バンコクから帰ってきた翌日は夕方からの撮影だった。なので、撮影に行く前に母さんのお見舞いに行って、その後に事務所に行く。社長と事務の浅川さんにお土産を渡すためだ。
病室のドアをそっと開けると、おばあさんも母さんも寝ていた。母さんのベッド脇の椅子に座り母さんの寝顔を見る。母さんの寝顔なんて入院して初めてみた。入院病棟で看護師をしていた母さんは忙しくて、俺が起きているときに寝ていることはほぼなかった。
仕事が終わって家に帰ってくると掃除や洗濯をして、俺の食事を作って待っていてくれた。ほんとに一日中フル回転していた。だから病気になったんだろうか。少し安めと神様が言っているんだろうか。でも、死ぬのは違う気がする。
よく見ると顔色があまり良くない。体調があまり良くないんだろうか。でも、俺がバンコクに行っている間に逝ってしまわなくて良かった。こんな仕事をしているから、親が死んでも忌引なんてない。親が死んだ直後でも笑っていた、という話を聞いたこともある。せめて、死に目には会いたいけれど。
しばらく寝顔を見ていると、ゆっくりと母さんが目を覚ました。
心配していたのか一気に訊いてくる。
そう言うと母さんは小さく笑う。その笑顔が儚くて泣きそうになる。やっぱり体調があまり良くないんだろう。
俺は紙袋からストールを出して渡す。グリーンのグラデーションのそれは、色も明るく若々しく見えるだろうと思って選んだ。
俺がそう言うと、母さんはストールを肩に掛ける。
そう言って目を細める母さんは、俺に父さんを重ねているのかもしれない。
颯矢さんが巡り会う人ならいいのに。きちんと失恋させてくれないけれど、もう失恋したも同然だな、と思う。そう考えると鼻の奥がツンとする。やばい。今日はこれから仕事なのに。
颯矢さんのことになると、途端に泣き虫になる。男なのにみっともないな。
母さんにそう言われて時計を見ると、事務所に寄るならそろそろ行かなければいけない時間だった。
そう母さんに見送られて、俺は病院を後にした。
事務所に着くと、まっすぐ事務室に向かう。すると、浅川さんはすぐに俺に気づいた。
そう言って紙袋から出して渡す。浅川さんへのお土産は、ドリアンのチップスとタイのレトルトカレーと調味料だ。
辛いものがあまり得意じゃない俺とは全然違い、タイの辛さが好きな浅川さんへのお土産には絶対に食品にしようと思っていた。
これは事務室のみんなで食べれるように、チョコレートを買ってきた。
そう言って紙袋を渡される。
浅川さんに見送られ、事務室を出てすぐの給湯室から女性の話し声が聞こえる。前に颯矢さんのお見合いのことを聞いたのはここだったな、と思って通り過ぎようとしたところで、また颯矢さんの名前が聞こえた。
颯矢さんが結婚? 決まったのか? タイでなにか言いたそうにしていたのは、そのこと? でも、マネージャーが結婚しても俳優には関係がない。だって、俳優はただの仕事でしかないのだから。じゃあ、なにを言いたかったんだろう。そのときは無視したくせに、今になって気になる。
そうでなくてもさっき病院で泣きそうになったのに、今度は事務所でなんてたまったもんじゃない。ていうか、給湯室ってなに? 噂話をする場所なの? でも、女性が集まるとそうなるのかな。もう、それ以上考えたくなくて、足早に社長室のある6階を目指した。
6階で秘書の戸倉さんに訊くと、社長は来客中ということで、社長宛のお土産と戸倉さん宛のお土産を渡して事務所を後にし、タクシーで撮影現場へ向かった。
車中で考えるのは颯矢さんのことばかりだ。タイへ行く前に電話で話していた内容や、バンコクで女性向けのお土産を買っている姿を考えると、きっと結婚はするのだろう。そうしたら、失恋だ。きちんと失恋したかったけれど、告白をきちんと聞いてくれない事自体が答えなのかもしれない。だとしたら、もう随分前に失恋していることになる。
嫌だけど、きっと結婚式には招待されるんだろうな。颯矢さんがマネージしているのは俺だ。その俺が招待されないことはないだろうし、出席しなくてはいけないだろう。何が悲しくて好きな人が他の人と結婚するのを見なきゃいけないんだろう。マネージャーが颯矢さんじゃなければ良かった。そうしたら、颯矢さんを好きになることもなかった。たられば話ではあるけれど。
そんなことを考えているとまた泣きそうになる。これから撮影なんだから泣くわけにはいかない。でも、気を抜いたら涙が出そうで唇をぎゅっと噛む。仕事じゃなければいいのに。
俺のそんな気持ちとは裏腹に、タクシーは渋滞にハマることなく順調に進み、30分もすると撮影現場に着いた。
タイでのロケで一緒だったスタッフさんと言葉を交わす。
そして控室に入ると、颯矢さんはすでに来ていた。まともに顔を見れないし、話なんてできない。できれば会いたくない。でも仕方がない。仕事なんだから。
どうした? と訊かれて俺はなんて答えたらいい? 無理にでも笑ってなんでもない、とでも言えばいい? 颯矢さん相手に芝居なんてできないよ。でも、なんでもない振りもできなくて、つい俺は訊いてしまった。
ケッコンヲシヤニイレテツキアッテイル
ケッコンヲシヤニイレテ……
なにそれ。給湯室の話は本当だったんだ。
颯矢さんが結婚をする。
その言葉を聞いた俺は、足元から砂が削られていくようだった。
その日の撮影は颯矢さんの方を全く見ることなく、ただ演技をすることに集中した。亜美さんも疲れているはずなのに、演技に集中していたので撮影は巻いて予定より少し早く終わった。
20時少し前に終わったので、夕食はロケ弁を食べたし、この時間だと病院の面会時間は終わってしまう。かと言ってまっすぐ家に帰る気にもなれずに、ミックスバーに行くことにした。なので、バーから少し離れたところで降ろして貰う。さすがに近くまで行くとまずい。いや、ここもバーが多いから多少注意はされるけれど。
変と言われても困る。颯矢さんが結婚なんてしなければいいんだ。そうすれば以前の俺に戻れる。どこの世界に好きな人が結婚するって聞いて元気な人なんている? いないだろう。
大体、なんで気づかないの? 颯矢さんは聞き流していたけれど、俺は何度も、耳にタコができるほど好きだって言ってきた。そんな俺が様子がおかしければ、あの告白は本気だったんだとなぜ気づかない? その方が驚きだ。
颯矢さんの話も途中に俺は車から降りた。なんで気づいてくれないの。2年間も好きだって言い続けてきた。なんで本気に取ってくれないの?
そんなことを考えながらミックスバーのドアを開ける。
以前来たときはあまりお客さんはいなかったけれど、今日はそこそこいる。なんでだろう? と考えて、今日は金曜日だったことを思い出す。
そうか。サラリーマンにとっては華金なんだな。曜日も時間も関係ない仕事をしていると、曜日なんて忘れてしまう。
人はそこそこいたけれど、カウンターの奥の席は奇跡的に空いていたので以前と同じくそこに座る。すると、以前声をかけてくれた男性スタッフが目の前に来た。
接客をしているとお客さんの顔を覚えるものなのだろうか。
そういうと目の前でカクテルを作ってくれる。
そうだよな。明日、仕事だというのに度数の高いお酒呑むっていうんだもんな。まぁ、さすがにテレビ収録があるから、あまり深酒はしないようにはする。でも、今日は呑まないとやってられない。
一口、口に含むと、辛口なベルモットの味とジンの味がする。
そう言ってナッツを出してくれる。ほんとはチョコレート、と言いたいところだけど、タイでご飯をがっつり食べてきていたので、ほんの少しだけ甘いものを控えることにした。
まだ撮影が残っているから、さすがに今太るわけにはいかない。
こそっと言われる。なにを気をつけろっていうんだろう? そんな疑問が顔に出ていたんだろう。
そんなことをこそこそと話していると、隣に影ができる。
話をしているそばから声をかけられる。その言葉に頷くと、空いていた隣の席にその男は座った。
1人で呑みたくて来ているのに、なんでつまらないんだろう。なんて言えないから無視をする。
明日仕事の人間がマティーニなんて呑んでいるけれど。
結構しつこいな、とイラっとくる。1人で呑みたいんだからつまらなくもないし、放っておいて欲しい。
いや、あれ話していたうちに入るのか? と思うが、男は話していた、と言い張る。まあ、それならそれでいいけれど、あの人は引き際知ってるから。無理には話しかけてこない。あんたとは違う、と言えたらいいけれど、喧嘩になるから言えない。さすがに、城崎柊真だとバレてもまずいんで、早々に帰ることにした。
店を出るのにドアを開けたときに、腕を掴まれる。
そう言って少しキツイ目で見ると、諦めたのか手を離してくれた。最初から離してくれればいいのに。
ただ、このときカメラを向けられていたことには気がつかなかった。