EHEU ANELA

あなたが愛してくれたから

失踪 01

早いもので樹くんと結婚して三年が経った。相変わらず樹くんは甘くて優しい。幸せな結婚生活、と言えるのだと思う。


「ただいま」

時刻は十九時半。樹くんの帰宅にしたら早いだ。

営業から始めた樹くんは、今は係長になり、一日中外に出ることは少なくなった。その代わり、他の社員のことをしっかり見なければいけない立場になった。そして、束ねていかなければいけなくなった。それは大変なことだと思うけど、将来はもっと規模の大きい立場になるのだから、小さいところから慣れさせているのだろう。


「早かったね」
「打ち合わせが早く終わったからね。早く帰れるときは帰らないと。帰りたくても帰れない日もあるんだから」
「そうだね。もう食べる? お風呂にする?」
「んー。先に食べる。今日のメニューなに?」
「今日はロールキャベツだよ」
「お、久しぶり。着替えてくるね」

夕食を済ませて、コーヒーを飲みながらソファで他愛もない話をする。なんでもない日常が僕にとっては最大の幸せで壊したくないものだ。


「今度の日曜日、父さんの誕生日なんだ。だから、夕方、実家に少し行くけどいい? アフタヌーンティーしようって母さんが言ってる」
「うん。わかった。何かプレゼント用意しなきゃね」
「何もいらないでしょ。何でもあるんだし」
「そうもいかないよ。何か考えとく」

お義父さんもお義母さんも優しくて好きだ。だから会いに行くことは決して嫌ではない。実際、たまに行っては一緒に食事をしたりしている。だから、今回行くのも構わない。

ただ、最近はひとつ気がかりがあって、少し足が重くなる。決して嫌がらせをされたりとか、そういうのは一切ない。逆に、とても良くしてくれる。申し訳ないほどに。

その気がかりは、まだ妊娠しないこと。実は一年半ほど前に父から電話があり、その後も数回電話がある。用件は、連絡がないが妊娠はしたのか、ということだ。

加賀美の長としては、偶然とはいえ加賀美のオメガとして嫁がせた。そうしたら結びつきをより強固にするために、オメガに望まれるのは子供だ。

もともとオメガは出産率が高いことから、オメガを望まれる場合がある。しかも今回はKコーポレーションの跡取りである樹くんの子供だ。つまり将来の社長になる子供だ。なので、その子供を望まれるのは当然だ。お義父さんやお義母さんは口にしないだけで望んでいるだろう。なのに僕は妊娠しないのだ。

ヒートのときは当然、避妊はしていない。なのにできないのだ。これを聞いた父からは罵声を浴びせられた。出来損ないのベータはオメガになっても出来損ないなのか、と。

本当に父の言う通り出来損ないのオメガかもしれない。そう思うと、如月の家に行く足は重くなってしまうのだった。


「おぉ。二人共よく来たな。今日は俺の誕生日だけど、母さんの好きなアフタヌーンティーだ。ほら、座って」

如月の家に行くとリビングにお義父さんとお義母さんがいた。


「父さん、誕生日おめでとう。っていう歳か?」
「いいじゃないか、いくつになったて。と言いたいが忘れてたよ。母さんが覚えてた」
「家族の誕生日はみんな覚えてるわよ。優斗くんのも」

こうやって僕を家族の一員にしてくれるお義父さんとお義母さん。ありがたい、としか言いようがない。それなのに……。


「お義父さん。お誕生日おめでとうございます。ささやかながら、プレゼントです。気に入っていただけるといいのですが」
「ありがとう。来てくれるだけで嬉しいのに、優斗くんは本当に優しいな。開けさせて貰うよ」

そう言って、お義父さんは丁寧にラッピングを開けていく。今回選んだのはカフスボタンだ。

お義父さんは立場上、華やかな場所に行くこともあるし、雑誌などのインタビューを受けることもある。そんなときに意外と目に止まるのが袖口だ。

華やかな席や、雑誌などに出る場合はカフスボタンをしているが、いくつあってもいいだろうと思ってカフスボタンにした。

選んだのは、ラウンドタイプで透明なクリスタルガラスを使用したもので、光があたるとキラキラと光って、決して華美にはならない綺麗さがある。最初は若い年代向けかな、と思って不安だったけれど、お店の人に訊いたところ、お義父さんくらいの年代の人が付けても決しておかしくない、と言われた。それこそ、華やかな席ではキラキラと輝いて綺麗だろう。


「あぁ、綺麗なカフスボタンだな。こういうのは持っていなかったな。ありがとう」
「華やかな席に似合うかと思って選びました」
「そうだね。そういう席にぴったりだ。今度付けさせて貰うよ。これは優斗くんが選んだ?」
「え、あ、えっと……」

訊かれて、ついうろたえてしまった。

僕が選んで、樹くんは少しお金を出してくれた。その場合、樹くんと一緒に選びました、っていうべきだよね。と考えていると樹くんは、そう、と答えてしまった。


「でも、少しお金を出させて貰ったよ。俺一人だったら何も買って来なかったかも」

樹くんがそう答えると、お義父さんは苦笑した。樹くんもそんなに素直に言わなくてもいいのに、と思ったけれど、実の親子だからできることだよな、と思うと少し羨ましかった。僕と父の間には絶対にないことだ。


「さあ、お茶も入ったみたいだし、お茶でも飲みながらお話しましょう。あ、今日のケーキはいつものケーキ屋さんとは違うのよ。新しいお店のなの。優斗くんも気に入ってくれたらいいんだけど。美味しいお店なのよ。食べて」

お義母さんに促されてケーキを取ると、かぼちゃとりんごのパイだと言う。一口くちに入れるとかぼちゃとりんごのほのかな甘さとりんごの酸味が合わさって、ほのかな甘みで上品だ。これなら、甘いものを好んでは食べないお義父さんや樹くんでも食べられる。お義母さんの細かな気配りだ。


「上品な甘さで美味しいですね。樹くんも食べてみて。美味しいよ」

僕がそう言うと、樹くんも一口食べると、美味しいな、これ、と言って気に入ったみたいだ。お義父さんも笑顔で食べていて、温かい家族の団欒がここにあった。

僕たちは美味しいケーキやスコーン、サンドイッチを食べながらイギリスから取り寄せたという紅茶を飲み、最近あった色々な話をした。

その中で、如月と付き合いのある会社の社長に孫が産まれたらしい、という話になった。僕にはとても痛い話題だ。


「孫が可愛いらしくて、スマートフォンの待ち受けにしていたよ。俺も見せて貰ったけれど、可愛かったよ。よその子でも可愛いのだから、自分の孫だったらもっと可愛いんだろうな、と思ったよ」

やっぱり、自分の孫、欲しいって思ったんだろうな。お義父さんも、とても楽しそうに話している。それをお義母さんも隣でにこにこしながら話を聞いている。

その様子を見ていると、やはり自分たちの血を引いた孫をその手に抱きたいと思っているんだろうな、と思わされる光景だった。

僕も樹くんと結婚して三年。もう赤ちゃんが産まれていてもおかしくないし、産まれていなくても、妊娠していてもおかしくない。なのに、僕はちっとも妊娠しないのだ。オメガになったのに妊娠もしない。避妊しているわけでもないのに。


「子供が産まれる前からおもちゃや服を買っていて、今はもう物が溢れているらしい」
「そう言ってるけど、お義父さん、樹が産まれてくるときにも、もういらないっていうほどぬいぐるみや服をたくさん買ってきたのよ」

そうか。樹くんが産まれたときにそうしていたのなら、孫が産まれたら同じようにするだろうな。まして樹くんは一人っ子だから、まだ孫はその手に抱いたことはないんだ。

そう思うと、申し訳なさで胸がいっぱいになる。


「樹と優斗くんの子供なら絶対に可愛い子だろうから、早く抱きたいものだな」

お義父さんのその言葉が胸に突き刺さった。そうだよね。早く孫を抱きたいって思うよね。なのに、三年たっても妊娠しないオメガとか。


「父さん!」
「あ、すまない。別に急かしているわけではなくて」
「まぁ、いつかは腕に抱けるから、それまで待っててよ。まだ俺たち二十六だし、もう少し二人でいたいんだよね」

樹くんがフォローしてくれている。その言葉を唇をぎゅっと噛みしめ聞く。そうするとお義母さんが言葉を繋いだ。


「子供は神様からのプレゼントよ。まだ、っていうことはまだこの子たちには早いということなんだから、この子たちのタイミングを待ちましょう」
「いや、本当にその通りだな。優斗くん、申し訳ない」
「いえ、謝らないでください」

樹くんとお義母さんにフォローさせて、お義父さんに謝らせて、最低だ、僕。加賀美のオメガを貰ったのに、って思われてないかな。子供を産まない加賀美のオメガなんて価値はない。父の言葉が蘇る。本当にその通りだ。僕は役立たずのオメガだ。役立たずのオメガなんて役立たずのベータよりもたちが悪い。僕はここにいていいんだろうか?


お義父さんとお義母さんとのお茶を終え、夕食前には家に帰ってきた。

僕の頭の中は、子供のことでいっぱいだった。お義父さんは本当に早く孫を抱きたいと思っていたのだろう。その話をしているときのお義父さんの顔は、とても幸せそうだった。

そして、フォローをしてくれたお義母さんも内心はお義父さんと同じように早く孫を抱きたいと思っているだろう。ただ、それを言うと僕にストレスがかかると思って、フォローしてくれたんだろう。そんなことをさせて、お義母さんには申し訳ないと思う。

樹くんに関しては、早く子供が欲しいのは知っている。以前、言っていたから。

つまり僕は三人の期待を裏切っているわけだ。いや、理由は違うけれど、早く子供を産むようにと言い続けている父を入れたら四人だ。なのに、結婚して三年たっても妊娠の兆しは見えない。なんでだろう。後天性オメガは普通のオメガと比べて妊娠しにくいのだろうか? いや、でも、オメガになったときにバース科の医師はそんな話はしていなかった。もし、そういったことがあるのならば話しただろう。けれど、そんな話はなかったから、後天性オメガであることは関係ないのだろう。ということは、単に僕に問題があるのだろうか。

父は僕のことを出来損ない、役立たずだと言うけれど、本当にそうかもしれない。ベータのときはまだしも、オメガになって三年が経ってもまだ妊娠しないのだから。

加賀美のオメガで、こんなに子供が出来なかった人はいるのだろうか。いや、きっといないだろう。だって、もしいたのなら父が言うと思うから。ということは僕だけだ。加賀美のオメガの不良品はどうなるんだろう。離婚を迫られるだろうか。いつまで経っても如月の後継者を産めないのだから、別れろと言われる? 今はまだいいかもしれない。でも、もう少し経ったらわからない。樹くんは優しいから言い出せないかもしれないけれど、お義父さんやお義母さんが言い出すかもしれない。いや、もしかしてもう加賀美には連絡がいってしまっているかもしれない。だから、父が定期的に連絡をしてきては出来損ない、と言っているのだろうか。みんな僕のことを出来損ないと思っているんじゃないか。

そんなのは考え過ぎだってわかってる。樹くんはそんなことを言う人じゃないし、お義父さんもお義母さんもそんなことを言う人じゃない。でも、いつかそう思うかもしれない。来年になって、再来年になって、またその先になっても僕が妊娠しなかったら言うかもしれない。だけど、言われても仕方がないと思う。結婚していつまで待っても妊娠しないなんて。僕はどうしたらいいんだろう。


月曜日、仕事に行っても頭は子供のことでいっぱいで、小さなミスを繰り返して自分でため息をついた。

そして日曜の夜から食欲がなく、昼はゼリー飲料で済ませた。それでも夕食はいつも通りに作った。もちろん、食欲はないから樹くんのために作っているだけ。今の僕ができるのはこんなことしかないから。

ただ、僕が食べないと樹くんに不審に思われるから、夕方お菓子を食べたから食欲がない、と誤魔化した。でも、ここにいるのはもう限界だし、いてはいけない。如月の後継者を産めないオメガなんて、ベータと変わらない。それこそ出来損ないだ。そんなオメガが樹くんのそばにいたらいけない。僕は身を引いて、どこか僕のことを誰も知らないところへ行こう。


「優斗。どうしたの? 元気ないけど」

お風呂からあがって、テレビをつけてまったりとしているときに、ふいに樹くんが訊いてくる。

僕、そんなにあからさまだった?


「え? そんなことないよ。疲れてるだけだよ」
「月曜日で? 忙しかった?」
「う、うん。それなりに。ごめん、疲れたから先に寝るね」

そう言って僕はベッドに潜り込んだ。そうでもしないと勘のいい樹くんにバレてしまいそうだから。そして、ベッドの中でぐるぐると考える。

どこかへ行ってしまおうか。役立たずの僕なんていたって仕方がないし、いたらいけない。そう結論づけ、火曜日、僕は家を出た。

いつも家を出るのは樹くんの方が早い。だから僕は、数日分の着替えを持って家を出た。でも、どこに行ったらいいのかわからなくて、ただ遠くへと思い電車に乗った。

それでも人混みは疲れてしまうので、繁華街の少し手前の駅で電車を降り、行くあてもなくトボトボと歩く。そして、歩き疲れてチェーン系のカフェに入った。アメリカンを注文し、二階席の奥の目立たないテーブル席に腰をおろす。時間は十一時半。九時少し前には家を出たはずだから、結構歩いていたことになる。脚が疲れるのも当然だ。でも、もう少ししたらこの店もお昼休憩のOLやサラリーマンでいっぱいになるだろう。かと言って他の店に移る気力もなく、かと言って飲み物だけで混んでる中、席についているのも申し訳なくて、食べる気のないサンドイッチを追加購入した。

座っていて考えるのは樹くんのことだ。僕がいなくなったと知ったら樹くんはどうするだろう。いや、でもすぐには家を出たとは気づかないだろう。帰りが遅いな、と思ってもおかしいと気づくのは夜遅くになってからだろう。

では、家を出たと気づいてどこへ行ったと思うだろう。実家に帰ったと思うだろうか? いや、それはないかもしれない。父との関係が良くないことは付き合い始めた頃から知っているのだから。だから、何があっても加賀美の家に帰ったとは考えないだろう。そうしたら樹くんはどうするだろう。