着き、園内を少し歩く。


「ここ、青い薔薇があるんですよ。青と言っても少し紫ががっているんですけど。DNA改良型はそんな色なんです。吸上げ着色の場合はほんとに真っ青なんですけど、ここはDNA改良型しかないので。でも、青い薔薇自体が珍しいでしょ?」

吸上げ着色がないと言われても普通、青い薔薇自体が珍しいのでどちらか片方でも見れるのは楽しみだ。

実際、今歩いているいる辺りには真っ赤な薔薇が咲き誇っている。


「この薔薇園は約250品種、約20,000株の薔薇があるんです。園内も広いから散歩がてら見て歩くにはぴったりだと思います。今は薔薇の時期なので週末になると人も多いんじゃないかな」

こういうときに時間の決められた仕事じゃなくて良かったなと思う。

締め切りさえ守ればいい仕事だから締め切り間際ではない限り時間を作ることは比較的できる。

平日の昼下がり。天気も良くて初夏と言ってもいい暖かい陽射しで散歩をするには最適だった。

普段は机に向かってばかりで運動なんてしていないからと歩きたいと言ったのだが、そうして正解だったなと思う。暖かな陽を受けて歩くのは気持ちがいい。


「先生」

と声をかけられ、声の方へ顔を向けるとカメラのシャッターを切る音が聞こえた。


「今、すごくいい顔してました」
「薔薇を撮るのはわかりますけど、俺を撮ったって絵にならないし撮っても面白くないでしょう」
「そんなことないですよ。先生の写真が欲しかったから撮ったんです」

そういえば俺の写真が欲しいと言っていたな、と思い出す。


「好きな先生の写真なので嬉しいな」

好き、という言葉にドキリとする。男同士なのになぜドキリとするのか。


「眉間に皺寄ってますよ。眉間の皺は幸せを逃すって言います。だから、ほら。そんな難しい顔しないで。薔薇の花に似合いませんよ」
 

眉間の皺はお前のせいだろうと言えるのなら言いたい。千屋相手になら言っている。けれど、この薬井さんはそこまで親しいわけではない。

好きな俺の写真が欲しかったとか言っていることがおかしい。聞き流すのがいいに決まってる。そう考えるとすっきりして気持ちの切り替えができる。


「薔薇の写真、また現像して貰ってもいいですか? スマホはあるけど、どうも写真の才能はないようなので」
「もちろん。でも俺も写真は素人だからそれは勘弁してくださいね」
「いえ。桜の写真はとても綺麗でしたよ」

八重桜を見たあとデジカメを買おうかと一瞬考えた。けれど、スマホで撮ったものを見て恐らく構図の問題だろうと思ったのだ。

本を買って勉強してみることも考えたが、もともと絵心があるとはお世辞にも言えないので諦めた。大体一眼レフではない普通のデジカメならスマホで十分だろうとも思うし。

買うなら一眼レフの方がいいんだろうけれど、そこまで高いお金を出してまで写真を撮ることはないからカメラを買おうという考えは捨てたのだ。

 
「あー、ミラーレスじゃなくてきちんとした一眼レフ持ってくれば良かった」

そう言われて薬井さんが持っているカメラが桜のときと違うことに気づいた。

今、薬井さんが手に持っているカメラは一眼レフではあるけれどレンズ部分が薄めになっていて小型だ。それがミラーレスというやつなんだろうけれど、カメラに明るくない俺には出来がどう変わるのかわからない。


「よくわかりませんけど、一眼レフとそのミラーレスとではできあがりがそんなに違うんですか?」
「最近のミラーレスは普通の一眼レフと変わらないです。ただ俺はミラーレスにはあまり金をかけてないから手持ちの一眼レフとはやっぱり差があって。でも、デジカメよりはいいと思いますよ。ただ、さっきの先生のがな……」

途中まではよくわかったのだが、俺のがなにやらブツブツと言っているけれど訳がわからないので、申し訳ないが薬井さんをそっちのけで薔薇をみることに専念した。

俺が無言で薔薇を見ていたからか、隣を歩く薬井さんも黙って薔薇を見ながら時折カメラのシャッターを切っていた。

そんな姿を見て、ふと彼の目にはこの景色はどのように映っているいるのだろうかと思った。あの画集にあった青。俺は空を見ても海を見てもあんな青を見たことはない。だとしたら、今俺の目に映っているこの景色も薬井さんには全く違って見えているのではないか。そんなふうに思ったのだ。例えば、この白に薄いピンクがかかったような薔薇はどう見えているんだろうか。

そんなことを思いながら振り向くと、薬井さんが俺にカメラを向けてシャッターを切ったところだった。

え? 今? 俺を撮った?


「すいません。あまりに綺麗だから撮ってしまいました」

綺麗? あまりにも意味が分からなさすぎて言葉が出ない。


「ごめんなさい。怒りました?」

そう言って薬井さんは上目遣いで俺を見る。元々俺より背が低いので少し顎を引くと上目遣いになる。


「え? いや……」

怒るもなにも今はただ薬井さんのことを考えていただけなので、何が綺麗なのか意味がわからないだけだ。

綺麗と言ったのは恐らく俺に向けてだと思う。薬井さんがカメラを向けていた先にあった薔薇は遠かったし、かと言って近寄って撮れるのだから望遠にすることはないだろう。それになにより、カメラのど真ん中にいたのは俺だったと思うから。

いや、でも、男に綺麗という形容詞を使うものだろうか。たまに薬井さんはわからないことを言う。ただ、怒っていないということだけは確かだ。だいたい怒る理由がない。


「良かった」

そう言うと薬井さんはちょっとバツが悪そうに、でもホッと力を抜いて笑うその顔に引き込まれた。思わず薬井さんの顔を魅入ってしまう。そうすると薬井さんは不思議そうな顔をした。

たまに薬井さんも訳の分からないことをいうけれど、俺もたまに訳の分からないことをしてしまう。それはなんなんだろう。


「先生。そこを曲がったところに青い薔薇がありますよ」

俺がそんなことを考えていると薬井さんがそう言う。そうだ青い薔薇があると言っていた。

薬井さんが指さしたところへ行くと青い薔薇が一輪、凜とした姿で咲いていて俺はその美しさに目を奪われた。


「珍しいんですよ、青い薔薇」
「初めて見ました。ほんとにあるんですね。綺麗だ……」
「人工ですけどね。奇跡、神の祝福、だったかな?」
「え?」
「あぁ、青い薔薇の花言葉です」
「青って。色によって花言葉違うんですか?」
「色によっても本数によっても違いますよ。それに青い薔薇の花言葉は昔と変わっているんです。以前は不可能、存在しないだったはず。人工でも難しかったみたいなので」

奇跡。神の祝福。

そう言われる青い薔薇が俺には薬井さんに思えた。おかしいかもしれないけれど俺の中で青というと薬井さんというくらい印象づいてしまっていいるのだ。多分これからは青い薔薇を見ても薬井さんを思い出しそうな気がする。


「写真撮っておきますね」

薬井さんの言葉を聞きながらそんなことを考えていた。

存在が奇跡だという青い薔薇に魅入る。なんて綺麗なんだろう。薬井さんならこの薔薇をどんな青で描くんだろうか。


「青い薔薇の絵、描いて貰えませんか?」
「え? 青い薔薇の?」
「はい。どんな青になるのか興味があって」
「なら、今度写真の現像したのと一緒に送ります。しばらくは締め切りで忙しそうだから今回は送ることにします」

確かに脚本と長編を同時に書く必要があるから忙しくなる。

息抜きくらいしたいけれど、長時間は無理だから郵送なのは助かる。そういう点、気が利くんだなと思う。


「息抜き用にたくさん撮っておくので忙しくなったらそれで癒やされて」

今、家にはソメイヨシノと八重桜の写真がある。そこにここの薔薇園の薔薇が加わる。花なんて詳しくはないけれど、ただ見ているだけで癒やされる。

薔薇の写真が現像されたら机の上の桜の写真は薔薇の写真に変えよう。

しばらく青い薔薇を見た後、また園内を歩いてまわる。オールドローズ、イングリッシュローズ、ミニチュアローズ、ツル薔薇とたくさんの種類があった。小さなミニチュアローズは可愛かったし、アーケードに絡みつくツル薔薇は見事だった。そして花も花びらが幾重にも重なったものだけではなく、一重咲きのもあった。


「薔薇ってたくさんの種類があるんですね」
「ここは250品種あるから見事ですよね。普通の花屋で見る薔薇って決まってるから、こんなにあると見応えがある。そうだ。ここにはないんだけど青い薔薇以上に珍しい薔薇があってレインボーローズっていう薔薇があるんです」
「レインボーローズ?」
「そう。名前の通りなんですけど、白い薔薇に特殊な植物性染料を吸い上げさせて内部から着色するみたいです。パソコンでは見たことあるけど、実物は見たことないんですよね。ネットでは売ってるから今度買ってみようかなと思ってるんだけど」
「そんな珍しい薔薇があるんですね。見てみたいなぁ」
「じゃあ買ってみようかな。もし買ったら写真撮って送りますよ。絶対に綺麗だと思うんです。そうだ、吸上げ着色の青い薔薇も買ってみようかな。DNA改良型とはまた違って真っ青だから」
「花、好きなんですね」

花なんて詳しくない俺に薬井さんは色々教えてくれる。それはきっと好きだから知識があるんだろうと思う。好きでもないものなんて興味ないから知識も増えない。

俺みたいに、咲いているのをただ綺麗だなと見ているだけでも知識なんて増えない。


「うち、母親が花が好きだったからいつも家に花があって。その影響だと思います」

やっぱりそういう下地があるんだろうな、と聞いていて思った。


「薬井さんの描く薔薇の花が見たいです」

写真集には花の絵もあったけれど、南国の花や国内では見ないような花ばかりだったので、身近にある花の絵はなかった。

薬井さんが描く薔薇はどんな薔薇なんだろう。


「簡単なスケッチ程度でいいのなら、今度青い薔薇を描くときにでも描いてみますよ。レインボーローズと他に適当に描くけど、それでいいですか?」
「個展の準備があるのにすいません。絵はいつでもいいので」
「いいえ。俺の絵に興味を持って貰えて嬉しいです」

そう言って薬井さんは小さく笑う。

 
「薬井さんの描く絵、好きですよ」

俺がそう言うと、薬井さんは恥ずかしそうに頬を染めた。


薔薇園へ行った1週間後。薬井さんから薔薇の花の写真が届いた。もちろん、あの青い薔薇の写真もある。そして、よく見ると折り畳んだ紙が入っていることに気づく。広げてみると薔薇の絵だった。俺が頼んだから描いてくれたんだ。

仕事の合間に描いてくれたのだろう。綺麗なピンクやイエローそして赤。でも、その中に青い薔薇は入っていなかった。

少し落胆していると、紙は重なっているようで、1枚ではないことに気づく。

紙は後2枚あった。1枚は青い薔薇。そしてもう1枚はレインボーカラーの薔薇。レインボーローズだった。

青い薔薇は、少し紫がかっているのでDNA改良型だろう。

あの青い絵のようなインパクトはないけれど、それでもただのスケッチではない。そこには凜と咲く一輪の青い薔薇がある。

それは、なんて言葉にしたらいいのだろうか。どこかしどけなく、人で言うなら色気を感じる薔薇。

その青は、本物の青い薔薇よりも紫味の強い青だった。その青を見て、こんな青もあるんだなと思う。

スケッチ程度と言っていたから本気を出して描いたわけじゃない。それなのに、その絵には薬井直人の世界があった。

明るい色やレインボーローズは特になにかを感じることはない。けれど、その青い薔薇だけが世界が違うように感じる。やっぱり薬井さんは青が独特だ。3枚も描いて貰ったのに、俺は青い薔薇に目を奪われて他に目がいかない。

写真立てには、現像して貰った青い薔薇の写真を入れたものの、薬井さんに描いて貰った薔薇の絵は千屋に貰った、薬井さんの画集の中に畳んでいれた。

画集を開いたついでに、あの青い絵のページを開く。

やはり迫力が違う。心を鷲づかみされる。圧倒的迫力。目を奪われて逸らすことができない。何度見ても見飽きることはない。

でも、と思う。この青だって俺が見ているものと違うように感じるのだから、スケッチではなく、薬井さんの目に見えている世界を色で現して貰ったらどうなんだろうか。俺に見えている世界と同じなのだろうか。薬井さんの目を通すと、この世界はどんな色なんだろう。それがとても気になった。

薬井さんの目に映るこの世界を見てみたいと思った。もし今度また、どこかへ出かけることがあれば、その世界を色で描いて貰いたいと思う。

お願いしてばかりだなと思うけれど、薬井さんの描く色が好きな俺はねだりたくて仕方ない。とりあえず写真とイラストを貰ったのだから礼をしなければ、とメッセージアプリを開く。


【写真とイラスト、ありがとうございました】
【今度、薬井さんに見えている世界の色を描いて欲しいです】

つい送ってしまったおねだりの言葉。薬井さんの見ている世界を見てみたい、その欲求は抑えることができなかった。それまでは、貰った青い薔薇の絵を見ていよう。


それは薔薇が咲き誇る初夏のことだった。