颯矢さんが俺のことだけ覚えていない、という事実は心を抉られるようで辛い。正直、仕事なんてする気になれない。でも、記憶の戻った颯矢さんがそんな俺をなんて思うかわからないし、なにより、今撮影中のドラマを俺の代表作にしたいと思ってくれているのなら、颯矢さんのその気持は無駄にしたくない。
颯矢さんに褒められたいから。
俺のことを自慢に思って欲しいから。
だから俺は辛くても今日も仕事をする。
ほんとは今すぐにでも病院に行って、颯矢さんのそばにいたい。まぁ、俺のことは覚えていないんだけど。
今日も仕事を終えて家に帰ってきた。
ソファーにカバンを置いて、お茶を飲みにキッチンへ行く。
コップにお茶を入れ、ダイニングに腰掛ける。
バンコクに来て半年。仕事も街も慣れてきた。
言葉の方も、会社がお金を出して語学学校に通わせてくれているので、文字も読めるし、言葉も少し話せるようになってきた。先生いわく、語学のセンスがあるという。
仕事の後に語学学校というのは正直疲れる。
そんな疲れたときに考えるのは南のことだ。
どうしているだろうか。元気だろうか。
毎日メッセージのやり取りはしているけれど、直接顔を見ているわけじゃないから、ほんとはどうなんだろう? と思うことがある。
会いたいと思う。でも、仕事なのだから仕方ない。
それでも俺の海外赴任のために延期していた結婚をしよう、ということになった。
そして、それを機にこちらへ来てくれるという。だから、あと少しの辛抱だ。
家族を養うためにも、頑張らなきゃいけない。
と思ったところでスマホが着信を告げる。
颯矢さんのことが心配で、すぐにでも行きたいと思いながらも仕事は集中した。
でも、社長が言っていたように、監督の意気込みがすごい。ほんとにドラマをヒットさせて俺の代表作になればいい。そうしたら颯矢さんも喜んでくれるかな。
笑っちゃうくらいに颯矢さんのことばかり考えている。
今日の撮影を終えて控室に戻る。時計を見ると19時だった。急いで着替えていけば少しは颯矢さんの顔を見れるかもしれない。
病院に寄りたい、という前に氏原さんに寄るかと訊かれた。
こうやって気を使ってくれているのが、申し訳ない反面ありがたい。
急いでメイクを落とし、私服に着替える。少しでも早く病院に行って、少しでも長く颯矢さんのそばにいたい。
撮影所から颯矢さんの入院している病院まで、途中渋滞に巻き込まれて40分ほどかかってしまった。
面会時間は20時までなので、後10分ほどしか残っていない。
ドアをノックして開けると、テレビを観ていた。
何を観ているんだろうと覗き込むと、俺のデビュー作となったドラマだった。
恐る恐る声をかけると、颯矢さんがこちらを見る。声をかけたのはいいけど、なんて言っていいのか悩む。そうしたら、颯矢さんの方から声をかけてくれた。
このドラマのときだってマネージャーしてたのに、それも忘れちゃってるのか。
それに、俺に関する記憶がすっぽり消えているから仕方ないけど、颯矢さんに『城崎さん』と呼ばれるのは辛い。いつもみたいに柊真って呼んで欲しい。
でも、記憶がないんだもんな。
颯矢さんと氏原さんが話しているのを聞く。俺以外の人のことは普通に覚えてるんだよな。覚えていないのは俺に関することだけ。それを見せつけられて悲しくなって泣きそうになる。でも、泣くわけにもいかなくて、シャツの裾をぎゅっと握って唇を噛んだ。
颯矢さん、なんで? なんで俺のことだけ忘れたの?
社長はそんなことないって言ってくれたけど、やっぱりほんとは俺のことが嫌いだったんじゃないかって思ってしまう。
そんな俺の様子に気づいたのか、颯矢さんが言う。
颯矢さんは俺がデビューしたときからついていてくれてたから、颯矢さんの知らない作品はない。
ねぇ、いつになったら思い出してくれる? いつになったら、その声で柊真って呼んでくれる?
それとも俺のこと嫌いだから永遠に思い出さない?
これ以上、この場にいられなくて、また来ますと言って病室を出た。
今日はドラマの撮影の前に雑誌の仕事だ。まずは写真撮影から。映像として撮られるのはもう慣れているけど、写真という静止画を撮られることはあまり慣れていない。
裏方さんの1人から花束を受け取り、俯く。
カメラマンの言う通りに目を閉じる。
切なげな表情がいいって、最近切ない日が続いているからだよな、とポーズを取りながら考える。
カメラマンが帰っていく。写真撮影が終わったので、後はインタビューだけだ。
インタビューは、ドラマのバンコクでのロケを中心に行われた。
30分くらいインタビューを受け、雑誌の仕事は終わった。
控室に戻ると、氏原さんが時計を見ていう。
病院に行っても颯矢さんは俺のことを覚えていない。それでも、もしかしたら思い出してるかもしれない。俺の顔を見て思い出してくれるかもしれない。
いや、思い出さなくても俺が颯矢さんの顔を見たいだけだ。今まで毎日のように顔をあわせていたのに、急に顔を見なくなったら寂しい。
急いで私服に着替え、車を出して貰う。
運転しながら氏原さんが言う。
仲が良かったっていうのか? 良かったのかな? 付き合いが長かったから俺が全部を言わなくてもわかってくれたというのはある。
でも、頻繁に病院へ行くのは颯矢さんのことが好きだから。好きな人にはいつだって会いたいって思うじゃないか。
つい弱気になって言ってしまうと、でも、と氏原さんは言う。
窓から流れゆく景色を眺めながら氏原さんの話を聞く。
そうならいいけど。でも、他のことは何ひとつ忘れてないのに、俺のことだけ忘れているというのがひっかかって、嫌われてたんじゃないかって不安になってしまってる。
もし、俺のことを嫌いで俺のことを忘れたのなら、俺のことを知らない今、嫌われるようなことをしなければ、颯矢さんは俺のことを好きになってくれるだろうか。
恋愛の好きじゃなくても、人として好きになってくれるだろうか。頭を打っても俺のことを忘れないように。
平日の昼間ということもあって、渋滞に巻き込まれることもなく車は20分ほどで病院に着いた。そんなに長い時間いられるわけじゃないから、急ぎ足で廊下を歩く。少しでも長く颯矢さんといられるように。
ノックをし、ドアを開けると髪の長い華奢な女性がベッドの脇に座っている。
あ!
女性に気が言ってしまい答えられない俺に変わって、氏原さんが代わりに答えてくれる。
俺は女性から目が離せない。多分、香織さんだ。颯矢さんのお見合い相手で、結婚を視野に入れて付き合っているという人。
とても女性らしい感じの人だった。
そうだよ。好きになって貰うのなんてはなから無理なんだよ。颯矢さんはゲイじゃない。それが証拠に女性のこの人と付き合っている。
颯矢さんは俺を褒めてくれるけれど、ちっとも嬉しくない。
香織さんが言うのを遮る。
氏原さんがそう言ってる間に、俺は病室を出た。一秒でもあの空間にいたくなかった。
そうだよ。はなから勝負になんてならないんだ。記憶が戻っても戻らなくても颯矢さんは香織さんと結婚する。俺の出番なんてないんだ。