EHEU ANELA

あなたが愛してくれたから

失踪 02

樹くんは僕を探すだろうか。付き合い始めた頃、樹くんは言っていた。いなくなったら僕を探す、と。でも、今はどうだろう。結婚して三年経っても妊娠もしない妻。もう用はない、と探しもしないだろうか。如月に自分の居場所はないと思い家を出てきたのに、探して欲しいと思う自分も少しいる。

甘ったれていると思う。樹くんと付き合う前は一人でもなんとも思わなかった。人見知りが激しくて、友達は数少なかった。だから一人で学食で食事をすることはあったけれど、特に何を思うもなく、普通に食事をしていた。休日は家で一人でいることも多かったけれど、寂しいと思うこともなかった。だって、僕は子供の頃から一人だったから。

加賀美の家で、母と二人暮らしだったけれど、出来損ないのベータの僕のことを毛嫌いしていた母と仲がいいわけもなく、当然一人だった。

僕の人生は、樹くんと出会うまでは一人ぼっちだったのだ。それが僕だった。でも、樹くんと出会って、一緒にいるようになって結婚して、一人で過ごす時間なんてすっかり忘れてしまった。人のぬくもりを、人の愛情を知ってしまった。人は、愛情を知ると強くなると思っていたけれど、弱くもなるのかもしれない。

ただ、万が一、樹くんが僕を探すとしたら、携帯と会社はチェックすると思う。加賀美の家はチェックしないだろうか。とすると携帯は夜は切るようにしよう。会社は休んでいるから、もし会社に行かれたとしても大丈夫だ。ただ、いつまでも会社を休むわけにはいかないから、辞めるようになるんだろうか。オメガ枠のある貴重な会社だったけれど仕方がない。またオメガ枠で探すしかない。そのときはここから離れたところでもいいのかもしれない。

とりあえず、今日から泊まるところを探さないと。そう思いスマートフォンをカバンから出して宿泊予約サイトを表示させる前に、待受にしている樹くんの顔を見た。

これは二人で温泉に行ったときの写真だ。樹くんがすごく楽しそうで思わず撮ったんだ。その写真を見て、涙が出てきた。好きなんだ。こうなっても、好きなんだ。いや、好きだから家を出たんだ。でも、好きなのに別れなくちゃいけないのはすごく辛いことだな、と思う。

樹くんと付き合い始めたころは、いつでも身を引けるように心づもりをしていたのに。時間がたつにつれ、オメガになったからずっと一緒にいられるって思って、別れるなんて考えもしなくなってた。本当に最近の僕は甘ったれてた。結局それは樹くんが好きだからだ。別れを考えなくなったのは、樹くんが好きだから。だから、今、こうして写真を見るだけで涙が出てしまうんだ。

それでも、いつまでも泣いていたって仕方がない。身を引くときが来ただけの話だ。

後天性オメガになって、それで気が緩んでいたけど、オメガになったって身を引くことがあると思っていたはずなのに。本当に気が緩んでいた。

ぐずぐずしてないで泊まるところを探さなくては。

とはいえ、どの辺にしたらいいのかわからない。ただ繁華街のど真ん中だと人も多いし、高い。となると、ここみたいな繁華街から少し離れたところがいい。

でも、ここはホテルがないし、と思ってサイトを見ていると、キャンペーンでいつもより安くなっているチェーン系のホテルを見つけた。

繁華街から少し離れていて、適度に人がいるし、色んなお店もあるし、いいかもしれない。

問題は何泊にするか。いつまでも会社を休むわけにも行かない。でも病気ということで休みを取ったから一週間ならなんとかなる。

着替えも数日分しか持ってきてないし、数日でいいか。でも次の住む家を探す必要もあるから、とりあえず一週間の予約を取った。もし、それより早く見つけられればキャンセルすればいいだけの話だ。

そして次に不動産サイトに行くが、ここで迷った。どの辺を探したらいいのかわからないのだ。とりあえず、今の職場に通うことも考えなくてはいけないにしても、次の職場にアクセスのいいところ、と考えた場合の次の職場がどうなるのかわからないのだ。

家が決まらないと仕事が探せないし、仕事が決まらないと家も探せない。

どうしたらいいんだろう。考えるのにも疲れてきた。ホテルに行って休みたい。でも、チェックインにはまだ少し早かった。アーリーチェックインは可能だろうか。一泊分出てしまうがそれは仕方ない。そう思い、重たい気持ちでホテルへと向かった。


着いたホテルで、アーリーチェックインは可能かどうか訊いたところ、可能だという。しかも一泊分かかるわけではなく、半額程度だったのでアーリーチェックインさせて貰った。

部屋はシングルなので狭い。けれどベッドは大きかったし、ベッドの手前にあるテーブル兼机は広くてベッドからも手が伸ばせるので便利だ。椅子もソファ式になっていてゆったりできる。

とりあえず着替えの入ったバッグをソファに起き、ベッドに横になった。

今日は少し歩いただけで、特に何をした訳でもないのに、妙に疲れていた。それは昨夜、ベッドには入って寝た振りはしたものの一睡もできなかったからだろう。今夜は少しは眠れるだろう。だって家は出てきたから。

ベッドに横になって大きく息を吐く。疲れたな。目を閉じると樹くんの顔が浮かぶ。大学生の頃出会って、卒業して間もなく結婚して三年。長くいれたと思う。出会ったときはベータで、自分がベータであることが申し訳なかった。そして欲が出て、一緒にいたくてオメガになって、これでずっと一緒にいられると思った。結婚したころは幸せだった。でも、三年経っても妊娠できなかった自分。それじゃあベータと変わらなくて。加賀美のオメガとして役立たずだと思った。

樹くんが如月の人間でなければ。普通の家庭の人なら、僕はずっと一緒にいられただろう。でも、樹くんは如月の大事な跡取りだ。しかも一人っ子。つまり、樹くんの後の後継者は樹くんの子供にしか無理なんだ。だから、僕は樹くんの子供を産まなきゃいけないのに、妊娠できなかった。だから身を引くしかないんだ。

ぐるぐると同じことを考えているうちに、僕はそのまま寝てしまった。

目を覚ましたのはスマホの着信音でだった。時間を見ると二十三時だった。着信は誰からかと見ると樹くんからだった。きっとこんな時間になっても僕が帰らないので、電話をくれたんだろう。

樹くんからの着信は想定内だ。だから、夜になったらスマホの電源は落とそうと思っていた。なのに、樹くんのことを考えていたら寝てしまったから、電源は入ったままだった。電話が早く切れないか、とスマホを眺める。コールはなかなかやまず、十五回を超えてやっと切れた。

心配かけてごめん。朝別れたばかりなのに、もう樹くんに会いたい。でも、もう会えない。こんなに好きなのに。こんなに好きだから。会えないことが寂しい。

部屋の中が暗いと余計に気持ちも暗くなりそうで電気をつける。その途端にお腹がなる。そう言えば、最後にきちんと食事をしたのはいつだろう。昨日の朝だっただろうか。空腹を意識したら吐き気がしてきた。多分、低血糖だろう。ゼリー飲料でも買いに行こうか、と考えて昼間買ったサンドイッチを思い出す。持ち帰りにしたからバッグの中に入っている。一口食べようか。

サンドイッチを出して、もそもそと食べる。味が全然わからない。頑張って半分食べるものの、それ以上は食べられなくて、そのまま捨ててしまう。でも、半分でも食べただけましだ。でも、こんな状況でもお腹ってすくし、低血糖も起こすんだな、と思う。食べる気持ちなんておきてもいないのに。でも、少しでも食べないと明日、動けなくなってしまう。そういうわけにはいかないから、頑張って食べた。

でも、食べたことで疲れたのか、僕はシャワーも浴びずに、そのまままた寝てしまった。

そして翌日、まずは住むところを探そうと、支度を済ませて九時にホテルの一階に降りる。軽朝食のサービスがあるから、そこでクロワッサン一個とカフェオレを胃に入れる。

食欲はなかったけれど、外で低血糖を起こしたくないので、少しでも胃に入れておいた方がいいからだ。コーヒーもいつもならブラックだけど、胃のことを考えて、少しは胃に優しいだろうとカフェオレにした。

軽朝食を食べながら、スマホで不動産サイトを見る。


日当たり良好、二階以上、モニター付きインターホン、バス・トイレ別、エアコン付き、駅から徒歩十分以内、家賃八万以内。


大体の希望でサイトを見るけれど、物件はたくさんあるのに希望に合う物件は見当たらない。いいな、と思うと駅から遠かったり、バスだったりする。

バス停まで近ければいいか、と思ったりもするけれど、首都圏のここでは、朝は渋滞で時間が読めない。それで遅刻したりはしたくないから、徒歩がいい。

しかし、それでは物件はヒットしないので、別の方角で探してみるが、結果は同じだ。いくつか場所を変えて検索してやっと一軒ヒットした。

その場で不動産会社に電話をすると、今日午後なら内覧可能、ということで予約をした。それまでの時間、外にいるのも辛いので部屋の清掃は今日は断って部屋で休むことにした。これで部屋が決まってくれれば次は仕事を探せる。

いや、仕事は探さなくても大丈夫かな? 家を出るときに離婚届に記入をし、置いてきた。だからそれで樹くんが記入し、提出してくれれば離婚成立だ。離婚すれば樹くんも僕を探すことはないだろう。いや、今も探しているかわからないけど。

樹くんが探さなければ、仕事は今のままでも大丈夫かもしれない。

樹くんは離婚届を出してくれるだろうか。昨日の今日だからまだ出してはいなくても、記入はしてくれただろうか。

窓口は平日夜間や、土日でも窓口は受け付けてくれるらしいので、少し手間をかけてしまい申し訳ないけれど出しておいて欲しい。

離婚すればもう無関係になるから、職場に来ることはないだろう。そうすればわざわざ仕事をやめなくてもすむ。ベータであれば仕事を探すのもそれほど大変でもないかもしれないけれど、オメガ枠になると求人自体が少ない。そして、その少ないパイの奪い合いだ。そうなると退職は避けたい。

こんなことになるのなら、オメガになんてならなければ良かったのに、と思ってしまう。でも、あの頃は樹くんとずっと一緒にいたかったんだ。それで三年間幸せに暮らせた。その代償だと思うしかない。

午後、部屋の内覧に行った。

部屋の間取りはいいけれど、天井が低いのとマンションからスーパーまでの距離が結構あり、即答はできなかった。

天井の低さが気になったのは、圧迫感があるからだ。賃貸マンションだと文句を言えないのもわかっているが、一人暮らしをしていたときのマンションはここほど天井は低くなかったので、圧迫感はさほど感じなかった。

後は、スーパー。駅からマンションまでの間にあると言っていいのかわからない微妙な立地だった。

駅からマンションに帰る場合は、若干遠回りをしないといけない。

では、週末にまとめ買いを、と考えた場合、少し距離があるのが気になった。

サイトでは、小学校が近いなどの立地の良さをアピールしていたが、こちらは独り身なので関係ない。気になるのはスーパーだけなのだ。

やっぱりサイトで見るだけではわからないよな、とため息をつく。これは、家探しはなかなか大変かもしれない。

内覧が終わって時計を見たら十六時だった。夜になって、また外に出るのは面倒なので、コンビニで夕食用にお弁当を買ってホテルへ戻る。

サイトではこれ以上物件が見つからなかったから、地道に不動産屋を一軒一軒回るしかないかもしれない。とはいえ、街の不動産屋を探すこと自体が難しいと思うんだけど。でも、家を探すにはそうするしかないかもしれない。サイトとダブルで探すか。とすると、ホテルにどれだけいればいいんだろう。あまり長居すると出費も気になる。となると、母と暮らした家に戻るか。

母と暮らした家は、父の住む加賀美の家の斜向いだ。だから、外で顔をあわせることはゼロではない。ただ、仕事をしていたらそれほど気にしなくて大丈夫かもしれない。

どうせ離婚したら、加賀美に戻されるんだ。そうしたら母と暮らした家に戻ってもいいのかもしれない。幸い、加賀美本家の持ち家なので、取り壊しされることもなく、そのまま残っている。僕が家を出たのは、母の呪いの言葉がそこかしこから聞こえてくるようだったからだ。

だから、それさえ我慢すれば帰ることは可能だ。どうせ離婚したら父にはわかる。逃げることはできないんだ。

もう少しホテル住まいをしながら探して、それでもダメなら母と暮らした家に戻ろう。そしてじっくりと探そう。あの家に戻ることを考えると気が滅入るし、嫌だ。

樹くんは、もう離婚届を出しただろうか。と考えて気づく。僕は今、加賀美なのだろうか? それともまだ如月なんだろうか。

それがわからないと賃貸契約のときに困る。まさか、樹くんに電話して訊くわけにもいかない。樹くんの声を聞いたら泣いてしまうだろう。とするなら、明日、役所に行って戸籍謄本を取るか。

いや、もしかしたら離婚が成立したら、如月の家から加賀美に連絡が入り、父から電話があるかもしれない。そうしたら加賀美に戻ったとわかるのだけど、まさか父に訊くわけにもいかない。となると、やっぱり戸籍謄本が無難だ。

そんなことを考えているとスマホが着信を告げる。

そこで、今日は朝から一度もスマホを見ていなかったことに気づいた。朝、不動産屋に電話をしたっきりだ。

バッグからスマホを取り出すと、着信が三件、そしてメッセージアプリは未読メッセージがすごいことになっていた。着信もメッセージも樹くんからだ。なんの用だろう。まさか僕を探している? それとも離婚のこと? 用件は気になるけれど、メッセージを読むと、既読になってしまう。

メッセージが既読になったところで、僕がどこにいるかなんてわからないんだけど。既読無視を決め込むこともできるけれど、怖くてメッセージを読むことは出来なかった。

そんなことを考えている間にもスマホは鳴り続けている。僕は身動きも取れず、ただ鳴り続けるスマホを眺めていた。

どのくらいそうやっていただろうか。やっとスマホが鳴り止んだ。この時間に電話ということは仕事の合間の休憩だろうか。多分、昨夜僕と連絡が取れなくて、掛けてきているんだろう。

樹くんの声が聞きたいな。できもしないことを思う。昨日の朝以来だ。それしか離れていないのに、もう樹くんが恋しい。

馬鹿だな。もう会えないのに。そう考えると涙が出る。いくら離婚届を置いて出てきたとはいえ、嫌いになって別れるんじゃない。樹くんが好きだから。樹くんのために別れるんだ。だから気持ちはまだ樹くんにある。


「樹くん、好きだよ」

誰もいない部屋の中で、小さな声で呟いてみる。その言葉で余計に涙がでてきた。ダメだ。泣いてる場合じゃない。そう思い、涙を拭った。

自分の今の姓が如月か加賀美かを知るのに戸籍謄本を取るのに、現住所と本籍地が違うことを思い出す。加賀美の家は隣の市だが、本籍地は県が違う。なので、戸籍謄本を取るには、わざわざ遠くまで行くか、日数はかかっても郵送やコンビニで取るかだ。

郵送の場合は約一週間程度かかるはずだ。コンビニではどのくらいだろう、と検索すると五日ほどとなっている。となると、その間は家を契約することはできない、ということになる。

それなら、いつまでも仕事を休むわけにはいかないから、自分の今の姓がわかるまで仕事に行こう。その後は嫌でも休まないといけないのだから。

念の為にとスーツとビジネスバッグを持ってきておいて良かった。この先、どれだけの出費があるかわからないから、できるだけ無駄な出費は防ぎたいから。

会社はチェックされる可能性はあるけど、確か今は忙しかったはずだから大丈夫だろう。

よし! 明日は仕事に行こう。