常連になっている喫茶店の窓際の席の向かい側に座る編集の千屋宗吾《ちやそうご》がそう言う。
確かにドラマ化ともなると原作本が売れるのはわかっている。ただ、ドラマ化ということで成功することもあるけれど、原作とは大きく変わってしまうこともある。
それが気になって千屋の言うドラマ化の話しになかなかイエスと言えないでいる。
そうか。ドラマの成功・失敗に関係なく原作本は売れるのか。それは作家にとっては嬉しい話しだ。それでも、それとは別に原作の世界がうまく描かれるかどうかは気になる。それも人選ができるのなら失敗のリスクは少ないのかもしれない。そうした場合、俺が損することはないだろう。真剣に考えてみてもいいのかもしれない。
千屋の勤める出版社が創立50周年を迎え、その記念パーティーがある。
ほんとは出たくない。人見知りはするし、華やかな場所も苦手だ。それでもデビュー作から、売れるかわからない本を出してくれているという恩があるから出ないわけにはいかない。
人見知りが強いので、できれば見知らぬ相手とは会いたくない。表紙をやってくれる人と毎回会っていたら大変だ。
しかしダイビング仲間でありフットサル仲間であるとは、相変わらずこいつは精力的に動いているらしい。
実は千屋とは大学時代からの友人だが、大学時代からあちこちに顔を出していたものだ。人見知りの俺とは対照的だ。
そう言うと千屋は頭を下げる。編集でありながら友人でもある千屋が頭を下げているのを見ると無碍にもできない。お人好しなのかもしれないけれど。
仕方がない、とため息をひとつついて引き受ける言葉を紡いでしまった。
薬井直人。画家……。
考えるけれど、聞いたことのない名前だ。
そう言って千屋は鞄から一冊の本を取り出した。
そういうと千屋は慌ただしく喫茶店を出て行った。
千屋が喫茶店を出て行ったあと、俺は千屋が置いていった画集を手にゆっくりとアイスコーヒーを飲む。
締め切り前のものがあるけれど、まぁまぁ進んでいて少しくらいゆっくりしていく時間はある。なので少しゆっくりするのは問題ない。
コーヒーを一口飲んで、千屋が置いていった画集をおもむろに開く。ページを捲っていって、あるページで手が止まった。
そのページに描かれていたのは海の絵だった。
目が痛くなるほどの海の青。そして雲一つない真っ青な空。ページ全体が青く染まっている。ページには青以外の色は一切ない。
ただの青とも言える。けれど……。
心臓が大きな音を立てる。
トーンが違う2つの青に吸い込まれる。
ただの青ということだってできるのに、俺は息をするのも忘れてただ絵に見入る。
ページを捲ることもできない。
海と空をただ青で描かれただけの絵だけれど、それがなぜこんなにも引き込まれるのか。理屈を問うても答えはでない。ただ感情が揺すぶられ、感情に訴えかけられる。こんな絵は初めて見た。
海の濃い青。空の明るい真っ青な青。
一口に青と言ってもそこには2色の青がある。いやもっとかもしれない。でもそれだけなのだ。
雲が描かれているわけでもない。鳥も魚もなにもそこには描かれていない。ただ色が塗られているだけ。
だけど、その絵は強い力で見る者を圧倒し、絵の世界に引きずり込む。
どれくらいその絵を見ていたのだろうか。ふと我に返りノロノロともう一杯コーヒーを口にし、画集のページを捲る。
パラパラとページを捲っていくと千屋が言った通り様々な絵があった。
一面のラベンダー畑。海の中を自由に泳ぐ色取り取りの魚。そんなカラフルな絵があるかと思えば、中には白と黒のみのモノトーンの世界もある。
恐らく基本的には鮮やかな色の絵を描くのだろう。画集の中は色取り取りの色で彩られている。この画家の中には一体どれくらいの色があるのだろうか。
青と言っても何色もあったように濃淡で様々な絵を描いている。
それくらい沢山の色を用いて絵を描いているけれど、この画家の魅力を一番現しているのは青だと思った。
真っ青な青から深い青。様々な青で描く海や空が印象的で、薬井直人という画家に興味を持った。
これはちょっと楽しみかもしれないな。
人見知りにも関わらず、そんなことを思うくらいにはこの画家と会うことが楽しみになっていた。この絵を描いたのはどんな人物なのだろうか。
付き合いのために仕方なく行くパーティーだったが、パーティーの日が楽しみになった。
一週間後。
俺はまた同じ喫茶店で千屋と顔を合わせていた。書いていた原稿を渡す目的だが、打診を受けていたドラマ化の返事をするためでもある。
ありがたいことにコンスタントに本を出させて貰っているので、ひとつ締め切りが終わってもすぐに次の原稿に取りかかることもあるし、原稿以外にもゲラが来たりもする。なので、なかなかに忙しい。それなのに脚本を書くというのは大変だろうとは思う。思うけれど作品を壊されたくない、という思いが強かった。
そう話しを振られて、ドキリとする。それと同時にあの青い空と青い海の絵が脳裏に浮かぶ。あの絵は、あのあとも折に触れて開いている。心を鷲づかみにされた作品だ。
売れっ子か。そう聞いても納得の絵だった。
そう聞いて、そう言えば先日会ったときにマルチな才能を持っていると言っていたが、作曲までするのか。
さすが大学時代からの知り合いだけあってよく知っている。
そんな男と会うのは見知らぬ人間だから怖さもあるけれど、どんな男なのだろうかと少し楽しみにもなった。