パソコンの前にずっと座ってはいるけれど、なかなか書き進められない。
アンソロジーの寄稿。長編ではないのに、何故だか筆が乗らなくて何時間もパソコンの前に座っているのに書けたのは1ページ分ほどしか書けていない。
締め切りまでそんなに時間的余裕があるわけでもないのに、こんなに筆が止まっていたら締め切りを過ぎてしまう。そう思うと焦りはするけれど、それで筆が進むわけじゃないのが困る。
このアンソロジー、脚本。そして脚本と平行して雑誌用の短編。それが終わったら長編に取りかからなくてはいけない。正直、時間が足りないと言ってもいい。少なくともパソコンの前でボケっとしている時間はない。
時間的余裕があるのなら気分転換にドライブにでも行くけれど、そんな余裕はない。でも、書けないのにパソコンの前に座っているのもどうなんだろう。
そういえば今は桜の季節だ。
この数日は余裕がなくて家に籠もっているけれど、きっと桜は綺麗だろう。そろそろ満開だろうか。
そう考えると桜を見に行きたくてたまらなくなる。少し行ったところに桜の名所で有名な公園がある。観光バスが来るくらいに人気の公園だ。行ってみようか。
時計を見ると21時を少し過ぎているけれど、桜が咲いていると明るいし、夜桜もいいだろう。
パソコンの前で唸っているなら、気分転換に夜桜でも見て、それで頑張った方がいいんじゃないかという気がしてきた。ドライブに行くほどの時間はないけど、桜を見に行くくらいは大丈夫だ。
よし、行こう! 机の上に置きっぱなしのスマホをズボンのポケットに突っ込み、何かに急かされるように家を出た。
綺麗な桜でも見て外の空気でも吸えば、きっと筆も進むだろう。
公園までは1キロ程度の道のりで、夜道とは言えコンビニもあるしマンションも乱立しているので怖いということはない。もっとも、夜道を怖がるようなうら若き乙女ではないけれど。
途中でコンビニに寄りお茶を買う。ほんとはビールでも呑みたいところだけど、帰った後は執筆が待っているので我慢する。のんびりビール呑みながら夜桜を見れたら最高なんだけど、仕事を放って来ている以上そういうわけにもいかない。仕事が詰まっているので、のんびりビールを呑むなんてことはしばらく無理そうだ。
散歩がてらゆっくりと歩いて公園へ着くと、思ったとおり桜は満開だった。というより散り始めていて花びらが雨のように降っている。
暗がりの中、ひらひらと舞い落ちる薄ピンクの花びら。俳句や短歌を詠うタイプではないけれど、詠う人なら何かしら詠うのではないかというほどだ。
桜の季節の昼間のここは出店が立ち並び、平日でも人が多い。とてもじゃないけれどゆっくりと桜を楽しめる環境ではない。純粋に桜を楽しむのなら夜桜が一番いいのかもしれない。
そんなことを考えながら、ゆっくりとお茶を飲みながら桜を見ていると声をかけられた。
声のする方へ顔を向けると、そこには金髪で薄いブルーのサングラスをした男がいた。誰だ? 夜にサングラス? それが怖くて後ずさると、そう思ったことに気づかれたのかサングラスを外す。そこで現れた顔はこの間パーティーで紹介された薬井さんだった。
それはこっちのセリフだ。なんでこんなところで会うのだろうか。
ふと薬井さんの手元を見ると一眼レフを手に持っていた。
言われてみれば確かにそうだ。スケッチには時間がかかるだろうし、こんな暗いところではスケッチはできない。
しかし、絵を描く人は写真も好きなのだろうか。よくわからないけれど共通するところもあるのだろうか。
薬井さんはにこにことこちらを見ているけれど、人見知りの俺は一度会っただけの人となにを話したらいいのかわからなくて黙ってしまう。
人好きしそうなこの人にはそう言ったことはないのだろうか。この人は人見知りもしないみたいだし。
ふいにそう声をかけられてスマホで時間を確認すると、結構ここにいたみたいだ。最後に桜でも撮ってから帰ろうか。最近のスマホは夜景も綺麗に撮れるらしいし。
確かにいくらスマホのカメラ性能が良くなっても一眼レフには敵わない。
そう言ってスマホを出してくるのでメッセージアプリで連絡先を交換する。
薬井さんは急かすようにそう言うと、にっこりと笑ってから俺に背を向けて歩き出す。
どうしたらいいのかわからなくて少しの間そこに突っ立っていると、薬井さんは俺を振り返る。
念押しで言われると断ることもできずに薬井さんの後をついて歩きだした。
薬井さんがロマンティックなことを言う。でも、確かにすごい偶然だと思う。俺は原稿に詰まらなければこんな時間に桜を見に来ようなんて思わなかったし、薬井さんが隣の市からわざわざ来なければ会うことはなかった。それは思う。思うけれど、桜の精とは思わなかった。
車が止まったところで俺は車を降りる。
そう言って薬井さんの車が見えなくなるまで見送り俺はマンションに入った。
気分転換に夜桜を見に行った公園で薬井さんに会うとは思わなかった。
出版社のパーティーで千屋に紹介されたときはお互いどこに住んでいるかなんて知らなかった。まさか隣の市に住んでいるなんて思いもしなかった。隣の市と言っても、あの公園に夜行ったくらいだからここに近い方なのかもしれない。
連絡先交換しちゃったななんて思う。交換したって俺からはメッセージを送ったり電話をしたりはできない。人見知りで打ち解けるまでに時間のかかる俺ではそれは難しいことだ。でも、あの人見知りを一切しなさそうな薬井さんからはあるかなと思う。
ひとつ連絡先が増えたスマホをポケットから出し、一枚撮った桜の写真を見る。
そこには暗闇の中に桜の花の薄ピンクだけがあって、お世辞にも綺麗とは言えない。そう言えば、元々写真が苦手なのを思い出した。それでも昼間ならまだなんとかなるが、さすがに夜は厳しかったか。薬井さんが現像してくれると言ってくれて良かった。
金髪のツーブロック。薄い色の丸いレンズのサングラス。どう見たって怖く見えるけれど、話してみると優しい人なんだろうなと感じる。でなければ写真を現像してくれると言ったり、わざわざマンションまで送ってくれたりはしないだろう。それにしてもあの風貌で桜の精というのには驚いた。意外とロマンティックなんだなと思うと、つい口元が緩む。千屋は面白い男を紹介してくれたな。
と、そんなことを考えている暇があったら原稿を書かなければ。夜桜を見に行ったのは気分転換であり、これで原稿が終わりということではない。
スマホを机の上に置いて原稿に向かうが、先ほど見て来た夜桜がチラつく。綺麗に撮れていたのなら自分で撮った写真をパソコンに転送するけれど、とてもじゃないけど何回も見直したくなる写真ではない。薬井さんに現像を頼んで良かったけれど、データも欲しかったなと思う。それは少々甘えすぎだろうと自分にツッコミを入れる。現像、早くできないかな。原稿に向かいながらそんなことを考えた。
ミステリーのアンソロジーが書き終わった。締め切り1日前。途中、間に合わないかと思ったけどなんとか間に合った。最も、この後は脚本と他の原稿があるから締め切りを過ぎるわけにはいかなかったけれど。
良かったと息をついたそのときスマホがメッセージの着信を告げる。誰だろうとスマホを見ると薬井さんだった。
そうだ。桜の写真の現像をお願いしていたんだと思い出す。カレンダーを見ると10日ほど経っている。この後は脚本と短編。そのあとには長編が待っているけれど、アンソロジーが早く終わったので会うくらいの時間は取れる。
と返信するとすぐに返事がくる。
ほんとに急だなと思うけれど時間は大丈夫だ。
【少し足をのばす時間はありますか? 八重桜の綺麗なところがあるので】
【八重桜ですか? 見てみたいですね】
【それなら今から行きますね。下に着いたらまたメッセージします】
【待っています】
急遽出かけることになった。とりあえず部屋着から着替えていつでも出れるようにする。八重桜か。ソメイヨシノは儚げだけど、八重咲きになる八重桜は少しゴージャス感がある。
そんなことを考えながら明日から脚本に取りかかる準備をしているとメッセージが着信を告げる。
結構早いな。今行きますと返信をし、家を出る。
階段を降りると車にもたれた薬井さんがいた。
明日から雨の予報だったのか。最近はどこかに出かけるでもなく、スーパーに行くくらいなので天気予報は見ていなかった。
そう言って薬井さんが運転席に乗り込んだので、助手席に乗る。人の運転する車に乗るのはどれぐらいぶりだろうか。最近は自分で運転することも減っているけれど、人の車に乗るのはもっとない。
そう言って後部座席に置いてあるカバンから封筒を取り出す。
封筒を受け取り写真を取り出す。そこには俺が失敗した夜桜が綺麗に写っていた。スマホのカメラの性能が向上したとはいえ、やはり一眼レフと比べると雲泥の差だ。
写真を見ていると薬井さんに訊かれた。
来月と言うと、次の長編を書きはじめる頃か。脚本もあるけれど、そんなに長時間でなければ大丈夫だろう。
確かに1人で見るのもいいけれど、誰かと一緒に感想を言い合いながら見るのは楽しい。その気持ちはわかる。
ただ、さほど親しいと言えない俺が相手でいいのかという疑問は残るけれど。
そういう薬井さんは嬉しそうだ。その表情を見ていると俺が相手でもいいみたいだ。俺はまだ打ち解けているわけじゃないから気を使うけれど、なにか用事を作らないと家に籠もりきりになってしまうから、まぁいいだろう。
お目当ての公園に着くまで花が好きという薬井さんに色々な花の写真を撮りに歩いているという話しを聞いていた。
花が好きで季節折々、綺麗な花を見ては写真を撮っているという薬井さん曰く、この辺りで八重桜が一番綺麗なのはこれから行くところだと言う。
八重桜という品種だと思っていた俺からしたら薬井さんは十分に詳しいと言える。
花を見て綺麗だなと思うことはあるけれど、それがなんという花なのかとかは全くわからない。桜やチューリップ、紫陽花、向日葵、薔薇、コスモス……。それくらいはわかるけれど、それ以外の花なんてよくわからない。
スマホのカメラ性能は良くなっているけれど、さすがに一眼レフには敵わない。最も、一眼レフ並に撮れたらカメラなんて売れなくなってしまうけれど。
薬井さんに会うのは3回目(薬井さん曰く4回目)だけど、薬井さんが話し上手なおかげで会話に変な間が空いて気まずくなったりすることはない。
そんなふうに会話していると車はお目当ての公園に着いた。
駐車場に車を止め、公園の奥へと行く。少し行くと瑞々しい緑の葉にピンク色の花をつけた八重桜が見えてくる。そんな木が並木になっていて、その下を歩くとピンク色の花びらが降ってくる。それはとても綺麗で、そんな綺麗な光景が見られる日本はいいなと思う。
隣を見ると薬井さんがシャッターを切っていた。その口元を見ると口角が上がっているのが見える。写真を撮りながら桜を楽しんでいるんだろう。
今日の写真も薬井さんがくれると言っていたけれど、昼間だからスマホでも撮れるだろうと自分でも何枚か撮ってみる。撮った写真を確認するけれど、どうも綺麗には撮れない。これはカメラ機能の問題ではなく俺の腕が悪いようだ。なので、そこそこ見れる写真を一枚だけ残して他は全て消す。自分のカメラで残せないのなら自分の目に焼き付けるしかない。
声が聞こえたので隣を見ると薬井さんはカメラをおろして桜を見ていた。
言わんとしていることはわかる。
今日貰ったソメイヨシノの写真もあるし、殺風景な机の上にでも写真を飾ろうか。家にいながらにして息抜きができるかもしれない。原稿が詰まると引き籠もりになる俺にはいいかもしれない。
帰りも行き同様に薬井さんに送って貰う。
そう聞いて、あぁ、たくさん写真を撮っていたのはそういうのもあるんだな、と思った。
そう言う薬井さんは軽く微笑んでいる。その表情を見て、ほんとに花が好きなんだなと思う。そして、絵を描くことを生業としながら余暇でも絵を描くのに驚いた。休んだ気がしないのではないか、と思ったのだ。
俺に置き換えてみよう。なにか脱稿してほっと一息ついたところで趣味でなにか話しを書くだろうか?
恐らく……いや、十中八九書かないだろう。なにか書いたら息抜きにならない。息抜きをするなら他のことをする。画家だと違うのだろうか。なので質問をぶつけてみる。
俺がそう言うと薬井さんは考える仕草をする。
そうか。元々、絵を描くのが趣味なのか。いや、そういう自分もデビューする前は書くことを趣味にしていたような気がする。いや、違うか。なんだか追い立てられるように常になにかを書いていた。そして作家デビューして、それが仕事になった。なのに薬井さんと何が違うんだろう。
多分、話しを書くというのは時間のかかることで、息抜きに書いたものが作品となることはない。その違いだろうか。
どちらにしても息抜きでなにかを書くことはしない。
そんなことを話していると、車は俺のマンションのすぐ近くまで来ていた。人見知りで、まだ打ち解けたとは言えないのに、車中、沈黙になることもなく会話をしていた。いつもなら、出会って数回の人間とそんなに話せないのに。薬井さんは大丈夫なのだろうか。
そう言葉を交わし、車が走り去るのを見送った。
それは、花雨の季節だった。