イジュンがプリンも食べ終え、次はフルーツサンドを開けた。さっきまで居酒屋にいたのによく食べられるなと思う。
「明日海も。半分こ」
そういって俺にも2つ入りのフルーツサンドの1つをくれた。フルーツサンドなんてあまり食べたことないな。普通に売られているから、フルーツサンドが珍しいとも思ったことないし。だから、おそらく子供のとき以来のフルーツサンドだ。
「パンに生クリームって不思議だよね。でも美味しい。だけど、これはスイーツになると思うんだけど、普通のサンドイッチと同じ棚に売られているんだから不思議だ。日本人は普通に食事として食べているの?」
「うーん。どうなんだろう。普通の食事のときにフルーツサンドを食べているやつって見ないけど。でも、女子は知らない。男だといないけど。実際俺は子供の頃食べたっきりだ」
「やっぱり生クリームとか甘い物は女の人の領分だね」
そんな風に話していたら、遠くでゴロゴロと雷が鳴った。そういえば夜は雨が降るとかって言ってたな。折りたたみを持ってきて良かった。
「雨、来るかな」
「来るだろうな。もう食べ終わったか? 急ごう」
そう言って食べたものをゴミ箱に捨て、外を出る。ここから駅まではたいした距離はないから大丈夫だろう。そう思って半歩踏み出したところで、ばしゃりと頭の上から容赦なく降ったきた。
「わっ」
雨はイジュンの頭を濡らした。少し遅れていた俺は大丈夫だったけれど、イジュンが少し濡れてしまった。
「待って。今、傘出すから」
そう言って傘をさし、イジュンが濡れないように傘をさしかける。イジュンはびっくりしたように目を丸くする。
「明日海いいよ。明日海が濡れちゃう。それこそコンビニに傘ない?」
「あるけど必要ない。ひとつだけどここにあるし、ここから駅までは近いし、イジュンが泊まってるホテルまで送っていくから大丈夫だ。大体、買ったら帰国するときどうするんだよ」
そう言って、俺も傘の中に入る。お互い濡れないようにと傘の中に入ると自然とお互いの肩が触れあう。少し濡れてしまう反対側の肩とは対照的に、触れあう肩は温かい。イジュンの温かい肩を意識してしまう。なにもないのに。
「さっきまでは大丈夫そうだったのにね」
「秋雨って言う言葉があるくらい秋は雨が降るだろ」
そんな話しをしながら、雨に濡れたアスファルトを歩く。このまましばらく歩いていたい。そう思ってしまうほどには、雨音に包まれたこの空間が特別に感じた。
「そうか。朝、天気アプリを見てなかった。スーツケースの中には折りたたみが入っているのに」
「それならビニール傘なんて買わなくて良かったな」
「でも、明日海を濡らしてしまってる」
「そんなこと気にするな。男なんだから多少濡れたって問題ない」
俺がそう言うとイジュンは眉を少し垂らして笑う。なんか言いたそうだけど、なにも言わない。なんだろう。なにか変なことを言った覚えはないんだけど。
「明日海って優しいよね」
「え?」
「声をかけてきた見ず知らずの韓国人を美味しい店に連れて行ってくれて、それだけでなく、今日は無理だと朝言われたのに、夜、こうやって時間をあけてくれた。学校のことで忙しいのに。普通なら今日なんて知らんぷりなのに」
「昨日約束しただろう、案内するって。それなのに昼間案内できなかったんだ。俺が悪いだろう」
「そう思う明日海は優しいんだよ。日本人は優しいと思うけど、特に明日海は優しいと思う。ありがとう」
「なに言ってるんだよ。ほら、これ以上雨脚が強くなる前にお前の泊まってるホテルまで行くぞ」
「うん。ありがとう」
面と向かって優しいと言われたことが恥ずかしくて俺は足元を見た。
イジュンの泊まっているホテルは駅を挟んで500メートルちょっと。晴れていれば、いい散歩になるけれど、男2人で傘は一本だけとなると話しは違ってくる。それでも、2人で歩くこの時間が終わって欲しくないと思ってしまった。イジュンといると楽しいし、韓国のことを聞けるのは興味深い。
それでも、触れあう肩には少しドキドキしてしまう。体温の低い俺と違って、イジュンは体温が高めのようだ。肩から伝わるイジュンの体温が温かいから。……ってなに考えてるんだ俺は。傘が一本なんだから肩が触れるのは当たり前なんだから体温のことなんか考えるのがおかしいし、ドキドキするのはもっとおかしい。夕方まで必死に課題をやってたから、疲れて頭おかしくなってしまったんじゃないだろうか。
足元で水たまりの水が跳ねた。アスファルトの照り返しと街灯の光と、そこに映る俺たちの足。イジュンのスニーカーが一瞬濡れたけれど大丈夫だろうか。そう思うけれど、イジュンは気にせず歩いている。
しばらくの静寂の後、イジュンが口を開いた。
「あのね……」
「ん?」
「ほんとは今日、ちょっと落ち込んでたんだ」
「え?」
それは俺が約束を反故にして1人で観光させたからだ。
「あ、怒ったとかじゃないよ? ただ、朝メッセージで用事があるって言われたとき、ちょっとだけ、やっぱり俺なんて構って貰える人間じゃないかって思っちゃった。少しだけどね」
なんだ、その俺なんてって考えは。俺と会っているときのイジュンからは考えられない言葉だった。なんでそんな自分を卑下した言い方をするんだろう。今のイジュンは、目をキラキラさせて笑っているときとは全然違う表情をしていた。そして俺は思わず足を止めた。慌ててイジュンも足を止める。そして、俺の顔を覗きこむ。
「ごめん。変なこと言った。忘れて」
「変なことじゃないよ」
多分、いつもの俺なら、こっちは現役の大学生なんだから忙しくたって仕方ないだろ、と思ってたと思う。でも、今の俺は何故かきちんと受け止めなきゃって思った。
「朝、用事があるって言ったあと、お前が寂しそうなのは気づいてた。でもさ、落としたくない科目だからやるしかなくて」
「うん、そうだよね」
「だから夜連絡したのは埋め合わせなんだ。俺なりの。だから、そんな俺は優しい人なんかじゃない」
「優しいよ。優しくなかったら夕方連絡をくれたりはしない。それに、連絡をくれたとき俺は嬉しかったよ。明日海に会えるって」
「そうか……」
優しいのだろうか。単に元気のないイジュンを想像したら可哀想で、それならって巧真の言う通り必死で課題終わらせようと思っただけなんだ。それを優しいと言われたら気恥ずかしい。それに、なんて返したらいいのかわからなくて、代わりに傘の柄を握り直した。そして気がつけば傘は少し斜めになっていて、イジュンの方に寄っていた。イジュンが濡れないようにって無意識にしていたんだろう。そう気づくと少し胸の奥がざわついた。
そしてゆっくりとまた歩き出す。イジュンも隣で歩を合わせてくれた。言葉にしなくてもしてくれるそれに、心が温かくなった。
「日本のコンビニってなんでもあるよね。プリンもあるし、団子もおでんも傘まで」
「韓国には傘売ってないの?」
「どうだろう。気にしたことない。ないんじゃないかな? あっても、なんだろう、こう急に雨が降っても大丈夫って思える安心感はないと思う」
「そんなものかな」
「でも、今日は明日海が傘を持っていたから買わずにすんだ。ありがとう」
そう言ってイジュンは笑った。その顔を見て、イジュンには笑っている方が似合うなと思った。
「明日海に恋人がいないなんて、ほんとに不思議だ」
日韓のコンビニの話しをしていたのに、急に話題が変わり、俺はびっくりしてまた足を止めてしまう。
「確かに明日海は女の子より綺麗っていうのはわかるし、大学生って思ったより忙しいよね。中には遊んでるのもいるけど、普通はそれどころじゃないと思う。でも、明日海を放っておくのが理解できない」
イジュンは理解できないって言ってくれたけど、それだけ魅力がないんだろうと俺は思ってる。そんな話しをしているとホテルの明かりが見えてきた。
「あ、ホテルここ」
イジュンが指をさす。道路の向こう側に少し古びたビジネスホテル。駅から近い割には静かで落ち着いた立地だった。ここなら静に寝られるだろうし、観光をするにも駅が近いから便利はいいだろう。
「いいホテル見つけたな」
「ああ。うん。外観はちょっと古びてるけど、中はそんなことない。清掃も行き届いてるし、夜寝るだけだから十分だ」
「そっか」
「あのさ。今日はほんとにありがとう」
「こっちこそ。楽しかった」
それは本音だった。居酒屋で食べて飲んで、コンビニで団子とプリン、フルーツサンドを食べて、濡れながら歩いて。なにか特別なことがあったわけじゃない。居酒屋は安さは断トツだったけど、普通のどこにでもある居酒屋で、コンビニもどこにでもあるコンビニで、特に品揃えがいいとかそういうわけじゃなかった。なのになぜか印象に残った。なんでだろう。
「明日、会える?」
ホテルの前でイジュンが訊いてくる。俺は傘をさしたままイジュンを見た。髪が少し雨で濡れていて、顔に張り付いてる。視線は真っ直ぐで、ちょっとだけ不安そうな顔をしている。約束をしていたのに、今日ダメになってしまったから不安にさせてしまったんだろう。だから俺は言った。
「会えるよ。今度は課題もないし、授業が終われば時間はある」
俺がそう言うとイジュンの表情はパッと明るくなった。こんなに表情がくるくると変わる人を俺は初めて見たかもしれない。うん、やっぱりイジュンは笑った顔の方がいい。
「明日授業が終わったら連絡するから」
「うん。俺はアメ横を見てるよ」
「わかった」
「お休み、明日海」
「うん。お休み」
お休みの挨拶をすると、イジュンはさらに笑顔になり、背を向けると駆け込むようにホテルの中に入っていった。その背中を見送り、なんだか立ち去る気にならなくて、しばらくホテルの中のイジュンの背中を見ていた。そして、イジュンは俺に気づくと大きく手を振ってきた。その顔が笑顔のままなのに安心して俺はホテルに背を向けて歩き出した。気づけば雨は止んでいて、俺は傘を畳んだ。空気は少し澄んでいて、足元の水たまりにホテルの明かりが反射して揺れていることに気づいた。さっきイジュンに触れていた肩がまだ温かい気がした。もう隣にイジュンはいないのに。そこに確かにイジュンが隣にいたという証がある。それは何故だろう。気になるけれど、その理由は今は考えてはいけない気がした。そう。考えるのはもう少し先でいい。そんなことを思いながら駅へと急いだ。
*****
ホテルの中に入ってふと外を見ると、明日海がこちらを見たままなのに気づき、俺は大きく手を振った。そしてしばらくすると、背を向けて歩き出す姿を俺は少しの間見ていた。そして明日海の姿が通りの角を曲がり、見えなくなるまで俺はそこで明日海を見ていた。すっかり見えなくなってからエレベーターに乗り、部屋へと向かう。10階のその部屋はごく普通のビジネスホテルのシングルルームだ。建物は結構古く見えるけれど、部屋の中はそんなこともなく、掃除が行き届いていることもあって綺麗に見える。
着ていたセーターを脱いでみると、片側だけ濡れていない。そちら側は傘の中だったからだ。明日海の肩と触れていた場所。そう思うと胸が熱くなった。服を脱いで熱いシャワーを頭から浴びながら今日のことを考える。昨日、今日の約束はしていたけれど、ほんとにガイドをしてくれるのかと少し不安になって、朝、メッセージを送った。そうしたらその返事は、課題があるから無理だという返事だった。そのとき、ちょっと落ち込んだ、というか、あんなに綺麗な人が俺なんかの相手をしてくれることなんてないんだ、とひねくれて考えてしまった。きっと通りすがりでお腹を空かせていた俺が可哀想になってお店に連れて行ってくれただけなんだ。それでもまた会いたくて、時間が経ってから「また今度」と送った。
明日海のことは一目惚れだった。明日海に言うと怒られそうだから言わないけど、女性だと思ったんだ。日本の女性は小柄な人が多いけれど、韓国女性は平均的に背が高めだ。だから、明日海のことは背の高い日本女性もいるんだなって思ったんだ。それで声をかけたら男の声でびっくりした。でも、男だと気づいたときには遅かった。だって、もう好きになってしまった後だったから。だから、もう一度会いたくて、ガイドをお願いした。イエスの返事を貰ったときはすごく嬉しかった。また会えるって。そうしたら今朝のことで、つい自分のことを卑下してしまった。だから午前中は、部屋の中でごろごろとして過ごした。でも、短い日本旅行。そんなことをしてるのは時間がもったいないと思って、お昼前にやっと部屋を出た。そうしてスカイツリーに行った。スカイツリーで東京の景色を見たあとはまた浅草の町を歩いた。そして人力車に乗った。要所要所で写真を撮って貰って楽しかった。でも明日海がいたらもっと楽しかっただろうな。そう考えてしまったのは内緒だ。
「あっつ」
シャワーを浴びながら考え事をしていたら逆上せてしまった。ああコンビニに行ったなら飲み物でも買ってくるんだった。でも、あのときは明日海と一緒にいられるのが嬉しくてそれどころじゃなかったんだ。仕方なく、部屋に備え付けの冷蔵庫から水を取り出す。明日は帰りに買ってこよう。
水を飲みながら窓の外を見る。そんなに絶景っていうわけではないけれど、それなりの夜景が楽しめる。その夜景を見ながら、思考は明日海のことへと戻っていく。
浅草を歩いて、上野へ戻って来る途中で明日海からメッセージが来たんだ。課題が終わったから会えるって。それがどれだけ嬉しかったか。もう会えないかもしれない。ちょっとそんな風に思ったりもしていたから、会えると連絡をくれたことがほんとに嬉しかったんだ。昼間は課題で会えないって言ったんだ。だから今日はもう会えないと思っていた。なのに明日海はなんとか時間を作ろうとして、学校が終わったあと、必死で課題をやったって言う。それを聞いて、明日海の優しさに触れて、俺はもっと明日海を好きになってしまった。日本はどうか知らないけれど、韓国ではLGBTQに対する差別が強い。なんなら軍隊では違法行為だ。そんな中で育った俺が男を好きになって戸惑わないわけがない。だけど、明日海が綺麗なのは顔だけじゃないんだと思ったときにはもう遅かった。完全に沼にハマってしまっていた。だから居酒屋ではつい飲み過ぎてしまったんだ。明日海とは明日会う約束をしている。今度はきちんとガイドをするよと笑っていた。それは、今日の昼間ガイド出来なかったことを悪いと思っていたからだ。そんなにまっすぐな人を好きにならないはずがない。でも、あと数日もすれば俺は韓国へ帰る。明日海とは離れたくない。どうしようもないことだけどそう考えてしまう。
「なんで韓国人と日本人なんだろう」
仕方ないけど、ちょっと寂しい。
「やめた! もう寝よう。とりあえず明日は会えるんだから。お休み、明日海」
ここにいない明日海にお休みを言って、俺はベッドに潜り込んだ。

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