血を流して倒れている颯矢さんを見て、気は動転しているが冷静にどうしたらいいのか考える。そうだ。救急車だ。後、社長に電話した方がいいかな?
まずは救急車だ。119番通報して、怪我人がいることを伝え救急車の到着を待つ。それから、社長室に電話をし社長に颯矢さんが頭から血を流して倒れていることを伝える。
電話をすると、社長はすぐに来てくれて一緒に救急車を待つ。その時間がやたらに長く感じたのは、やはり冷静ではないんだろう。
やっと来た救急車に社長と2人で付き添いとして乗る。社長はスマホで会社のデータにアクセスし、颯矢さんの緊急連絡先をメモしていた。
病院についてから颯矢さんは治療と検査にまわされる。社長はどこかに電話をしに行ったから、おそらく颯矢さんの緊急連絡先に電話をしていたんだろう。
電話から戻ってきた社長は、俺に缶コーヒーを買ってきてくれていた。
その言葉で、自分が震えていたことに気づく。
でも俺はさっきから自分を責めていた。俺が芸能界を引退するなんて言わなければ、あそこを通ることはなかった。そして、俺を庇おうとしなければこんなことにならなかった。颯矢さんをこんな目に合わせたのは俺だ。
こんなときでも冷静な社長ってすごいな、と思った。俺は自分を責めることしかできていない。次から次へと流れてくる涙を拭うこともできない。
そう言って、僕の手を握る。震えはまだ落ち着いていなかった。
社長はいつもの穏やかな社長だ。俺が社長を好きで尊敬するのはこういうところだ。決して大声を出したりしない。いつも冷静で穏やかな人だ。
社長だって苛立つことだって冷静でいられないときだってあるはずだ。でも、社長は決してそういうそぶりを見せたりしない。俺より年上というのもあるのかもしれないけれど、性格や立場的にというのが大きいと思う。
確かに社長の言う通り、明日の仕事に備えるべきだろう。確かNテレビの入は11時って颯矢さんは言ってた。だからうちを出るのは10時半だったはずだ。
チラリと病院の時計に目をやると、21時だった。ここから帰って21時半ということだろうか。まだ、もう少しなら大丈夫と思って社長を見るけれど、社長はニコリとしながらも首を振っている。帰れ、ということか。
社長はニコリとしてはいるけれど、譲る気はないように見える。こうなると、柊真がなにを言っても無駄だ。
颯矢さんの顔を見てから帰りたかったけれど、まだまだ時間がかかりそうだし、なにより社長が認めてはくれないので、仕方なく家に帰ることにした。
昨日は病院から家に帰ってからずっと泣いていたので、今日は朝早く起きてから目の腫れを取るのに苦戦していた。
時計の針が10時30分を指したとき、スマホが鳴る。
出ると颯矢さんの代わりの臨時マネージャーだった。
エレベーターで駐車場へ降りていくと、見慣れたバンが止まっていた。そしてその前には程よく陽に焼けた細身の男性が1人。恐らく電話をしてきた氏原マネージャーだろう。
さきほどの電話でもそうだったけれど、明るくて元気な話し方だった。颯矢さんが静とするならこの人は動だ。そして陽。そんな感じがした。
氏原さんに言われて、ぼーっとしていたことに気づき慌てて乗った。
氏原さんは思った通り明るい人だった。いや、昨日のことがあったから、あえて明るくしてくれているのかもしれないけど。
昨日の今日でバラエティに出る心境じゃないし、笑えるかもわからない。
そう思っていたけれど、実際に撮影となれば作り笑いは出せた。
その辺は役者をやっているので、演技となればできるのだろう。
Nテレビの撮影を終えてYテレビに移動し、同じようにバラエティ番組の収録をこなす。
仕事だから、演技をしてバラエティ向けのこともできるけれど、心境としては昨日の颯矢さんの姿が頭にこびりついていてバラエティなんて心境じゃない。
でも、これが仕事なのだからやるしかない。
後でテレビで観たときに「仕事もできないのか」なんて言われたくないから。その辺は悲しいかな、好きな人には良く思われたいっていう気持ちだ。
それは、どんなに叶わない想いだとしても変わらない。
だから、集中して撮影していたら、あっという間に撮影が終わった。これで颯矢さんのところに行ける!
撮影が終わり、急いで控室に戻り、メイクを落として私服に着替える。これで颯矢さんの病院に行ける!
でも、氏原さんはスマホで誰かと話をしている。電話は、後にできない?
そう言うと電話を切って、行きましょう、と言う。
昨夜は、俺は今日のスケジュールのために早く帰ったけど、社長はいつまでいたんだろう。颯矢さんの両親が来て、帰ったんだろうか。
考えてみたら、颯矢さんの具合はどうなのか聞いていなかった。大丈夫なんだろうか。すごい出血だったけれど。社長がいる、というのはそういうことだろうか。そう考えると怖くなってきた。
なんで氏原さんが教えてくれないんだろう? そう思うけれど、後少しで病院だし社長がいるなら、社長は知ってるだろうから別に今聞かなくてもいいか。
テレビ局から病院までは30分ほどだった。見舞い時間終了までそれほど時間はない。
氏原さんから颯矢さんの入院する病室の番号は聞いているから、急ぎ足で病室へと行く。
病室は個室だった。多分、俺とか芸能人が見舞うことを考えてのことだろう。
ドアを開けると、ベッドの脇でタブレットを弄っている社長がいた。
ベッドに目をやると、颯矢さんは目を開けていた。でも、俺の顔を見てもなにも言わない。
しかし、それでも颯矢さんはなにも言わない。なんだろう。
え? なに、この会話。思い出したってなに? わからないってなにが? 心臓がドクンドクンと大きく音を立てる。
そう言って社長がナースコールを鳴らす。一度看護師さんが来てから、その後先生がやってきた。
先生の目も、颯矢さんの目も俺を見ている。でも、颯矢さんは、さっきと同じ、わかりませんと答えた。
え? わからないって俺のこと? 冗談にしては笑えないよ。
系統的健忘? なんだ、それ。健忘ってことは忘れているってこと?
先生と社長の間で話が進んでいるけど、なんのはなしをしているのか俺にはさっぱりわからない。
先生が病室を出ていくと社長が口を開く。
颯矢さんが、俺のことだけ覚えてない?
他のことは覚えているのに、俺のことだけ覚えてないってなんで? そう思うと涙が出てくる。忘れるほど俺のこと嫌いだったの?
その思いは、心の中だけでなく口からも出てしまっていたようだ。
ストレス......。
なんのストレスなんだろう。
俺は颯矢さんの私生活についてはなにも知らない。俺についていてくれているときの颯矢さんのことしか知らない。
俺に対してストレスを感じていたんだろうか。そう思ったら涙が止まらない。
そう言われたらうなずくしかできない。でも、泣き止みたいと思っても涙は止まってくれないんだ。
俺の代表作に……。
なんでそんな大事なこと言ってくれないんだよ。
だから、頑張れって言ってくれれば良かったのに。
でも、俺のことそんなふうに思ってくれていたのに、なんで俺のことだけ忘れたりしたの? 今の颯矢さんに訊いても答えはないんだろう。
そっか。俺のことは覚えていなくても、仕事のことを覚えてればマネージャーの仕事はできるのか。そうしたら、また颯矢さんと仕事ができる。だけど、俺のことだけ忘れてる颯矢さんと仕事をするのは少し悲しい。いや、仕事なんだから悲しいもなにもないけれど。
そんな……。
視線を颯矢さんに向けると、俺の方をじっと見ていた。
今の颯矢さんにとって俺は見知らぬ人なんだよな。
ほんとは仕事なんて放って颯矢さんのことを見ていたい。
でも、俺の代表作にしたいって颯矢さんが思っていたのなら、仕事はしっかりする。
ここでいい加減に仕事をして、あとで颯矢さんに幻滅されないためにも。
とりあえず、お見舞いはしていいというから、時間ができたらお見舞いに来よう。そう思ってその日は病院を後にした。