EHEU ANELA

あなたが愛してくれたから

帰宅

翌日、僕はホテルから会社に出勤した。


「体調悪かったみたいだけど、大丈夫?」

会社の自分の席に着くと、同じ部の友坂さんに声を掛けられた。友坂さんは僕より四年先輩のオメガで、普段は一緒にお昼を食べたりと仲良くして貰っている。オメガ枠の採用があるからといって、そんなにたくさんのオメガがいる訳ではないので、こういう同じオメガの人の存在は心強かったりする。


「大丈夫です。ちょっと熱出しちゃったんですけど、もう大丈夫なんで」

嘘をつくのは忍びないが、まさか妊娠しないから家を出てきたとは言えない。友坂さんもオメガだけど、二歳の子供がいる。僕と同じではないのだ。僕も彼のように妊娠し、子供ができると思ってた。


「そう? あまり無理しないでね」
「はい。ありがとうございます」

心配そうな顔をされて、なんだか申し訳なくなるが本当のことは言えないから仕方がない。


「ランチは一緒に行けそう?」
「あ、はい」
「じゃあ、後でね」

食欲はないけど、体調不良と言って休んだからおかしくはないだろう。いつまでも食欲ないと言うのはおかしいだろうけど、しばらくの間は不信感は持たれないと思う。早く樹くんのことを忘れて元気にならなきゃ、と思うけれど、ほんとに好きだから、そう簡単にはいかないだろうな。そう思うと小さくため息をついた。


仕事中は仕事に集中しようと思うのに、頭の中は樹くんのことばかりだった。

帰宅が遅いのに食事作るの大変だけど、きちんと食べてるかな? 樹くんも料理はできるから、時間があれば心配しないけど、最近は忙しいみたいだから、帰ったら疲れているし、作るなんて時間はないだろうしくなのだから、と自分に言い聞かせた。

それより自分だ。ここのところまともに食べてないからふらつくようになってしまっている。早く吹っ切って、もう少し食べられるようにしないと。

今日は夜どうしよう。コンビニおにぎり一個でいいかな。お昼サンドイッチ食べたし、倒れないように頑張って食べてる。

そんなことを考えながら終業時間を迎える。


「お先に失礼します」

仕事は終わったので、残業なしで帰れる。カバンを持って友坂さんに声をかける。


「お疲れ様。ゆっくり休んでね」
「はい」

人の波に従い、エレベーターに乗り込む。食事をまともに食べていないせいか、やたらに疲れる。

エレベーターを降り、ビルを出ようとしたところで誰かに腕を引かれて、ぐらりとする。

急なことでたたらを踏んだけれど、腕を引いた人が支えてくれた。一体誰が、と視線を向けると、それは僕の頭を占める樹くんだった。


「樹くん……」

なんで樹くんがここにいるの? 仕事、忙しいからこんなところで僕を待っている時間ないでしょう。なんで? 探したの?

妊娠もしないオメガなんて必要ないでしょう。でも、樹くんは僕の腕を掴んで離さない。


「優斗。帰るよ」

樹くんはそう言うと、空車のタクシーをつかまえ、僕をタクシーに押し込んでくる。いや、ちょっと待って。僕が帰るのはホテルだ。


「樹くん!」
「話は家に帰ってからだ」

話すことなんてなにもない。僕が三年経っても妊娠しないのなんて樹くんが知っているじゃないか。そう言いたいけれど、真剣な樹くんの表情はとても硬くて何も言えなくなる。

タクシーの中で逃げようもないのに、樹くんは僕の腕を離してはくれない。家で話をして、納得して貰ってからホテルに帰るしかなさそうだ。明日も仕事だけど、大丈夫かな。

会話はひとつもないままマンションに着き、やはり無言で僕の腕を掴んだまま歩く。もう、ここまで来たら逃げないけど、樹くんは離そうとしない。

最上階の部屋まで着き、ドアを閉めるなり、樹くんは僕を強く抱きしめた。樹くんの体は小さく震えていて、泣いているのだろう。


「優斗。黙っていなくならないで。お願いだから俺のそばにいてよ」

そう懇願するように声を振り絞った言葉に、僕は何も言えなくなる。


「言っただろ。俺は優斗を手放せないって。俺の前からいなくならないでって」
「でも……」
「でも、も何もない。なんで俺のそばからいなくなるの? どうしたらいなくならない?」
「樹くん……」
「妊娠しないから、って言うんだろう」

樹くん、気がついていたんだ。なら! なんで僕を迎えになんてきたの。しかも忙しい樹くんがあんな早い時間に。気づいていたなら放っておいて、離婚届だけ出してくれれば良かったのに。なのに、なんで迎えになんてきたの。話なんてすることないのに。


「多分、この間、父さんが無神経な発言したからだろうけど。子供なんてできようができまいが関係ないんだよ。優斗がいればいいんだ。何もいらないんだよ。優斗さえいればいいんだ。どうしてそれがわからない? 俺、付き合い始めた頃言ったよね? オメガにならなくても俺のそばにいて。俺は優斗のこと手放せない、って。あの頃はベータで、優斗はそれを気にしてて。でも、俺には優斗の性別なんてどうだって良かったんだよ。ただ、優斗がいてくれればそれで良かった。今はオメガになったけれど、同じなんだよ。妊娠しようと関係ないんだよ。父さんとかは孫ができたら喜ぶだろうけど、そこに優斗がいなければ意味はないんだ。だから、そんなことで離婚届なんて置いていなくなるなよ。何よりも優斗が大切なんだよ。なんでそれがわからない?」
「樹くん……」

僕が泣かせたにも関わらず、泣き声で必死に言う樹くんがあまりに悲しくて、涙がでてきた。


「優斗。お願いだから俺のそばにいて。昔から言ってるよな。俺の前からいなくならないでって。今回、優斗がいなくなってどれだけ辛かったか。食事なんて喉通らないし、夜なんて眠れないし、仕事だって集中できない」

そうだよ。仕事! なんであんな時間にあそこにいたの?


「体調悪いからって言って早退させて貰った」

樹くんの胸を押して、顔をしっかり見る。さっきはきちんと見てなかったから気づかなかったけれど、顔色が悪い。


「大丈夫?」

自分がしたことを棚にあげて心配してしまった。だって、樹くんがこんなになるなんて思わなかったんだ。


「大丈夫じゃないよ。逆に俺が大丈夫だなんて思ってたの? だとしたら俺の愛情が通じてなかったってことだけど」

樹くんの愛情。わかってる、……つもり。でも……。


「僕も樹くんのこと好きだよ。ほんとに好き。でも、だからこそ出ていったんだ」
「なんで俺のことが好きなのに出ていくんだよ」
「樹くん、前に言ってたよね。子供、早くできたらいいな、って。お義父さんもそう。なのに、僕は三年経っても妊娠すらしない。好きな人を悲しませたくないんだ。だから僕と別れて、誰か好きな人と再婚した方がいい」
「子供できないと俺が悲しむの? じゃあ、優斗がいなくなても俺は悲しまないとでも言うの? それに俺が好きなのは優斗だけだ」
「樹くん……」
「そうだろ。俺は子供云々よりも優斗がいなくなる方が悲しい。優斗がいなくなったこと父さんに言ったら慌てて、申し訳ないって言ってた。母さんも心配してる」
「……」
「もう如月の人間なんだから当然だろ。それとも、もう俺なんて嫌だ? 嫌いになった?」

そんな! 樹くんを嫌いになるなんてそんなことない。僕は大きく首を横に振った。絶対にそんなことはない。好きだから家を出たんだから。もし、好きじゃなかったら、家を出たりなんかしなかった。


「まだ、好きでいてくれてる?」
「当たり前だよ!」

思わず大きな声をだしてしまった。


「なら、そばにいてよ。子供なんて気にしなくていいから。もし、如月のために必要になったら養子を貰えばいい。子供は代わりがきく。でも、優斗の代わりはいない」
「子供の代わりだっていないよ」
「それ以上に優斗が大事なんだよ」

樹くんの言葉に、僕はなんと言っていいのかわからなくなってしまった。僕はそれほどに愛されているの?


「子供を産めないなんてオメガとして失格でしょう。父にも役立たずのオメガって言われて……」
「お父さんに?」
「うん。子供を産めないなんて離婚を言い渡されたらどうするんだ、ってすごい怒られた」
「お父さんなら言いそうだな」

樹くんは小さく笑った。きっと、どんな顔をして言ったか想像がつくんだろうな。それに、父がオメガは子供を産むべき、って思っているって知ってるから。


「お父さんにまた罵られたのなら、嫌な思いをしたよね。でも、それはお父さんだけの価値観であって、如月では一切問題がないんだよ」
「でも、僕は加賀美の人間だから」
「優斗はもう如月の人間だよ。それに、俺も父さんも加賀美とか関係なく、優斗と結婚してるから、加賀美のオメガだなんて気にしたことない」
「樹くん」
「だから、気にする必要ないんだよ。もう加賀美の家に囚われるな」

加賀美の人間だと。加賀美のオメガだと気にしなくてもいいの? もう父の言うことに囚われなくてもいいの?


「優斗を役立たず、出来損ない、なんて言う人間は如月にはいないよ。母さんも言ってたけど、子供は神様からのプレゼントだから。もう、加賀美の家から自由になろう」
「樹くん……」

そう言われて僕は涙が出てしまった。僕は父の言葉に振り回されなくていいの? もう、加賀美から自由になってもいいの?


「自由になっても、いいの?」
「いいんだよ。もともと、オメガは子供を産むマシーンじゃない。その発想がおかしいんだよ」
「そっか……」
「そう。だから、優斗はどこにいたいか、だけ考えて。もう俺のそばにはいたくない?」
「そんなことない!」
「じゃあ、俺のそばにいてよ。帰ってきて……」

懇願するような樹くんの声が辛い。僕は、帰ってきていいんだろうか? 樹くんのそばにいていいんだろうか?


「帰ってきていいの?」
「もちろん! 帰ってきて」
「……うん」
「ほんと? 帰ってきてくれる?」
「樹くんのそばにいてもいいのなら、そばにいさせて」
「いいに決まってる! もう、黙っていなくならないで。約束して」
「うん。約束する。樹くんのそばにいたい」

僕がそう言うと、樹くんは僕を抱きしめる腕を強くして、耳元で囁かれた。愛してるよ、と。だから僕も返した。


「僕も愛してるよ」
と。

「樹くん、痩せちゃったね」

夜、ベッドの中で樹くんの頬に触れながら言う。ほんとに頬がこけて、顔色も悪い。この顔を見ると、僕がいなくなったことにどれだけダメージを受けたかがわかる。


「優斗も痩せたな。食べれなかった?」
「うん。食べれなかった。今日、お昼頑張ってサンドイッチを少し食べたけど」
「俺はゼリー飲料くらい。それも毎食じゃない」
「だから、こんなに痩せちゃったんだ。ごめんね、僕のせいで」
「謝るなら、もう黙っていなくならないで。俺、ほんとに優斗がいないとダメ」
「もうしないよ。約束する。樹くんのそばにずっといるから」
「うん。約束」

そう言って小指を絡ませる。指切りげんまん。もう、一人で勝手に結論づけて勝手に出ていったりしない。この先ももしかしたら妊娠しないかもしれない。でも、それで樹くんから離れたりしない。樹くんが僕なんかいらない、って言うまで僕は樹くんのそばにいる。

もう、こんなふうに苦しめたりしない。


「お義父さんやお義母さんも知ってるの?」
「知ってるよ。俺が父さんに文句言ったから」
「わけ、知ってるかな?」
「タイミング的にわからなかったら馬鹿だろ」

お義父さんに文句言っちゃったのか。後で謝らないとダメだな。確かにお義父さんの言葉はきっかけになったけれど、一番は自分が思っていたからなんだけど。明日にでも、きちんと話をしよう。


「僕が悪いんだから、お義父さんに謝って」
「俺は悪くないよ。きっかけ作ったのは父さんだっていうことは間違いないわけだし」

あぁ。ここの親子関係が悪くなったら僕のせいだ。まさか樹くんがお義父さんに文句を言うなんて思いもしかなった。自分が出ていくことしか考えられなかった。


「樹くん。ほんとに、子供ができなくてもいいの? 一生、自分の子供ができなくてもいいの?」
「そりゃ、自分の血を引いた子供がいたらいいのかもしれないけど、それと優斗を交換にはできない。さっきも言ったけど、子供の代わりはいても優斗の代わりはいないから」
「でも、血が樹くんで止まってしまう」
「そんなの関係ないよ。会社だとか名前だとか関係ない。俺がダメなら部下の誰か優秀なのを社長に据えるだろうし、如月なんて会社を経営しているだけで名門なわけでもないから名前なんて必要ないんだよ。だから俺の血を引いた子供、なんてのに拘る必要はないんだ」
「うん。わかった」

僕は、血に拘っていた。樹くんの血。如月の血。

それは多分、父の、加賀美の影響だ。『オメガは子を産んで、血を守る』そう言って育ったから。だから、自分のことも『加賀美の人間』だと思っていた。大嫌いな加賀美なのに。

結局僕は、子供の頃から母や父に聞かされてきた、血のこと、そして家名。そんなのに振り回されてきたんだ。なんて馬鹿だったんだろう。


「優斗はさ、もうお父さんやお母さんに言われたことから自由になっていいんだよ。子供のこともそうだけど、性別の優劣もそうだし、役立たずとか出来損ない、なんて言われたこともさ、全部忘れていいんだよ。優斗は役立たずでもないし、できそこないなんかじゃないから」

そっか。僕はもう、そんな呪縛から自由になっていいのか。


「それより、お父さんと連絡取ってたんだな」
「取ってたというより、父から電話がたまにあったから。父からの電話にでないと怒られるし」
「なんだ、それ。お父さんには逆らえない感じだし。俺だったら、とっとと携帯番号変えてるよ」

そう言う樹くんの顔には、ほんのり色が戻ってきた。


「もうさ、電話でなくていいよ。なんかあったら、父さんのところに電話あるだろうし。いや、普通、そんなことけしかけちゃダメなのわかってるけどさ」

そうブツブツ言う樹くんは、もういつもの樹くんで僕はホッとした。これで明日からはきちんと食事できるよね? 頑張って食べて貰わなきゃ。あ、僕も少し痩せたから、二人で頑張らなきゃか。週末はどこか行って美味しいもの食べてもいいな。明日、樹くんに言ってみよう。


「優斗、聞いてる?」
「ううん。聞いてない」
「優斗!」

そう言って僕の頬を引っ張る樹くんに、僕は思わず頬が緩む。


「ちょっと、何笑ってるわけ? 人が真面目に話してるのにさ」
「携帯は変えないし、かかってきたら電話は取るけど、もう父のいうことは聞かないよ」
「ほんと?」
「うん。もしやばくなったら、樹くんが戻して」
「わかった。携帯変えれば一発なのに。優斗はほんと甘いんだから。あ、でも俺には甘くなかったな」

やばい。話が変な方に流れそうだ。


「樹くん。好きだよ」
「俺も好きだよ。って、騙されないんだからな。あぁ、ほんと俺って優斗に甘いよな」

そう言って僕の胸に顔を埋めるようにした樹くんが可愛い。そんなこと言ったら怒られそうだけど。


「樹くん。また子作りしてみよう」
「優斗!」
「ダメならダメで仕方ないけどさ、血を残すとかじゃなくて、樹くんの子供なら可愛くて格好いいだろうな、って思って。ダメ?」
「俺の子なんかより優斗の子の方が可愛いよ。でもさ……」
「できなかったらごめん。でも、そんなことより、樹くんの子供、見てみたかっただけ。でも、妊娠しなかったからって出ていったりしないよ。ずっと樹くんのそばにいる」
「ほんと?」
「うん。約束する」
「じゃ、また子作りするか。優斗似の子供」

そう言って僕は数日ぶりに樹くんのぬくもりを感じながら眠りについた。