EHEU ANELA

不出来なオメガのフォーチュン

第1章

世の中には第一性である男女に加えて、α、β、Ωという第二性(バース性)が存在する。

バース性は10歳の時に受けるバース検査でわかる。

αはエリート性とも言われ、何らかの特出した才能がある”エリート”だ。才能を欲しいままにしている人も多い。そして男女共に美しい人が多く、美男美女性とも言われている。

政財界、会社社長の多くがαであると言われている。

そんな、なんの弱点もなさそうだが、ひとつだけある。それはΩのフェロモンには適わないということだ。

近くでヒートを起こしているΩがいると、そのフェロモンに当てられラットを起こしてしまい、我を忘れてしまうことがある。そのためα用の抑制剤を飲んでいる人が多い。

数としては少なく、人口全体の10%と言われている。

そんなα性と対になるのがΩ性だ。αの寵愛を受けるΩは男女ともに小柄で愛らしい容姿の人間が多い。

Ω性は男性であっても子宮を持ち、妊娠・出産の可能な性だ。三ヶ月に一回、一週間ほどヒートと呼ばれる周期がある。その時は性のことしか考えられなくなり、フェロモンを出しαを誘惑する。

突然ヒートを起こすと危険なため全員が抑制剤をのんでいる。

ちなみにヒートが定期的にあることから、以前は一定の職につくのは難しく、性に特化した動物と言われるなど、差別を受けていたが、今では法規制もあり仕事にもαやβのように普通に職につくことはできるし、動物とまで言われていたのも、深刻な少子化を前に出産は国をあげて支援しているために差別はなくなってきている。

人口の5%と言われている希少種であるため、今は国をあげて保護していると言っても過言ではない。

そして最後にβ。βはいわゆる普通の人と言われていて人口の85%を占める。つまり、ほとんどの人間はβと考えて間違いない。

希少性であるαとΩには、番という関係性がある。ヒート中のΩとの性行為中にαがΩの項を噛むことで番関係が成立する。番関係は解消することはできないため、一生続く。

番を持ったΩのフェロモンは番にのみ向かい、不特定多数を誘惑することはなくなる。しかし、番のαとしか性行為ができなくなる。

そんな番関係の中に、運命の番、と呼ばれる番関係がある。通常時でも互いのフェロモンが強く香り、接触することで通常のヒートとは異なる、緊急ヒートを起こすことがある。しかし、巡り合うのはとても稀なため、都市伝説だとも言われている。

と言ったバース性をバース検査後、学校の保健体育の時間に徹底的に教わる。

この頃から男女と言った性別を意識しだすとともにバース性についても意識しだす。いや、普通の男女性以上にバース性別は意識される。

大人になると表立った性差別はないが、子供に関してはゼロとは言えない。子供ならではの無邪気な棘として、妊娠・出産可能な男Ωに棘は向く。いじめに発展することだってある。そのため、各学校のカウンセラーは男Ωの生徒に対して神経質になっている。いじめにでも発展したら男Ωの父兄が学校に乗り込んでくる、ということもあるからだ。


白瀬直生は、そんないじめを受ける可能性が少なくない、男Ωだ。

そのため、親も学校も判を押したように、いい年齢になったら番ができる、と言われて育った。一般でいう結婚と同じように。しかし、直生本人は、それは難しいだろうな、とΩと判明した時から思っていた。それは、直生の容姿とヒートの問題からだ。

小柄で愛らしい人が多いと言われるΩの中で、直生はΩらしくない。身長は特に高いわけではないが低くもない176cmある。顔だってぱっちり二重なだけで、取り立ててブサイクという訳ではないが、綺麗なわけでも可愛いわけでもない。どこにでもいる普通の顔だ。本人に言わせれば、「平凡が服着て歩いている」となる。

次にヒートだが、三ヶ月に一回と言われているヒートが直生は不順でとても乱れている。先月来たと思ったら今月も、なんてこともあるし、逆に半年ほどヒートが来ない、ということも多々ある。ホルモンのバランスが悪いのでは、とバース科の医師に言われ、ホルモン剤を投与して貰ったこともあるが、安定しない。そのため、三十歳という歳になった今もヒートは安定していない。

そんな理由から直生は自分のことを「出来損ないのΩ」と呼んでいる。

人見知りなのも手伝って、三十歳になっても番はおろか、まともに恋愛もしていない。ゆえに番関係を結ぶなんてことは一匙だってない。そんな人と出会ってもいない。

それなのに適齢期ゆえに、番はまだか、結婚はまだかと親や親戚にせっつかれるのはたまったものではない。かといってお見合いをしてまで番たくもないし、結婚したくもない。

番候補も結婚相手も見つけられないでいうのもなんだが、番や結婚は自分がいいと思った人としたいと思っている。それはお見合いなどではなく、自然に出会ってそういう関係になりたい。三十男がどこか夢見ている。

その前に、そんなに積極的に番を結びたいとは思わないし、結婚したいとも思わない。仕事は忙しいが楽しいし、一人は気楽だし、このままでいいかなぁ、とのんびり思っているくらいだ。まさかそんなことは親に言えないけれど。

運命の番でもいなければ一生一人だ、と思っているけれど、そこまでの悲壮感もない。それが直生だ。

でも、運命の番だなんて都市伝説だし、仮に本当にあったにしたって自分みたいな平凡な人間に起こるはずもない、と思っている。運命に特別や平凡などということは関係ない、ということも忘れて。


その日は夕方になって積荷の問題が起き、山となった明日フライトのインボイスを作りながら担当の中国とのやり取りを続けた。と聞くと大変なことが起きたと思われるが、大変なことではあるのだが、書類の不備があったりなんだかんだで、こんなことはよくあるので書類だけ急いで揃えれば済む。それでフライトに影響が出るものに関しては仕方ない。相手側に連絡をする。

今日は、書類の不備ではなく、機体が飛ばないというトラブルだったため、相手側にその旨メールで連絡した。相手方にも都合があるので簡単に納得してくれるはずもないのだが、向こうもフライトの問題はどうしようもないとわかっていての文句なので、そこまでエスカレートすることはない。海外なので、直接持って来い、などという文句もないし、その辺は国内より楽かもしれない。

この日も、差し替え用のインボイスとパッキングリストを揃えてFAXを用意した後は、翌日のインボイスを作りながらメールで中国とのやり取りを淡々として終わった。

珍しいことではないが、問題発生時の第一報を聞いた時は胃が痛くなる。もちろん、相手側とのやり取りも面倒くさい文句を聞くことになるから、疲れることは疲れる。しかし、この仕事に携わって八年になるが、貿易という仕事をやっていく上では回避できない問題だと思っている。だいたいが神経をすり減らす仕事なのだ。

とは言え、仕事は楽しいと思っている。特に成果をあげたりと言った仕事ではないけれど、学生の頃に思っていた語学を使った仕事であることは間違いないし、海外とのやり取りも問題さえ起きていなければ気楽に色々な話ができるのでトラブルが起きない限りは楽しい仕事だと思っている。

そんなこんなで、今日も残業の定時とも言える時間、夜の九時をまわった頃会社を出て、電車に揺られ、家の最寄り駅に着く。


「じゃ、お疲れ」
「また明日」

途中まで一緒に帰ってきた同僚と別れ、改札を出てネオンの派手な方へと歩いていく。とは言え、決してクラブ、キャバクラが軒を並べるここへ遊びに来たわけではない。

住処であるアパートに帰るためにネオン街を通るのが近いのだ。黒服もたまに声をかけてくるが、それらを無視して足早に歩く。

夕方に問題発生が起きると大体いつもこの時間になるので、黒服の声掛けにも慣れたものだし、あちらも、こちらが無視するのをわかっているのであまり声をかけてくることはない。声をかけてくるのは給料日から数日くらいだ。

ネオンが派手で、少し行くとラブホテルも存在するこの街は、夜になると目を覚まし、人々が集まってくる。

直生の住むアパートへ帰るには、別のきちんとした道があるのだが、いかんせん遠回りになる。そのため、通勤にはいつもこのネオン街を通っている。

夜は騒がしいこの街も朝はしんと静まり返っている。そんな街を働き始めた頃から歩いているから、最近ではネオンの派手さも、道行く人の欲望に満ちた顔も気にならない。ただ、黙々と歩くだけだ。

最近は朝晩とても冷えるようになった。そろそろ鍋でもしようか、などと考えながら歩いている足元はとても早い。疲れている体に冷たい風は余計にしみる。早く家に帰って、温かいお風呂に入りたい。

その時、どこからかサンダルウッドのようなオリエンタルないい香りがしてくることに気がついた。サンダルウッドは男性用の香水によくあるので、香水の香りがしたのだろうと最初は思った。

しかし、香水の香りがするほど近くにいるのは黒服だけで、黒服はシトラスの香水をつけていてサンダルウッドの香水などつけていないのはわかっている。それに、香りがするのはどこか一点から、というよりは充満している、と言った方が近いかもしれない。

けれど、周りの人間はその香りに気づいている様子はない。それに、香水といった人工的な香りとは違うような気がした。

何の香りだろう? そう思っていると、香りはどんどんと濃密になってきて、自然と視線を彷徨わせた。

そして、ある人に視線が止まる。その人もこちらに目を向け、二人の視線が絡み合う。

目があった瞬間、心臓は激しくドクっと大きな音をたて、目を離せなくなってしまった。

その人は、背が高く、切れ長の目はナイフのように鋭く、縁なしメガネをかけている。そして、その立ち姿は堂々としていて自信に満ち溢れている。冷たさは感じるものの、見た人はイケメンだと称賛するだろう凛々しさもある。

着ているものも直生が着ているような全国チェーンの吊るしのスーツとは違い、仕立ての良いものであることが遠目からでもわかる。そして、中に着ているシャツは光沢のある濃いブルーで品がある。きっとシャツもスーツ同様高価なのだろう。

男は視線の鋭さや纏う雰囲気、着ているものから、その筋の人間なのだろうと思わせる。

サンダルウッドの香りがするのは、その男からのようで、直生はその男から目をそらすことができずにいた。すると、男も目をそらすことができないのか、直生をじっと見ている。

そのまま時間が止まったように感じた。もちろんそんなことはない。お互いに目を離せなかったのは数秒だったのだろう。それでも、もっと長い時間のように感じた。それくらい強烈だったのだ。とは言って声をかけることもなくすれ違った。

男とすれ違うと、ホッとするような、それでいて寂しいような不思議な気持ちになった。冷たそうだけれど整った顔をしていたし、オーラも半端なかったから、αなのだろうと思う。

よくαはオーラがすごいという。職場の上司にαがいるが、βやΩと違って確かに独特のオーラがある。稀にβでもオーラのある人間はいるが、αのそれには敵わない。それほどすごいオーラを持っているのがαだ。しかし、先ほどすれ違った男が纏っていたオーラは、そのαの中でも、もっと圧倒的な、今まで感じたことのないくらいの強いオーラだった。きっとαの中のαなのだろう。間違えてもβには見えない。

しかし不思議なのはあれほど強烈な香りをさせているのに、ラットを起こしていたわけではなさそうだ、ということだ。

αはΩのヒートに煽られてラットを起こすが、今周りにはヒートを起こしているΩはいない。ということはあの男もラットを起こしているわけではない、ということだ。大体ラットを起こすと冷静ではない。野生化した状態がラットなのだ。

そしてもう一つ不思議なのは、あれだけの香りを放っているのに、誰もそれに気づいている様子がないことだ。恐らく直生しかそれに気づいていないだろう。それがなぜなのかわからなかった。

それにしても、あんなに圧倒的オーラを持っていたら人生思う通りにいかないことなんてないだろうな、と直生は思う。自分とは大違いだ。

直生はΩでありながらも、Ωらしくなく身長もそこそこ高い方だし、愛らしくも美しくもない。間違えても寵愛を受けるようなタイプではない、と自分で思っている。だから、いつか番ができて、子供を産んで、なんて自分の人生の予定の中にはありえないのだ。

運が良くて、βの女の子と結婚するのだろう、と思うが、それも難しいな、と最近では思っている。こんな平凡な、どこにでもいる自分と恋愛してくれるような、結婚してくれるような女の子がいるとも思えない。それこそ、全ての運を使う気でいないと起こり得ないだろう。

一人っ子の直生に親は、いつか番ができて子供を産むのよ、と言ってきた。女の子と結婚して子供ができて、とは言わなかった。多分、それは直生がΩだからだろう。Ωは子を孕み産む性だから。

でも、番ができなければどうしようもない。両親は直生に番ができると信じて疑わない。こんな自分を見て、どうして疑わずにいられるのか知りたい、といつも思う。いや、そう思わなければ孫を見られないと思っているからかもしれない。

なぜならΩの出産率は高く、通常の番で70%。運命の番だと100%と言われている。だから、ヒート時に性行為をすればほぼほぼ間違いなく妊娠するのだ。

少子高齢化が進みすぎ、国が頭を抱えた頃、バース性の研究は目覚ましく進み、Ωの出産率が明らかとなり少子高齢化に歯止めをかけるために、妊娠・出産するΩを国をあげて優遇してきた。Ωが定職につき、ひどい差別を受けなくなったのはその頃からだ。Ωの出産率はそれぐらい高いのだ。

つまり、番ができて性行為におよべば高確率で妊娠する。だから親も孫を期待するのだろう。それに対して申し訳ない、と思う。平凡顔でも番はできるかもしれない。しかし、直生の場合はそれに人見知りと消極性が追加される。積極性もないのだから、自分からどうこうすることはできない。相手からアプローチされなければいけない。そこでひっかかるのが平凡顔と高身長だ。愛らしいΩを寵愛したいαなら間違いなくスルーする物件だ。

背が高くてももう少し愛らしい容姿をしていたら番もできて子供を産むという人生も用意されていたんだろうな、と思うとため息をつきたくなる。

運命の番がいる、と小学生の頃に学校で習った。しかし、とてもレアなことだというのがわかっている。世界的に見ても少ないとバース科の医者が言っているくらいだ。だから巷では「都市伝説」と言われている。

きっと親は、そんな運命の番もいるのだから、と思っているのだろう。しかし考えて欲しい。そうそう出会わないから都市伝説なのだ。そんな都市伝説が自分の息子に起こると思うのか、と言いたい。

そしてそんな都市伝説は自分の身には起こらないと思っている。平凡顔消極Ωは埋もれていくだけなのだ。

思うようにいかないのが人生だ、と直生は思っている。そしてそれは先程の男にはわからないことだろうな、と思った。それくらい対極にいるタイプだ。

そんなことを考えると落ち込んでくる。精神的に良くない。コンビニで美味しそうなスイーツでも買って帰ろう。そう思って家路を急いだ。

それにしても、先程の香りは良い香りで、とても落ち着いた。その日の匂いは何日経っても忘れられなかった。


土曜日。

今日は、同僚で仲の良い和明の家に行く途中だった。和明は同期入社で、仕事では直生が書類作成をしている中国・香港の担当者だ。

日々海外と連絡を取り、注文を取り付け、フライトスケジュールを組み、そしてそれを直生に渡す。それが和明の仕事だ。そして、受け取ったそのスケジュールに合わせ書類作成をするのが直生だ。そんなふうに和明と直生は何年も一緒に組んで仕事をしている。そのため、仲はとても良い。

今日は和明の誕生日で、和明の家で宅呑みをする予定だ。だから、近所の輸入食品の店で二人の生まれ年のワインとそれに合わせてチーズを購入した。後はデパ地下で美味しい惣菜を見繕って買えばいい。和明も何か用意しておくと言っていたから、それで十分だろう。足りなければピザなり出前を取ればいい。

直生の家と和明の家は電車の路線が違う。なので公共交通機関を利用しようと思うと遠回りになるが、直線距離はそれほど遠くもないので、ネオン街を突っ切れば散歩がてら歩いていける距離だ。

ネオン街を抜け、和明の家に向かう途中にデパートもあるので、下手に電車で行くよりも歩いた方が早いし、ちょうどいい。そのため、仕事が休みの今日もいつものようにネオン街に足を踏み入れた。

時間は夕刻。少し早い夜の蝶たちが顔を出し始める時間だ。とは言え、それに群がる者たちが集まってくるのはまだ先の時間でそれほど騒がしくない。

このネオン街は基本的にクラブやキャバクラがメインで、そこに少しラブホテルがあるくらいで水商売の黒服が出ているくらいで特に危険なことのない街だ。

とは言え、水商売の店が多いということでヤクザといった反社会的勢力もいるのはいる。それは大体はケツモチだが、中には喧嘩をふっかけてくるチンピラも少数ではあるが、いる。なので、今日もほんの少し注意をしつつ、いつものように歩いていた。

いつもなら黒服が客を呼び込む店の前は、まだ誰もいなく、人とぶつかるようなことはないそこを足早に歩いていたその時、人にぶつかった。それほど広い歩道ではないが、人がすれ違うくらいは問題ない広さはある。しかし、その歩道で、すれ違う人と肩が軽くぶつかってしまった。


「すいません」

 

人にぶつかったので反射的に謝罪をする。が、ぶつかった相手が悪かった。一番会いたくないチンピラだった。


「こっちは怪我したんだよ。すっげー痛いから骨が折れてるかもしれねぇなぁ。あぁ? ここはきちんと責任取るべきだよなぁ?」
「え?」

軽く肩がぶつかっただけで骨折はありえない。絶対にありえない。普通であればそう言う。しかし相手が悪い。チンピラだ。チンピラ相手にそんなことを言って余計にヒートアップしたら困る。いや、今のこの状況自体がかなり困っているが。

こんなチンピラに理不尽な喧嘩をふっかけられてどうしたら良いのか、と必死に考える。考えるが、恐怖から頭がよく回らない。

いつもはこんなことなく安全に通れているのに、なんで今日に限ってチンピラに遭遇してしまうなんてツイてないにもほどがある。

さて、どうやってこの状況を切り抜けようか。言葉の謝罪だけでは済まないのはわかった。いっそ走って逃げるか? いや、走ったところで追いかけてくるだろうし、もしかしたら他にも仲間がいて、その仲間たちも追いかけてくるかもしれない。そうした場合、はさみうちになって不利だ。

いや、その前に直生は走るのが早いとは言えない。学生時代の体育祭では、ビリにはならないまでもビリから数えた方が早い、というありさまだ。そんな自分が走って逃げるのは得策ではない。すぐに追いつかれて捕まるのがオチだと思う。

ではどうしたら良いのか。病院にでも連れて行って、なんでもないことを証明すれば良いのだろうか。それはそれでまた面倒くさいことになりそうだけれど。

大体、どう見たって怪我もしていないのに、病院が診てくれるだろうか。かと言って、このチンピラたちの望みである、金だけ出すというのはしたくない。とは言えどうしたらいいのかもわからないのだけれど。


「なぁに、難しい話じゃないんだよ。病院に行くから病院代さえ出してくれればいいんだよ」

チンピラが口にしたのはやはりカツアゲだった。

いや、チンピラの場合はカツアゲとは言わないのか? カツアゲって言うのは不良の場合なのだろうか。まぁ、お金を巻き上げることに変わりはないけれど、ドラマの中みたいなこと、本当にあるんだなぁ、と、あまりのことに現実逃避で考える。そんなことをしている場合ではないが。考えるのはそんなことではなく、現状をどう切り抜けるかだ。

と、そんな時サンダルウッドの香りがしてきた。落ち着くこの香りを直生は知っている。数日前にここですれ違ったあの男だ。


「素人さん相手に何をしている」

柔らかさの中にも厳しさを感じる男の声だった。


「神宮寺さん」

その名前を口にしたチンピラの勢いが一気になくなった。

助け舟が来たか? いや、チンピラと知り合いらしいから助け舟にはならないか、そう不安になりながらも行方をじっと見守った。


「いや、この兄ちゃんがぶつかってきて肩の骨が折れたかもしれないから」

この期に及んでもまだ骨折だなんだ言うのだな、と直生は呆れた。


「お前の肩は少しぶつかっただけで折れるのか」
「え、いや……その……」
「そんな簡単に折れるのなら、元々ひびでも入っていたか」
「あ、はい!そうです」

神宮寺と呼ばれた男が口にした言葉が助けだと思ったチンピラは再び勢いづく。しかし、それもほんの一瞬だった。


「ひびが入ってるのにそんな普通にしていられたのか。そうは見えないが」
「えっと……あの……」
「それに折れているかも、と言う割には元気だな。痛くはないのか?」
「え? 痛い……痛いっす」
「そうか。なら、さっさと病院に行け」

その言葉に助け舟かと思っていたものが、やはり助け舟ではなかったのか、と落胆した。

この神宮寺という男も金を出せ、と言うのか。道行く人々は厄介事には巻き込まれたくないと素通りしていく。誰も助けてはくれない。そう思うと泣きそうになった。


「えっと病院代を……」
「なんだ病院代が足りないのか。あっちに銀行があるぞ」
「いや、その兄ちゃんがぶつかってきたから」
「ひびが入っていたなら、こんなところをフラフラしてるなんてできないはずだがな」
「その……」

窘められたチンピラたちは、直生から金を巻き上げようとした時と比べ勢いがなくなってきている。

とは言えまだ完全に事が済んだわけではない。

神宮寺という男は助け舟のようだけれど、チンピラと顔見知りなのだから最後まで気を抜くことはできない。

それなのに、サンダルウッドの香りを近くからずっと嗅いでいると気持ちが落ち着いてくるどころか、どこかボーッとしてしまう。どうも鎮静効果があるようだ。それで、つい色々考えてしまう。

香りを纏っている男を盗み見る。黙っていると冷たい印象さえ与える切れ長の奥二重の目も、こうやってみると血が通って感じる。もちろん、優しく見えるわけではないが。

でも、同じ男から見てもイケメンだと感じるその顔は、直生には羨ましいものだった。

だけど、どう見ても堅気には見えない。堅気にしては圧が強すぎる。

絡んできたのはチンピラだけど、後から話に入ってきたのが、どう見てもその筋の人というのは助かったのか、それともさらなるピンチに陥ったのかわからない。

チンピラからは助かったとしても、後からこの人から何かを要求されたりしないだろうか? はじめは助かった! と思ったけれど、神宮寺という男もその筋の人間に見えるので、落ち着いて考えると不安になってきてしまった。

チンピラも怖いけれど、この男も別の意味で怖い。

いや、でも堅気には見えないけれど、この人はそんなことをするようには見えない。もちろん、ただの印象だけれど。

それにしても、やはりいい香りだと思う。重めの香りで気持ちが安らぐ。

しかし、今回もそのことに周りの人間ーチンピラだがーが気づいている様子はない。こんなにも濃厚な香りなのに、何故みんな気がつかないのだろう。


「嘘をつくならもっとうまい嘘をついた方がいい。後、素人さん相手にふっかけるような真似はよせ。うちの名を汚すな」
「はい……すいません」

直生がつらつらとあらぬことを考えているうちに、チンピラと男の間で話がついていたようで、チンピラたちは直生をひと睨みするとその場を去っていった。

ボーッとしていると、神宮寺と呼ばれた男は直生に向き直った。


「大丈夫か?」
「え? あ、はい。大丈夫です。あの、ありがとうございました」
「……」

直生が返事をしても、神宮寺は黙ったまま直生を見つめる。何か言われるのではないか、と思うとドキドキして、つい上目遣いで見てしまう。

神宮寺が口を開くまで数秒だったはずだけれど、直生にはとても長く感じられた。


「あの時の。名前は?」
「白瀬直生です」
「俺は神宮寺だ。神宮寺誉」
「神宮寺さんですね」
「あぁ。ここにはたまにああいったチンピラがいるから気をつけた方がいい」
「はい」
「ところで香水か何かつけているか? バニラのような甘い香りがするんだが」
「香水も何もつけていません」

バニラのような香りがすると言われてびっくりする。直生が神宮寺を覚えていたのは、その香りとオーラからだったが、神宮寺が自分を覚えていたのも香りだというのか。しかし、直生は香りとなるものを一切つけていない。だから、自分から何か香りがするはずがないのだ。


「神宮寺さんは香水つけてますか?」
「いや、つけていない。何か匂うのか?」
「はい。サンダルウッドの香りが」
「そうか……」

お互いに香水をつけていないのに香りがする。それも充満する感じで。でも香水をつけすぎたようなのとも違う。

香水でないとしたら、それはフェロモンしかないけれど、お互いにヒートもラットも起こしていない。つまりフェロモンが匂うはずがないのだ。


「お前Ωだろう? ヒートは起こしてないな? こんなに堂々と外を歩いているんだから」

第二性を人に尋ねるのはセクハラに当たるとされている。でも今、第二性の話をしなければわからないことに直面しているから仕方ないだろう。


「はい。Ωですが抑制剤を毎日飲んでます」

抑制剤を飲んでいればヒートを最小限に抑えることができる。ヒートが不順すぎて抑制剤を飲まないと怖くていられない。

前回ヒートが来たのが先月だから普通なら二ヶ月後なはずだが直生の場合は次、いつ来るのか全くわからないのだ。順等に来れば二ヶ月後だが、もしかしたら今月来るかもしれないし、半年来ないかもしれない。全くわからないのだ。


「俺はαだが、今ラットは起こしていないし同じようにα用抑制剤を飲んでいる」

やっぱりαだったか。しかしαで抑制剤を飲んでいるのか。αがラットを起こすのは近くにヒートを起こしているΩがいる時なので、飲んでいない人が多い。


「そうか。お互いに匂うはずのない香りがしているんだな。しかもお互いにしかわからない」

お互いにしかわからないと言ったか。やはり今日のチンピラも香りはわからなかったんだな、と思う。


「先日会った時、βの運転手がいたが気づかなかったようだ」

お互いにしかわからない香りーフェロモンー。それが意味するものは……。

そんなはずがない。運命の番だなんて都市伝説だ。そんなものが自分に起こるはずがない。まして、こんなイケメンと。

仮に神宮寺がその筋の人間だとしても、彼と番になりたいという男女はごまんといるだろう。そんな彼に運命の番がいるというのはわかる。いや、イケメンだから運命の番がいるというわけではないが、自分に運命の番がいるとは思えないのだ。

だから、この件に関して神宮寺がどう思っているかわからないが、直生は”気のせい”の一言で片付けた。


「そうか……。まぁ、いい。気をつけて」
「あ、はい。ありがとうございました」

神宮寺と別れると足早にネオン街を通り抜け、デパ地下で美味しそうな惣菜をいくつか購入すると和明の家へと急いだ。


「まぁ、大事にならなくてよかったな」
「うん、それは本当に助かったよ」

和明の家へ着き、誕生日祝いをする。祝いと言ってはいるがただの酒呑みの口実に過ぎない。

空きっ腹では悪酔いする、と言って直生が持ってきたものや和明が用意していた食事を済ませ、酒を開けた。

そして、食べながらネオン街であったことを話したのだ。もちろん、ラットを起こしてもいない神宮寺からサンダルウッドの良い香りがしたことも、自分からバニラのような香りがすると言われたことも。


「そんなことってあるんだな。お前からもバニラの香りがするっていうんだろう?」
「うん。匂う?」
「いや。俺には全然だ。βだからかな?」

直生からはバニラの香りがすると神宮寺に言われた。けれど、和明にはその香りがわからないという。以前すれ違った時に神宮寺と一緒にいた運転手にも直生の香りはわからなかったという。つまり、直生の香りは神宮寺にしかわからないのだ。

最も和明も、その一緒にいたという運転手もβだからかもしれない。しかし、今日あの場にαやΩが誰もいなかったとは考えにくい。それに、ヒートでもない時に離れたところにいた人間にわかるほど香りを強く発していたというのならβの和明や運転手にだってわかるはずだし、居合わせたαやΩが反応しただろう。しかし、それはなかった。

もしかしたら微量なのかもしれない。しかし、離れていても気がついたのだから微量だとは考えにくい。とすると、それが意味することは……。


「運命の番だったっけか。それじゃないのか?」
「俺に運命の番なんていると思うか? それに運命の番は都市伝説だぞ」
「そうは言うけどさ、数例であれ近年だって運命の番の報告例はあるんだろう」
「そうらしいけど。でも、それが自分の身に起こるとは思えないんだよな。だって俺だぞ? 平凡が服着て歩いてるような俺だぞ? 人混みの中じゃ埋もれて消えちゃうんだぞ。他のΩみたいに可愛くも綺麗でもなくて、背だってΩにしては高いし」
「でも、運命の番なんだからどんな人間かなんて関係ないだろう。それにお前は自己否定が強すぎる」

和明には運命の番なのではないか、と言われた。それは自分も一瞬考えた。確かに運命なのなら、平凡だろうがなんだろうが関係ないのかもしれない。

それでも都市伝説とまで言われているものが自分の身に起きているとは思えないのだ。けれど、そうとしか思えないものが身に起きているのも事実で。それをどう考えていいのかわからない。

和明には否定したし、直生自身も否定しているけれど、運命の番と考えれば納得がいくのだ。いや、そうでないと納得できないのだ。それでもにわかには信じられなかった。


「まぁ、お前が自己否定しててもいつかはっきりするだろ」
「そう、なのかな?」
「でもさ、運命の番なら惹かれあうとかないのか?」
「さぁな」
「何もない感じ?」

そう問われて、うーん、と考える。惹かれてはいない。ただ


「落ち着くかな?」
「へぇ。やっぱり他の人とは違うんだな」
「かなぁ?」
「でも、運命の番なんてロマンチックだよなぁ」

と和明が夢見る表情をして言う。


「なんて顔してんだよ。キモいぞ」
「ひっでぇな。だってロマンチックだろ。βじゃそんなのないからな」

運命の番は普通の番関係よりも関係が強固で離れることはないと言う。

ロマンチック、か……。

自分があまりにも平凡すぎて、そんなの考えたこともなかった。平凡というのは直生の中ではトラウマなのだ。

高校生のときに当時好きだった子が友達と話しているのを聞いてしまったのだ。


「白瀬くん結菜のこと好きじゃない?」
「白瀬くんかぁ。悪くないのかもだけど、平凡すぎて影が薄いよね」
「うわっ、ひっど!まぁ、でも確かに人の中にいたら目立たないよね」

そう言って笑っているのを聞いてしまったのだ。それまでは不細工じゃないから、と思っていたけれど平凡ってそんなふうに言われるんだ、と傷ついたしトラウマになった。だから自己否定してしまうのだ。それは自己否定だけでなく、直生にとっては他人からの否定と変わりなかった。


「運命の番なんて平凡男には荷が重いよ」

それが直生の本心だった。