EHEU ANELA

切なくて、恋しくて〜zielstrebige Liebe〜

幸せに向かって2

ネルフィルターをセットし、ミルで挽いたばかりの粉をドリッパーに入れる。今日は久しぶりにホンジュラスを選んだ。残りわずかだから買っておこうかな。

お湯を注いでまずは蒸らす。だんだんと泡が消え、ボソボソと穴があいてきたら2回目のお湯を注ぐ。そうするとコーヒーの香りが部屋いっぱいに広がり気持ちが落ち着く。そして3回目のお湯を注いでコーヒーが落ちきるのを待ち、落ちきったらサーバーを軽く回してからカップに注ぐ。

今日は定休日だけど優馬さんが忙しくてデートはナシ。なので海に行こうかなと思ったけれど、12月の海は寒くて行くのをやめた。なので家でコーヒーでも淹れて本でも読もうと思った。冬の海も好きだけど寒いのが難点だ。よっぽどのときは行くけれど、今日はそんな感じではないのでやめた。

お試しで優馬さんと付き合うようになってから定休日に家で過ごすのは初めてだ。と言ってもまだ1ヶ月だけど。でも、毎週月曜火曜日はデートをしている。再来週辺りは落ち着くと言っていたから、1人で過ごすのは今日と来週くらいだ。そして、来週の月曜日10日は俺の誕生日だ。つまり、優馬さんから告白されて1年が経つ。もうそんなになるのかと思うと早いなと思う。まさかお試しでも優馬さんと付き合うことになるとは昨年の俺は思いもしなかった。だって俺は大輝のことをまだ好きだし、迎えに来てくれるのを待っていたから。

そう。昨年の今頃の俺は変わらずに大輝のことを信じて待っていた。だけど、ドイツで見かけてしまった大輝の姿に俺は優馬さんとお試しで付き合うことにした。とはいえ、まだ大輝のことを忘れたわけじゃない。嫌いになったわけでもない。優馬さんのことはいいなと思っている。もしかしたら好きになれるかもしれない。でも、まだ大輝のことが好きだ。大輝のことを知って、好きになったのは高校1年のとき。そして2年生になってから付き合うようになった。好きになって、もう10年以上経つのか。そんな長い間ずっと好きでいたから忘れるには時間もかかるし、他の人を好きになるのにも時間がかかるのかもしれない。だとしたらこのままお試しでも優馬さんと付き合っていれば好きになれるかもしれない。だってほんとに優しくていい人なんだ。来週の俺の誕生日は忙しいのにディナーに誘われている。ほんとに良くしてくれているし、会っているときは楽しい。だから、きっと好きになれる。いや、好きにならなきゃいけないんだ。

ソファーに座って、カップに口をつける。すると、キャラメルのような甘い香りが鼻孔をくすぐり、口に含むとフルーティーな酸味が口に広がる。普段はグァテマラやマンデリン、ブラジルを飲むことが多いけれどホンジュラスも好きだ。そう言えば、優馬さんはホンジュラスは好きだろうか? 店には置いていないけれど、今度淹れてあげよう。

こういったとき優馬さんのことを考える時間ができてきた。前は大輝のことしかなかった。美味しいコーヒーを淹れたとき。美味しいケーキを焼いたとき。美味しいものを食べたとき。俺が考えるのは大輝のことだった。淹れてあげたいな。食べさせてあげたいな。そうやって考えていた。優馬さんのことを考えるようになったのはお試しで付き合い始めてからだ。こんな時間を積み重ねていけばきっと好きになれるはずだ。

そうやって考えながらコーヒーを飲んでいるとスマホが振動してメッセージの着信を告げる。誰からだろうと思ってテーブルに置きっぱなしのスマホを手に取ると、優馬さんからだった。

送られてきたのはコーヒーカップの画像と、一言。『湊斗くんのコーヒーが飲みたい』きっとどこかでコーヒーを飲んだんだろう。時間的に少し遅めのランチだろうか。忙しくなってから、店に飲みに来るのは1週間に1回くらいになってしまったので、俺の淹れるコーヒーが飲みたいと昨日もメッセージが来ていたなと思い出す。思わずクスリとしてしまう。仕事が落ち着いたらホンジュラスでも淹れてあげよう。そう思って、やっぱり豆を買っておこうと決めた。

そしてやってきた俺の誕生日。昨年の今日、優馬さんに告白された。そして1年後の今、まだお試しで付き合っている。大輝がドイツへ行ったとき、こんな未来は想像もつかなかった。これで優馬さんを好きになれるといいのだけど。

昨年は朝1で優馬さんが来店したけれど、今年は仕事が忙しいので来れない。後は会社がお休みだからと舞さんが来たな。でも今年は休みじゃないから、と昨日1日早いけどと言って、誕生日おめでとうと言われた。後は夜、涼が来てくれるかな。夜、お店が閉店したあとは優馬さんとディナーに行く約束をしている。少しいいお店に予約を取っているからと言われている。なので、衿のあるシャツを今日は着てきている。ジャケットも着てきているからドレスコードがあっても大丈夫だ。不思議だな。昨年は今年こそ大輝が来てくれるかもと思って待っていた。でも、今年はもう待っていない。だって、大輝にはもう他の人がいるから俺を迎えには来てくれない。

昼間はいつもどおりに営業する。そして18時を過ぎた頃、涼が来た。


「誕生日おめでとう」

そう言って小さい紙袋を渡される。


「開けてもいい?」
「いいよ」

丁寧に開けると中にはスリムな本革のキーケースが入っていた。

 
「湊斗、キーケース持ってないだろ」
「うん」
「お店の鍵と家の鍵つけておけよ」

そう。俺はキーケースを持っていなくてそれぞれにキーホルダーを付けて持っている。


「ありがとう。さっそく後でつけるよ」
「使ってくれよ」
「で、今日はなににする?」
「んー。ブラジル」
「了解」

ゆったりとコーヒーを落としていくとコーヒーの香りが濃くなる。カップに注いで涼の前に静かに置く。涼はそれを熱いと言いながら飲む。


「うん、やっぱり美味くなったよな。正門さんの味と変わらないんじゃん?」
「いや、まだ後一歩足りない。でも、追いつくよ」
「そうかな。変わらないと思うけどな、俺の舌的には。ま、そんなに繊細な舌じゃないけどな」

そう言って涼は笑う。店内は一組のお客さんがいるだけなのでゆったりしていて、俺も涼と話す時間がある。


「今日、この後出かけるんだろ?」
「うん。食事に行く」
「そっか。あのさ……」
「ん?」

涼はなにか言いかけて口を閉ざす。なんだろう。いつも言いたいことはハッキリと言う涼が、こんなふうに口ごもるのは珍しい。


「どうかした?」
「いや……」

俺から目を離し、コーヒーカップに視線を一瞬落とす。ほんとにどうしたんだろう。


「食事、楽しんで来いよ!」
「え。あ、うん。ありがとう」

涼らしくないなと思うけど、それ以上は言わなさそうなので俺も敢えて追求はしなかった。でも、喉に魚の骨が突っかかったみたいにスッキリはしなかった。でも、言おうとしないのに無理矢理聞き出すのもどうかと思って俺も黙っておく。


「優馬さんはこれから来るのか?」
「うん。お店の閉店頃来るって」
「そっか……」

涼はなにか考えている顔をしているけれど、訊けない。ほんとにどうしたんだろう。閉店頃優馬さんが来るのってまずいんだろうか。優馬さんがなにか問題なんだろうか。


「優馬さんのこと好き?」

他のお客さんに聞こえないように、小さな声で問われる。好きか……。まだ好きとは言えないな。優馬さんには申し訳ないけど。


「まだ、そうとは言えない。でも、言えるようになりたいとは思ってる」
「そっか。言えるようになったら今より幸せになれるな」
「そうかな? そうだといいな」

大事にしてくれる優馬さんのことを好きになれたら、きっと俺は幸せになれる。そう思ってる。でも、まだ今は大輝のことを想ってしまうときがあるから。だけど、優馬さんとお試しで付き合うようになってまだ1ヶ月と少しだ。だからきっともう少ししたら好きになれる。そう信じている。

 
「俺は湊斗の幸せを祈ってるよ」

真面目な顔で言う涼に俺はありがとうと言って笑った。


「ご馳走さまでした」
「ありがとうございました」

20時45分。最後のお客さんが出て行って、少し早いけれどドアの札をCLOSEにする。21時を過ぎたら優馬さんが来るはずなので、それまでに洗い物とお店の掃除を済ませなくては。

涼はあの後もなにか言いたそうにしてはいたけれど、結局なにも言わずに帰っていった。なにが言いたいのか訊きたかったけれど深追いするのもどうかと思い、俺からはなにも言わずにいた。ただ、優馬さんのことかなとは思った。優馬さんのこと好きかって訊かれたから素直に答えたけれど、それがなにか関係するような気がした。だけど、俺の幸せを祈ってるって言ってくれてたから悪いことではないだろう。

奥のテーブル席を拭いているとドアベルの音がカランカランと音を立てる。優馬さんだろうか。でもまだ21時にはなっていないはずだ。


「すいません。もうおしまいなんですが」

そう言いながら顔をあげると、そこにいるはずもない人物の顔があり、テーブルを拭いてる手が止まった。


「大輝……」

手には薔薇の花束を持ってそこに立っている。


「誕生日おめでとう」

なんで? 

なんで来るの?

もう俺のことなんて忘れたんじゃないの?


「なんで……」
「約束しただろう。辞めるときには誕生日に迎えに来るって」

した。

約束した。

でも、もう迎えには来てくれないと思ってた。

だって、女の人と腕組んで歩いていたから。


「だって……女の人と……歩いてた。腕、組んで」
「デュッセルドルフで見かけたって? それは誤解なんだ」
「……」
「友だちの誕生日パーティーに行くのに、友だちの妹が一緒に来ただけ。腕を組んでいるように見えたかもしれないけど、俺は離せと言ってたんだ。それでも誤解させてしまったけど、付き合ってるとかそんなのじゃない」
「嘘だ……」
「ほんとだよ。湊斗のこと忘れたことなんて1日もない」

嘘だ。

誤解だなんて。

俺のこと忘れたことないなんて。


「それとも、もう遅かった? 他に好きな人できた?」

優馬さんのこと、知ってる?

知ってるとしたら涼だ。

俺は涼が大輝と連絡を取っていたのかは知らない。訊かなかった。涼と連絡を取っていたとしたって俺に連絡をしてくれないのは変わらないから。

俺はなんて答えたらいい? 好きな人ができたと言えばいい? まだ大輝のことが好きだ。本人を目の前にするとその気持ちが強くなる。ドイツへ渡った頃よりも精悍な顔つきになって格好良さに磨きがかかった。でも……。


「涼から話しは聞いてる。告白されたって。もう来るの遅かった?」

遅い。

そう言え。と頭の中で声がする。でも、俺の口は開かない。だって、まだ好きなんだ。優馬さんのことはいい人だと思ってる。でも、まだ好きとは言えないんだ。それくらい大輝は俺の心の奥深くにいたから。だけど、もう忘れるって決めたんだ。大輝のことは忘れて優馬さんのことを好きになるって。


「なんで……。なんで今来るんだよ……」

もう少し早ければ戸惑うことなく腕に飛び込んでいけた。

もう少し遅ければ、もう他に好きな人が出来たと言えた。例えそれが嘘でも。

だけど、今はどちらもできない。


「もう他の人好きになった?」

念を押すように訊かれて俺は下を向いて立ち尽くしたまま首を横に振った。

嘘でも頷くべきだった。でも、そう気づいたのは遅かった。それは温かい腕に抱きしめられたから。


「誤解させて、来るのも遅くなってごめん。告白されたって涼に聞いたんだけど諦められなかった。もう遅い?」

なんでそんなふうに訊くんだよ。腕を払えないんだからわかるだろう。


「泣かせてごめん」
「……ばか! 大輝のばか!」
「うん。ごめん」
「もう、他の人好きになろうって思ったのに」
「でも、まだ間に合った?」
「ばか! ばか、ばか!」
「ずっと好きだったよ」
「……俺も……俺も、好き、だった」

言ってしまった。好きじゃないって言わなきゃいけないのに。ばかだ。ばかは俺だ。

泣きながらそう思っていると、ドアベルの音がまたした。え、と思って顔をあげると、そこには優馬さんが立っていた。そして少し悲しそうに笑って言った。


「幸せにね」
「優馬さん!」

大輝の腕から離れて優馬さんを追いかけるけれど、優馬さんは静かに微笑んで去って行った。


「今のが告白された人?」

そう大輝に問われて頷く。


「幸せにする。もう泣かさないから。だから、俺の隣にいて」
「いいの? 俺で。女の人じゃなくて」
「男とか女とか関係なく、湊斗じゃないとダメだから」
「じゃあ、もう離さないで。1人にしないで」
「離さないし、1人にもしない。今まで1人にした分も、あの人の分も俺が幸せにするから」

そう言ってくれる大輝に俺は泣きながら抱きついた。






 END


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