社長と話をしてからずっと俺は休暇のことを考えていた。長期休暇の結果、芸能界をやめていく人は実は結構いる。としたら、その手を使ってもいいんじゃないか、と思ったからだ。
それでも、その手はなんだか卑怯な気がしなくもない。だって、俺の方はフェードアウトを狙って動いているのに社長の方は戻ってくる前提で待っているわけだ。
なのに俺は、例えば1年の休暇と言いながらずるずると2年、3年と休暇をのばしていくのだ。それはずるいと思うのは俺だけだろうか。
それに、俺が戻ってくると思って仕事を入れてしまうこともあるかもしれない。そうしたら違約金とかかかるんだろうか。
社長の出した引退の代替え案は、とても魅力的だけどそれに乗ってずるをしようとはどうしても思えないし、もし仕事を入れられてしまったらと思うと魅力的だけど少し危険な気がしてしまう。そう思うと社長の案に簡単に乗ることはできなかった。
今日はドラマの最終回の航と南の結婚式のシーンだ。
亜美さんはかわいい感じの裾のふわりとしたウエディングドレスを着ていて、俺はシルバーのフロックコートを着ている。
俺は元々結婚願望がないので、新郎のこんな格好をするのは最初で最後かもしれない。
とお互いに褒めあう。もしかしたらこういった衣装は、気持ちがあがることで余計に良く見えるのかもしれない、と考えてみる。
でも、と思う。そう遠くない将来、颯矢さんは撮影ではなくリアルで結婚式をあげるのだ。そう考えると、これから撮影だというのに泣きたくなってしまう。
だけど、きっと俺は結婚式には呼ばれない。だって、今の颯矢さんは俺のことを覚えていないし、結婚式の招待状を出すまでに記憶が戻るとは限らないからだ。
そして万が一、記憶が戻って俺のことを思い出したとしても、俺の気持ちを知っている颯矢さんが俺を呼ぶとは思えない。だって、記憶を失うくらい俺のことが嫌いなのだから。
そう1人でネガティブに考えていると監督の声が聞こえる。撮影のスタートだ。
大安の晴れ間。俺と南は結婚した。
俺のタイへの赴任のため、一時は話がなくなるんじゃないかと思われたけれど、そんなことには至らず、今日結婚式を挙げる。
俺は1人で牧師の前に立ち、南がお義父さんと入ってくるのを待つ。
ウエディングマーチと伴に入場してきて、南はお義父さんの隣から俺の隣へと立つ。
そして牧師が誓いの言葉を言う。
キスは何度となくしてきているけれど、誓いのキスはなんだか特別な気がした。
監督が映像を確認するときに俺も緊張しながら一緒に確認をする。大丈夫そうな気がするけれどどうだろうか。
監督のカットの声が聞こえてホッとする。一発OKだ。
そして、このドラマの撮影もこのシーンで最後だった。クランクアップだ。
そう言ってスタッフさんから大きな花束を貰う。
数ヶ月に渡る撮影を終えるのは、ホッとする反面寂しさもある。
相手役の亜美さんと挨拶を交わす。
その後は、監督、助監督、カメラマンさん、その他スタッフさんに1人ずつ挨拶をしていく。
撮影期間は、演者、スタッフは一つの家族のようなものになる。
その家族と離れるのは、いつも少し寂しく感じる。
挨拶を終えた俺は控室へと戻る。すると、氏原さんが少し焦ったような様子で俺を待っていた。なんだろう。
氏原さんから、颯矢さんが記憶を取り戻したと聞いて、心臓がバクバクいう。
颯矢さんが俺の記憶をなくして1ヶ月。
初期の頃になかなか記憶が戻らなかったから、もっと時間がかかるのかと思った。思い出すことはないんじゃないかとさえ思っていた。
だけど、ほんとに記憶は戻ったんだろうか。録画で俺を見ているから、記憶が戻ったと勘違いしてるんじゃないだろうか。つい、そんなふうに疑ってしまう。でも、それも俺が実際に病院に行けばわかるはずだ。
急いでメイクを落とし、着替えをしてから速攻で車に乗り込む。
俺のこと自慢なんてしてたの? 記憶を失くすんだから俺のことを嫌いなのかと思ってた。氏原さんにそう言うと、氏原さんは笑った。
そう言われて、何も言えなくなってしまった。もし、ほんとに記憶を戻していたらなんて言おうか。いや、それは「ありがとう」だろう。身を挺して庇ってくれたんだから。
そう考えると早く颯矢さんに会いたくなってしまった。
道路は俺の気持ちを汲んでくれたのか、渋滞に巻き込まれることなく病院に着いた。
車が病院に着くと、気が急いてつい廊下を小走りに走ってしまい、看護師さんに怒られてしまった。
注意をされ、走ることをやめたけれど、それでも早歩きになってしまうのは止められなかった。だって、颯矢さんが俺のことを思い出したかもしれないんだ。そんなの走りたいに決まってる。
病室のドアをノックし、中から声が聞こえてくる前に開けてしまう。
ベッドには颯矢さん、ベッド脇には社長がいるだけだ。俺がほんの少し怖がっていた香織さんはいなかった。そんなにいつもいるわけではないようだ。
飛び込むように病室へ入ると、颯矢さんが優しい笑顔を浮かべていた。
こんなに優しい颯矢さんの笑顔を見たのはいつぶりだろうか。以前はよく見ていたけれど、俺が颯矢さんに壁を作るようになってから見ることはなかった。その笑顔を見て俺は泣きそうになる。
その一言で俺の涙は決壊した。
大きく頭を下げる俺の肩を抱いて、社長が俺を座らせてくれる。
俺の自慢……。
さっき氏原さんが言ってた。颯矢さんが俺のことを自慢してるって。それはほんとだったの?
社長の言葉に頷く。
そんなことはない。そう伝えるために俺は首を横に振る。
記憶を失くしたのは颯矢さんのせいじゃない。頭を強く打ってしまったからだ。
それに、記憶を失くしたのがたまたま俺だっただけだ、きっと。
でも、社長が、ストレスで記憶をなくすことがあるって言ってたけど、そのストレスってなんだったんだろう。
きっと、それは俺が知ることのない、私生活の部分なのかもしれない。
そう言われて、先日NG続きになったことは言えない。でも、黙り込んだ俺を見て、答えを悟ってしまったらしい。
いつの間にか氏原さんも病室に来ていて、俺のことを庇ってくれる。
そっか。マネージャーは颯矢さんに戻るんだ。
社長が少し意味深に言う。そうだ。俺の引退話は宙ぶらりんのままだ。そのことはまた時間を改めて社長と話さないといけない。
でも、今は颯矢さんが記憶を戻したことが嬉しいから、そのことは一旦考えることをやめよう。せめて今だけは。
そうやって4人で仕事のことをわいわいと話していると、病室のドアが軽くノックされてから静かに開けられた。ドアを開けたのは香織さんだった。
それまで颯矢さんが記憶を取り戻したことが嬉しくて、久しぶりに颯矢さんとも話していたのに一気に現実を突きつけられた気がした。