EHEU ANELA

Always in Love

記憶と引退 02

「香織さん」
「今、看護師さんに記憶が戻られたと聞いたんですが、ごめんなさいお仕事のお話中でしたか?」
「少しね」
「それでしたら、退院も近いようなので退院されてからで結構です。特に用があるわけではないので」
「また連絡します」

そう言って帰っていく香織さんに、声をかける颯矢さん。その光景に胸がツキンと痛む。

そうだ。颯矢さんが記憶を取り戻して優しい笑顔を見せてくれていたって、それは仕事だ。

颯矢さんが本当に優しい笑顔を見せるのは香織さんにだ。現にさっきの颯矢さんの声は柔らかかった。俺が聞いたことのない声だった。

そう思った瞬間それまでの嬉しさは一瞬でなくなり泣きそうになった。


「柊真、どうした?」

俺の様子に気づき、颯矢さんが声をかけてくれる。でも、それに答えることができなくて唇を噛み締めて首を横に振る。声を出したら泣き声になってしまいそうで口を開くことはできなかった。

そんな俺をフォローしてくれたのは社長だった。


「クランクアップしたから、疲れが一気にきたんじゃないかな。壱岐くんの心配もしただろうし」

そして、それに乗ってくれたのは氏原さんだった。


「最近はまた集中していたので、そうでしょうね」
「ドラマの撮影は終わっても、テレビでの宣伝は残っているだろう。気を抜くな。それに俺のことはもう心配しなくていいから」

フォローしてくれる氏原さんと厳しいことを言う颯矢さん。対照的だな、と思う。

でも、颯矢さんが厳しいことを言うのは俺のためだとは知ってる。知っているけど、今は少し辛い。

香織さんに向ける優しさの十分の一でいいから、俺にも向けて欲しい。そう思うのはわがままだろうか。きっとわがままなんだろう。


「氏原くん。明日の柊真は何時から?」
「明日は12時からのお昼の番組で宣伝なので10時に迎えに行きます」
「そうか。疲れているなら帰って休んだ方がいいかもしれないね」
「帰ります」
「じゃあ柊真。今日はお疲れ様。壱岐くんの記憶も戻ったし安心しなさい」
「はい」
「俺も退院したらすぐに復帰するから安心しろ。心配かけたな」
「……」
「じゃあ、城崎さん送ります」
「お願いします」

最後は颯矢さんの顔もまともに見れずに病室を後にした。

颯矢さんの記憶が戻って、ほんの少しだけど優しい笑顔を見ることができてほんとに嬉しかった。それなのに香織さんの姿を見て、そしてまた厳しい颯矢さんに戻ってそんな気持ちは一気になくなった。

そうだよ。俺は颯矢さんにとっての仕事で、香織さんは颯矢さんのオフだ。どんなに颯矢さんが優しくたって、それは仕事だからだ。その仕事でだって優しいときよりも厳しいときの方が多いんだ。

颯矢さんが優しくなるのはきっとオフのときで、その時間は俺は触れることができない。そのオフは香織さんのものだ。俺がどれだけ欲しいと願っても手に入らない。そんなこと忘れるなんて馬鹿だな。


「城崎さん。どこか寄るところはありますか? 今日、まだ夕食食べてませんし」
「そしたら、家の近くのスーパーで降ろしてください」
「わかりました」

今日はスーパーで好きなお弁当でも買って、プリンでも買って帰ろう。お酒はまだあっただろうか? 冷食はだいぶ少なくなったから買っておかないと。

そうやってスーパーで買う物を考えることで颯矢さんのことを意識的に外に出す。でないと、ここで泣いてしまうから。

スーパーで降ろして貰い、お弁当、プリン、お酒、冷食と必要なものをカゴにどんどん入れていく。なんだか寂しい買い物だな。母さんの作ってくれた料理が懐かしい。母さんはどんなに忙しくても時間を作って俺の食事を作ってくれていた。でも、そんな母さんはもういない。

お惣菜って便利だけど体には良くないと聞く。俺もこういう少しでも時間があるときは作るようにした方がいいかもしれない。誰にも甘えられないんだから。後でネットで料理チャンネルでも見てみよう。

スーパーで買い物を済ませ家に着くと、自然とため息が出た。

買ってきたお弁当を温める間に着替える。明日は10時って言ってたから、少しゆっくりしても大丈夫だろう。お弁当を食べたらデザートにプリンを食べてお酒を少し飲もう。そうでもしないと悲しくてどうしようもない。

美味しいデザートにお酒を呑めば、少しは気も紛れるだろう。

そう考えながらお弁当を温め、ダイニングでお弁当を食べながら病院でのことを考える。

記憶が戻って、あんなに優しい笑顔を久しぶりに見れてほんとに嬉しかったんだ。また颯矢さんがマネージャーに戻ってくれるって思って浮かれた。

でも、香織さんの顔を見た瞬間、嬉しかった気持ちは一気にしぼんでしまった。現実を思い知らされたんだ。

どんなに望んだって颯矢さんは俺のものにならない。そんな現実を突きつけられた。

俺には基本、厳しい颯矢さんだけど、きっと香織さんには優しいんだろう。優しい笑顔を向けるんだろう。

なんで俺はタレントとして颯矢さんに出会ってしまったんだろう。なんでオフで颯矢さんと出会えなかったんだろう。

ああ、でもオフの颯矢さんと出会っても俺は男だ。颯矢さんの恋人になることはできない。そっか。どう出会っても叶わないんだな。

なんで颯矢さんと出会ってしまったんだろう。出会う前は普通に女性を好きになっていたのに。そしてこんなに苦しくなる恋愛なんてしたことなかったのに。

颯矢さんを好きで好きで苦しくて。それを本人に伝えてもかわされてばかりで、きちんと受け取って貰えない。だから叶うことがないのに、きちんと失恋することさえできない。

いや、颯矢さんは香織さんと付き合っているんだから、それは失恋したことと一緒か。

どうしたらこの胸を痛みを和らげることができる? どうしたら颯矢さんへの想いをなかったことにできる?

颯矢さんへの想いを昇華させたい。でも、颯矢さんが俺に対する記憶が戻ったから数日後にはまた俺のマネージャーに戻る。

そうしたらまた毎日颯矢さんの顔をを見なくてはいけない。そんな酷なことってあるだろうか。

やっぱりもう無理だ。これ以上颯矢さんへの想いを抱えてはいられないし、忘れることもできない。

休暇という代替え案をくれた社長だけど、やっぱり完全に引退することを納得して貰おう。もう、これ以上は無理だ。

翌日、亜美さんと2人でお昼の生放送でドラマの宣伝をする。撮影現場の話しで盛り上がる。お昼の情報番組は肩の力を抜けるので意外と好きだ。

盛り上がった後はCMに入った瞬間に仕事終了。


「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」

今回のドラマは力が入っていた分、番宣も多い。現に明日もそうだ。でも、それも後少し頑張れば終わる。

控室に戻ると、氏原さんがアイスコーヒーを用意してくれていた。まだお昼だけど今日はこれで終わりだ。


「城崎さん。社長ですが、突然だけど今日なら1日空いているそうなので時間が取れるそうです。城崎さんもこの後は予定がないので、個人的な用事がないのなら今日はどうでしょうか」

俺は番宣をしている間に、社長のスケジュールを訊いておいて貰っていた。引退の話をするために。

今日は夜、俳優仲間と食事へ行く約束があるけれど、それまでは時間が空いている。


「じゃあ、この後家に帰る前に寄ってもいいですか?」
「わかりました。確認します」

氏原さんに確認して貰っている間に、アイスコーヒーを飲み、置いてあったパンを一口食べる。これが俺の今日の昼ご飯だ。

パンを2個食べたところで氏原さんは電話を終えた。


「これから大丈夫だということです」
「ありがとうございます。じゃあ、帰りに事務所で降ろしてください」
「わかりました」

この後に社長とのアポが取れたので、急いでメイクを落とし、着替える。

今日は社長を納得させることができるかな? そう考えて小さくため息をつく。納得して貰わないとダメなんだ。

急く気持ちを反映するように、道路もすいていて事務所へは20分程度で着いた。


「この後は1人で帰れるので、氏原さんも終わりにしてください」
「そうですか? では、明日は16時からバラエティ番組の収録になるので、14時に迎えに行きます」
「わかりました。お願いします」
「では、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」

社長との話がどれくらい時間がかかるのかわからないので、氏原さんには上がって貰った。きっと事務仕事をしていればいい時間にはなるのかもしれないが、今は1人になりたかった。

6階に着き、戸倉さんに挨拶をし、社長室をノックする。


「失礼します」
「あぁ、柊真。お疲れ様」
「お疲れ様です。急に申し訳ありませんでした」
「いや、いいよ。要件はわかってるしね。引退の件だよね?」
「そうです」
「昨日の柊真の様子で、近いうちに連絡あるかな、と思っていたよ」
「忙しいのに申し訳ありません」
「いや、それはいいよ。これも立派な仕事だからね。で。昨日のことで、やっぱり引退したいと思った?」
「はい……」
「前に言ったけど、休暇じゃダメなのかな? 年単位で構わないよ。1年か2年。それでどうだろう」

1年というのは想定内だったけれど、2年は考えてなかった。そんなに長く休暇を認めてくれるとは思っていなかったからだ。


「1年なり2年、海外で生活してみたらどうだろう? 海外で生活したかったんだよね? 時間は限られているけれど、十分体験できるんじゃないかと思うけど、どうだろう?」
「引退は認めては貰えませんか?」
「城崎柊真は手放せないな。どれだけ話し合ってもこれだけは譲れない。柊真はまだまだ可能性がある。それは僕と壱岐くんの共通の認識だ。だから引退という言葉に頷くことはできない。僕も壱岐くんももっともっと大きくなった柊真を見たいんだ」

やっぱり引退は無理なのだろうか。そうしたら、休暇からフェードアウトしていくか?


「今、フェードアウトしていくこと考えたでしょう」
「え?!」
「わかるよ。それくらい。でも、ごめんね。それは認めてあげられないかな」

そう言って社長は小さく笑う。

休暇を認めてくれるのは嬉しい。でも、そのままフェードアウトできなかったら意味がない。自由になって、颯矢さんのことを忘れたいんだ。


「その代わり、交換条件として、戻ってきてくれた後のマネージャーは壱岐くんから他の人に変えてあげる。それならどうだろう」

社長の提案に考える。

2年タイで暮らして、芸能界に戻るけれど、マネージャーは颯矢さんから他の人に変えて貰う。それならもう、颯矢さんに会わなくて済む。心乱されることもなくなる。

2年海外で暮らすことで気持ちも落ち着いてくるだろう。そして帰国後は会うことがなければ大丈夫かもしれない。颯矢さんを忘れることができるかもしれない。そう思うといい提案だと思える。


「でも、海外で仕事をすると、城崎柊真だとバレちゃうと思うんですけど」
「んー。それが問題だよね。事務仕事とかがあればいいんだけど、海外で仕事というとだいたいは日本人観光客相手になるだろうから、まぁ、他人の空似で通して貰うしかないだろうね。相手もまさか本物の城崎柊真がいるとは思わないだろうから」

そうか。そういう手もあるのか。

そう考えるとほんとにいい案だと思える。


「ほんとにマネージャー変えて貰えますか」
「約束だからね。城崎柊真を失うくらいならマネージャーを変えることなんか問題ない。氏原くんが良ければ氏原くんに変えてもいい。その間、氏原くんには他のタレントに付いて貰うけれど、柊真の帰国に合わせて調整するよ」

全く知らない人に付いて貰うより、少し慣れてきた氏原さんに付いて貰う方がいいかもしれない。


「それなら、2年の休みをください。それと、復帰後のマネージャーはできれば氏原さんにお願いします。その条件なら」
「その条件ならいい?」
「はい」
「よし、じゃあ決まりだ。期間は今入っている仕事が終わってから。多分2週間くらいで終わるんじゃないかな? 番宣とCMが1件だっけ?」
「そう聞いてます」
「じゃあ後で氏原くんに調整して貰おう」
「お願いします」
「2年、海外に行くことは認めるけど、連絡だけは取れるようにしておいてね。向こうでも携帯は持つだろうから、そうしたら電話番号は教えてね」

2年、自由にさせて貰えるなら電話番号くらい知らせる。


「わかりました」
「うん。じゃあ、それで決まりね」

引退とはいかなかったけれど、颯矢さんと距離を開け、忘れるには十分な時間を貰った。2年もあれば颯矢さんは結婚しているだろう。

帰国後も氏原さんにお願いすれば、他人のものになった颯矢さんを見なくて済む。これで僕の恋心は終わる。