EHEU ANELA

香戀歌〜千年の時を越えて〜

貴方を思い出した 1

夢の中。風ひとつない静かな山。聞こえるのは、真夏が足元の落ち葉を踏む音だけだった。周囲は深い霧に包まれていて、少し離れたところさえ霞んで見える。

今、真夏がいるのは、大きな岩のすぐ傍だった。そして、目の前には銀色の髪の人――博嗣だけだった。昔と違いTシャツにGパンという今どきの格好で、Tシャツを着た鬼って面白いな、などと暢気に思っていた。

しばらくは会話もなく、ただ静か互いの姿を見ているだけだった。沈黙を破ったのは真夏だった。


「ほとんど思い出しました。俺、あなたを庇って死んだんですよね?」

一応疑問形にしてみたのは意味がない。目の前の博嗣を庇って、そして矢で射たれた自分を見て彼は自分のことを”真夏”と呼んだ。

真夏と呼ばれた自分は髪を結い上げ、烏帽子を被っていたので今とは印象が少し違うけれど、あれが自分なのは自信を持って言える。だからあれは間違いなく、過去ー平安時代ーの真夏なのだ。

そして博嗣はあの頃と何も変わらなかった。銀の長い髪を垂らし、白い着物の上に色のついた単衣を着ていたが、今は今どきらしい格好をして、銀色の髪は後ろでひとつに結んでいる。

今までは過去を見ていたから、博嗣は着物を着ていた。でも、今日は違う。今の時代の博嗣と真夏だ。

博嗣は、真夏の言葉を聞いて唇を噛みしめて、言葉を発しない。ただ、その表情から悔しさとも悲しさとも言える感情が垣間見えた。そして、やっと言葉を口にした。


「だから、私に関わってはいけない」

悲しさに沈んだその瞳は、きっと心の中で、あの真夏が矢に倒れたことを思い出しているのだろう。平安時代から今まで、この人は何度思い出したのだろう。それを思うと真夏は胸が苦しくなった。

真夏はいい。死んでしまった側なので苦しさはない。けれど、博嗣は残された側だ。残された側の苦しさ、辛さ、悲しさは真夏が考えているよりもずっと辛いだろう。まして、それを共有できる相手がいないのだ。平安時代から今まで。千年以上の時が流れている。その間、1人でずっと思い出していたのだろう。

そう言えば、自分は生まれ変わりだけど、この人はどうなのだろう、と真夏は考えた。人間の寿命は長くても百年だ。でも、鬼はどうなのだろう。なんとなく、あの頃からずっと生きているような気がした。真夏が記憶を思い出したと言った時の顔が、自分も記憶を思い出したものだとはなんとなく思えなかった。


「それはあなたの本心ですか?」

唇を噛みしめて辛そうな、悲しそうな顔をするのを見ていると、それは本心ではあるだろうけれど、それだけではない気がするのだ。それとはまた別の本心があるのだと。


「……」
「どんな感情でも構わない。教えてください。俺は逃げません。あなたからも、あの過去からも」

それは今の自分が彼に差し出せる覚悟だった。

この人は千年以上、1人で辛い思いをしていた。けれど、これからはもうその辛さを味わわなくていい。自分が傍にいることで、笑顔を見せて欲しいと思う。スッと鼻筋の通った綺麗な顔をしているから、笑ったらきっととても綺麗なはずだ。そんな笑顔を見てみたいと真夏は思った。


「もう俺とは会いたくないですか? それならそう言ってください。それなら俺はもう何も言えない。でも、もし少しでも会ってみてもいいと思うのなら、拒否しないでください。もう怖がらなくても大丈夫です。もう鬼狩りなんて起こらない。だから誰もあなたの命を狙ったりしないし、私があなたを庇って死ぬといったこともありません。だからシンプルに会いたいか、会いたくないか。それだけで考えてください」

真夏の言葉に博嗣は静かに考えていた。


「もう、失いたくはないのだ。私を庇ってお前が死ぬのを見ていくのは嫌なのだ」
「それなら! 会ってください。現実で」

真夏の言葉に博嗣は静かに目を閉じた。霧の中、時が止まったように2人は立ち尽くす。風もない。音もない。けれどその沈黙は冷たくも重くもなかった。ただ静かで、優しく痛みを含んでいた。


「千年以上……お前を思って生きてきた」

やがてぽつりと博嗣が言った。


「忘れられたのなら、そのままでも良かった。2度と会わずに、心の中でただ美しくいられれば良かった」
「それって、全部1人で抱えていたってことですよね? ずっと、あの山で」
「1人は慣れていた。だが、あの日から時間が止まってしまった」

その言葉に真夏は胸が痛くなった。自分が生まれ変わって、何も思い出さずに兼親と平凡だけど楽しい生活を送っていた時、博嗣はたった1人で過去に取り残されたままだったのだ。そう思うと胸が痛くなるのも当然だった。


「俺は――あなたを置き去りにしてしまったんですね」
「違う。お前は死んだ。私を庇って。だから私だけが残った。あの時、私も殺されていれば良かったのに、誰も殺してはくれなかった」

博嗣はそう言って視線を落とし、指先で何かを確かめるように手を握りしめる。


「お前がまた目の前で私を庇って死ぬ夢を何度も見た。何百回も何千回も。それでも私はお前を止めることができなかった」

声が掠れていた。角のある鬼の姿をしていても、その孤独と悔しさは、人間のそれと全く変わらなかった。


「でも、俺は今、こうして生きてここにいます。もう過去とは違う。だから怖がらないでください。もう誰もしなない。殺そうなんて思わない。誰も奪われない世界なんです。だから、あなたももう1人じゃない」
 

真夏が一歩踏み出す。足元で落ち葉のカサリという音がした。


「だから、あって欲しい。現実で。あなたとちゃんと生きて向き合いたい」

博嗣は顔をあげた。その目には深い迷いがあった。それでも、真夏の瞳を見つめ返し、しばしの沈黙ののち、静かに言った。


「……記憶を全部取り戻したら、会おう」

それはひとつの条件であり、約束だった。過去の全てを背負った上で、それでもなお自分を選んでくれるのか。その答えを博嗣は求めていたのだ。真夏はその言葉をしっかりと受け止めて、深く頷いた。


「もう少し。あともう少しで全部思い出したことになります。だから少しの間待っててください。必ず、会いに行きます」

その時、霧の向こうで風が吹いた。どこかで笛の音が響いた気がして、真夏は目を細めた。


静かな霧の中で交わされた約束。「記憶を全て取り戻したら会おう」という言葉を胸に真夏は静かに頷いた。その時、博嗣がふと視線を遠くに移した。霧の向こうに何かを見ているようだった。


「お前がかつて命を落とした場所の近くに祠を建てた」
「祠?」

真夏が聞き返すと、博嗣はゆっくりと歩き出した。ためらいがちだった足取りが、次第に確かなものになっていく。真夏もそのあとついていく。2人が踏む落ち葉の音だけが世界にあった。

 
「お前の魂がいつか戻ってきた時に迷わぬように。千年もの間、誰にも見つからぬように、2人がいつも会っていた岩から近く、それでも見つからない静かな場所に建てた」

霧が少しずつ晴れていく。風もないのに不思議と視界が開けていくようだった。木々の間を抜けると小さな沢が現れ、その傍にぽつんと小さな祠が見えた。苔むした石段が、わずかに斜めに崩れかけている。それでもどこか清らかで穏やかな空気に包まれていた。


「これを、あなたが?」
「ああ。1人でな。山の者たちも誰もめったに寄りつかない場所を選んだ。人の目に触れてはならぬと思ったんだ。お前をこれ以上誰かの憎しみや恐れと結びつけたくなかったんだ」

祠は木に守られるようにして立っていた。小さな石の囲いがあり、そこに真夏が跪くと、確かに胸の奥が熱くなった。懐かしさともなんとも言えない感情がこみあげてきた。


「ここに……」
「ここに、お前がいた証しが残っている」

博嗣の声は低く、けれど確かだった。真夏は手を伸ばし、祠の扉にそっと触れた。霧の冷たさと、そしてどこか懐かしい感触だった。


「不思議ですね。初めて来たのに、ずっとここを知っていた気がする」
「魂が覚えているのだろう」

祠の横には笹が植えられていた。風に揺れる笹の葉が、さらさらと音をたてる。その音に混じって、どこからか笛の音が聞こえた。振り返ると博嗣の手の中に一本の笛があった。それは、どこかで見たことがあるような気がした。


「覚えているか?」
「……いいえ。でも、何か知っている。もう少しで出てきそうです」
「そうか。では、この笛について思い出してくれ」
「はい。そうしたら、今度こそ会いに来ます。今度はこの笛のことも思い出した俺として」
「待っている。現でお前の声を」

2人の間に静かに霧が戻り始めていた。現実の夜明けが近いのだろう。夢の中の空が少しだけ明るみを帯びていった。


「祠の場所、覚えておきます。ここが……再会の場所になるんですね」
「そうだ。忘れるな。夢が消えても、ここだけは……」

言葉の続きを聞くより先に、視界が白く揺らいだ。霧が全てを包み、風がさらりと吹き抜ける。

気がつくと真夏はベッドの上にいた。そこは真夏の部屋だった。

胸の奥には、あの祠の景色が焼き付いていた。苔むした石段、祠の横で揺れる笹。そして笛の音。全てが夢のはずなのに、あまりに鮮やかだった。


「行こう。また、あの場所へ」

静かに呟いたその声に、自分自身が背中を押された気がした。



「帰ってきたか。収穫はあったのか?」

兼親のバイト終わりに、2人でファストフード店に来た。2人の今日の夕食だ。真夏はダブルチーズバーガーを、兼親はダブルバーガーを選んだ。それでもお腹の空いていた2人は、会話をするよりも先にバーガーを食べ終えてからやっとポテトをつまみながら話し始める。


「収穫はあったよ。山の伝承を聞いてきた」
「すごいな、それ」
「うん。博物館でガイドの人と少し話をして、それで山の伝承に詳しいお婆さんを紹介してくれた。あの辺では、よく笛の音が聞こえるらしいんだ。そして、鬼はいたって。銀の髪に、赤い目をした鬼が笛を吹いていたって言うんだよ」
「それってもしかして、真夏が夢で見る人か?」
「うん。そのままだよ。だから、夢のあの人は間違いなく山にいる」
「でも、それって過去の話だろう? 今もいるのかな?」
「今もいるだろうって。それに……」
「それに?」

真夏の話の続きが気になり、兼親はポテトをつまむ手が止まった。


「夢で会ったんだ。それで会う約束をした。会う場所も教えて貰った」
「じゃあ、今も本当にいるんだな」
「うん」

真夏が嬉しそうに頷くのを見て、兼親は複雑な気持ちになった。真夏の夢に繰り返し現れる人(鬼)は現実にいる。だから、真夏が記憶を全て取り戻したら会える。それはとても嬉しいことだ。真夏は小さい頃から夢を繰り返し見ていた。それは兼親も知っている。だから真夏のことを思えば嬉しい。だけど、それと同時に寂しいと思うのだ。真夏は全てを思い出したら行ってしまう。そうしたらもう会えなくなってしまうのではないか。そう思うと寂しいのだ。


「兼親? どうした?」
「え? 何も」
「そうか? なんだか辛そうな顔をしていたぞ」

考えていたことが全て顔に出ていたらしい。それなら聞いてしまえ。そう思い、兼親は素直に真夏に聞いた。


「全て思い出して、会うとしたらどうするんだ? 大江山と東京だと遠いだろ」
「……そうだね。遠距離……っていう手はないなぁ。千年以上離れていたのに、せっかく生まれ変わって会えたのに、遠距離とか。それなら思い出す必要ないし」
「そしたら……」
「あっちに、行くかな……」

真夏がその言葉を発した時、兼親は胸が苦しくなるのを感じた。真夏が行ってしまう。行ってしまったら、こうやって会うことは出来なくなる。何気ない話をして、笑って……。そんな当たり前の、今まで何回となく繰り返していたことが出来なくなってしまう。けれど、兼親がそう考えていることに気づいたかのように真夏は言った。


「行っても、きっと兼親とは会えるよ。山に来て貰う必要はあるかもしれないけど。その辺はよくわからないけど。全く会えなくなるのは寂しいよね」

会えなくなることを寂しく思うのは自分だけじゃない。そう思うと少し嬉しかった。子供の頃から今まで。ずっと隣にいたのだ。いなくなることが寂しくないはずがない。


「まぁ、あと少し思い出さなきゃいけない気がするんだ。それは笛な気がする」
「笛?」
「うん。博物館で龍笛を見た時、何かを感じたのに、あの人が持っていたのは竹の笛だったんだ」
「竹の笛? 龍笛じゃないのか」
「うん。だから、そこに何かある気がする」
「他は思い出したのか?」
「うん。どうして俺が死んだのか、あの人の名前は何か。しっかり思い出したよ」
「そっか。そうしたらあと少しなんだな」
「うん」

そう頷く真夏の表情は明るく、現実で会えることを楽しみにしている様子が伺い知れた。真夏が山へ行っても会えるにしても、もうこの関係は変わってしまう。真夏の隣にいつもいることは叶わなくなる。2人の関係が大きく変わってしまう。そう思うと、やはり悲しいなと兼親は思った。